Seminar Paper 2007

Mihoko Ikuta

First Created on January 29, 2008
Last revised on February 4, 2008

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The Color Purple におけるジェンダー問題
〜どん底から這い上がる女達〜

    The Color Purple のテーマは何か、と聞かれたとき、その一つとしてあげられるのはジェンダーに関する問題であろう。とりわけ主人公であるCelieが成長に伴い、一人の人間としての女に目覚めていく様は、この物語の核といってもいいだろう。Celieだけではない。彼女を取り巻くほかの女性たちも、絶対的な男尊女卑の社会にありながら、様々な問題を乗り越え“女性”として覚醒していく。しかし、この物語に出てくる女性すべてがそうであるわけではない。中には、それを受け入れているもの、社会的に取り決められた女としての役割に何の不満も持たずにいる女性もいる。では一体、“目覚めるもの”とそうでないものの間にはどんな違いがあるというのだろうか。私はここで、この“目覚めるもの”の共通点を、「人生のどん底を経験したもの」と仮説を立てようと思う。そして、主要な登場人物の過去や経験を辿りながら、彼女たちがいかにして目覚めていったのかを分析していきたい。

    まずは主人公のCelieから検証していく。彼女は父親(だと思っていた人物)に強姦され、好きでもないMr._のもとへ嫁ぐこととなった。そこでは、子供たちの世話をしたり、Mr._に暴力を振るわれたりと、酷い生活を送ってきた。妹のNettieが家を出てCelieの元へと逃げてきたとき、我侭な子供たちに文句一つ言わないCelieを見て、“You got to fight.”(p. 17)というシーンがある。それに対してCelieは“But I don’t know how to fight. All I know how to do is stay alive.”(p. 17)と言っている。過酷な状況下にありながらも、生きるので精一杯で、“女性”としてfightしようという気持ちはない。この時点ではまだNettieが傍にいたため、いくらか救いがあったのだろう。ところがMr._によって二人は引き裂かれてしまう。Nettieからの手紙は全く来なく、Celieはもう死んだのだと諦めてしまう。しかし、実はNettieはちゃんと手紙を送っていて、その手紙をMr._が隠していたのだと知ったとき、Celieはどん底に突き落とされる。唯一の心の支えだったNettieを奪われたことは、Celieにとって最も酷い仕打ちに違いない。そのショックの大きさは、次の文章から窺い知ることが出来る。  

   I don’t sleep. I don’t cry. I don’t do nothing. I’m cold too. Pretty soon I think maybe I’m dead. (p. 120)

    そしてこのどん底を境に、Celieは一人の人間である“女性”として目覚めていくことになる。その目覚めの第一段階が、Shugと共にメンフィスにいくCelieに反対するMr._に、Celieが初めて反抗する以下の場面である。

   You a lowdown dog is what’s wrong, I say. It’s time to leave you and enter into the Creation. And your dead body just the welcome mat I need. (p. 199)

    今までどんな酷い仕打ちを受けても反抗しなかったCelieが、Nettieを奪われたこたというどん底を経験することで、初めて立ち上がったのだ。覚醒したCelieはその後、言い争いの末Mr._と取っ組み合いをする。ノックアウトされしばらく気を失ったあとに目を覚ましたCelieの“I’m pore, I’m black, I may be ugly and can’t cook, a voice say to everything listening. But I’m here.”(p. 207)という言葉は、以前とは全く違う新しいCelieの誕生を意味しているのではないだろうか。Celieは以前、Nettieにfightしなくてはいけない、と言われたときは、生きているだけで精一杯で、闘うことなんて出来ない、闘ったって何の意味もないと言っていた。しかしここでは、今までずっと服従してきたMr._に自ら立ち向かい、fightしている。貧しくても醜くても、闘ってここに存在している。男尊女卑の社会の中で、男性に立ち向かい、必死に闘うCelieの覚醒が、ここにある。

    その後、メンフィスに移ったCelieはジェンダーフリーを意味するズボン作り、Shugからの自立、Mr._との和解を通して、一人の女性として生きていくこととなるが、Nettieを奪われたというどん底経験は、Celieの覚醒にとって大きなバネとなったといえるだろう。

    次に、そんなCelieを傍で支えてきたSofia、Shugについて検証していく。彼女たちは一見最初からジェンダー問題など超越していたように思えるが、彼女たちも辛い過去を背負っている。まずSofiaの過去について見てみよう。CelieのせいでHarpoに殴られたSofiaがCelieを問い詰めにいくシーンで、Celieは殴るようにアドバイスした理由を「闘うことが出来るSofiaを羨ましかったから」だと言う。それに対して、Sofiaは以下のように語るのである。

   She say, all my life I had to fight. I had to fight my daddy. I had to fight my brothers. I had to fight my cousins and my uncles. A girl child ain’t safe in a family of men. (p. 40)

    Sofiaもまた、酷い家庭で育ったのだった。本来心休まる場所であるはずの“家庭”の中でずっと闘わなければならなかったというのは、辛いことであっただろう。さらに

   She say, to tell the truth, you remind me of my mama. She under my daddy thumb. Naw, she under my daddy foot. Anything he say, goes. She never say nothing back. She never stand up for herself. Try to make a little half stand sometime for the children but that always backfire. More she stand up for us, the harder time he give her. (p. 41)

とあるように、彼女の母親は夫に服従せず、決して自分のためにfightしない人間だったという。守られるべき子供であったSofiaにとって、守ってくれる母親が自らのためにfight出来ない弱い人間だという事実は、非常にショッキングだったのだろう。母親は、Sofiaにとって反面教師だったのかもしれない。このような家庭で育ったからこそ、自分の身は自分で守るしかないと悟り、fightする強い“女性”へと目覚めていったのではないだろうか。

    次にShugについて分析していきたい。Shugはどこかカリスマ的要素を含んでいて、社会の中が決めた女としての役割を超えて生きている、本当の“女性”としての象徴として描かれている。彼女の場合、元々そういう女性だったのかもしれない。が、彼女の過去を探って見ると、その強さを助長させた一因と考えられるものがある。まず、彼女の育った環境についてだ。彼女はスキンシップの好きな子供だった。母親に対してもそれは同じだったが、一方の母親は、スキンシップを極端に嫌がり、Shugを拒否していたという。それはShugが男と身体を重ねることが好きだったからだとShugは言っている。母親がsexというものに嫌悪感を抱いていたのだろうか、ともかく母親はShugを嫌っていた。母親に愛されるという至極普通の情を受けてこなかったことは、Shugにとって悲しい事実だったのだろう。Shugがその後、益々sexを好きになり、誰彼構わず身体を重ねたり、Celieがいながら若い少年を好きになったときに“And you know I’m a high natured woman.”(p. 250)と、愛情や人のぬくもりに対して非常に強い願望を持っていることからも、Shugにとって幼い頃に母親から愛されてこなかったという事実がいかに辛い過去であったかがわかる。そして、アルバートと結婚できなかったことで、彼女はさらに打ちのめされてしまう。母親の愛情の欠如と愛する男と結婚できなかったというどん底が、彼女をより強い、社会的性を超えた“女性”へと押し上げていったと言える。

    物語の最初から真の“女性”として目覚めていたSofiaやShugに対して、Celieと同様物語の展開とともに自己覚醒した者もいる。それがSqueakだ。SqueakはSofiaがHarpoと別れたあとに出来た女で、黒人だが白人の血が混ざっているため肌の色がやや黄色い。彼女ははじめ“She a nice, girl, friendly and everything, but she like me. She do anything Harpo say.”(p. 82)という箇所からも分かるように、Celieと同じように男の言うままに行動する、いうなれば与えられた役割をこなすだけの女性だった。しかし、刑務所にいれられたSofiaを助けるために叔父である看守に会いに行った結果、彼に強姦されてしまうという酷い仕打ちを受けることで、そんなSqueakも“My name Mary Agnes, she say.”(p. 97)と、自己主張を始めるのだった。親戚に犯されどん底に突き落とされたからこそ、Squeakは本当の名前を通して、役割としての女から目覚めたのだ。それは“When I was Mary Agnes I could sing in public.”(p. 203)というセリフからも納得できる。このように、Squeakもまたどん底を味わうことで、“女性”として覚醒したのだ。

    一方で、冒頭にも述べたように、社会的に決められた女としての役割に不満を持たず、それを受け入れ生きる女性もいる。“目覚めるもの”の共通点が「人生のどん底を経験したもの」だというならば、そうでないものは「人生のどん底を経験していないもの」と定義できるだろう。ここでは、そういった女性たちについて分析を重ねることで、私の仮説をさらに裏付ける要素としたい。

    この物語に登場する人物の中で、Celie側の女性たちと真反対にいると言ってもいいのが、オリンカの女性たちだ。

   When I asked a mother why she thought this, she said: a girl is nothing to herself; only to her husband can she become something.
   What can she become? I asked.
   Why, she said, the mother of his children. (pp. 155-56)

    以上の文章から分かるように、オリンカの人々は、子供を産み夫に尽くすことで初めて女性としての価値が確立すると考えている。女性たちもそれを当然のものとして受け入れている。そのため、“Do not be offended, Sister Nettie, but our people pity women such as you who are cast out, we know not from where, into a world unknown to you, where you must struggle all alone, for yourself.”(p. 161)にもあるように、夫も子供も持たず、誰のためでもない自分のために生きるNettieを可哀想だと思っている。また、

   Our women are respected here, said the father. We would never let them tramp the world as American women do. There is always someone to look after the Olinka woman. A father. An uncle. A brother or nephew. (p. 161)

とあるように、この村ではオリンカの人たちにとっての女性の役目をきちんと果たしている女は尊重され、守られているという。このような価値観と環境のもとで育ったオリンカの女性たちだからこそ、夫を持つ・子供を産む・夫の世話をするといった、あくまで社会的な女としての役割のなかで生きていたとしても、それに何の疑問や不満も持たずにいられるのだろう。Celieたちと違って、社会的役割の女を演じていれば身の安全も幸せも保障されるようなある意味ぬるま湯的環境(Celieたちにとってという意味で)にいれば、わざわざその状況を壊してまで、役割としてではない、一人の人間としての女になろうと思うものはいるまい。

    今まで述べてきたように、ジェンダーを乗り越え、社会的役割としての女に囚われない一人の人間としての“女性”へ目覚めたものたちは、みな共通して人生のどん底を味わっている。彼女たちは、そのどん底から這い上がりfightすることで“女性”へと覚醒していくのだ。Celieは最愛の妹を奪われ、Sofiaは身を休めるべき家庭で自分の身を守らなければならず、Shugは愛情に飢え、Squeakは叔父に犯された。このようにどん底まで突き落とされた彼女たちだからこそ、それをバネにして立ち上がることができたのだ。この物語の核である“女性”としての目覚め。それは、人生のがけっぷちから這い上がる女たちの切り札なのだ。


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