Seminar Paper 2007

Naoko Motohashi

First Created on January 29, 2008
Last revised on January 29, 2008

Back to: Seminar Paper Home

The Color Purple におけるジェンダー問題
変わりゆくジェンダー意識

    The Color Purpleにおけるジェンダー問題は男尊女卑にあり、それは現在にまで続くジェンダーのステレオタイプ的な問題が根底にある。そのステレオタイプは主に、男性は強い生き物であり、女性は弱い生き物であるという考えから生まれてきている。  確かに生物学的な性差を埋めることはできず、それにより発生する肉体的な力の差があることは事実である。それにより守る・守られるという関係が築かれることはしばしばあっても、そこに人間的優劣が認められることは決してないはずだ。しかし大多数の男性は大多数の女性よりも強いという考えと、強い者は弱い者より勝っているという考えが合わさり、男女の間で強い男性が弱い女性に圧力をかけて封じ込めるという上下関係が築かれてしまった。そこで、力のある男性が外に出て働き力のない女性は家の中で生活をするもの、女は男の言うことに従うもの、というステレオタイプが生まれることになる。

    これらのステレオタイプは、The Color Purpleにおいてどれほどの影響を与えているか。まず、Mr._とセリーとが結婚をすることに決まるまでの過程で、結婚の当事者であるはずのセリーの意見が求められることは一度もなく、すべての話し合いは父親とMr._との間で済まされた。セリーに選択肢は存在せず、男性の決めたことに反抗することなく従うしか道はなかった。また、

“Harpo ast his daddy why he beat me. Mr._ say, Cause she my wife. Plus, she stubborn.”(p. 22)
“Wives is like children. You have to let ’em know who got the upper hand. Nothing can do that better than a good sound beating.”(p. 35)
から、ただ妻であるというだけで、夫の思い通りにならないというだけで、どんなに理不尽であろうとも女性は殴られていいもののようである。この2点から、女性は男性に意見することなく従順な態度をとることが要求される単なる男性の付属物でしかなく、従わなければ殴られるのが当然であるかのように思われている、人権すら無視された存在であるということが分かる。ソフィアやネッティー、Mr._の妹のケイトをはじめ、主に虐げられる立場に立たされる女性陣の中にはこのことを疑問視し、戦いの必要性を強く抱いている者が多い中、虐げる側であり被害をこうむることのない男性陣は、Mr._やハーポのようにそれを全く問題だとは思っていないというような考えが目立つ。上の立場にあるものは自分が間違っているということを考えることはなく、それにより問題解決が困難であることを鮮明に物語っている。  

    次に、「男は外、女は内」という考えから起こる問題であるが、そこには性別役割分業の考えも生まれてくる。

“The Olinka do not believe girls should be educated. When I asked a mother Why she thought this, she said: A girl is nothing to herself ; only to her husband can she become something.”(p. 155)
“But I am not the mother of anybody’s children I said, and I am something. You are not much, she said.”(p. 156)
では、 女性の存在価値は夫がいて子供の母親であってこそ存在するものであり、だからこそそれ以外の事柄は一切の価値も持たないという考えが克明に示されている。さらに
“Even though they are unhappy and work like donkeys they still think it is an honor to be the chief’s wife.”(p. 157)
“I was acting like somebody because I was Samuel’s wife.”(p. 187)
からも、女性の存在価値を高める役割を果たすのは彼女たち自身ではなく、首長であったり牧師であったりという夫の身分であるという考えが随所に見られる。また、
“Because she is where they are doing “boy’s things” they so not see her.”(p.156)
“Tashi is very intelligent, I said. She could be a teacher. A nurse. She could help the people in the village. There is no place here for a woman to do those things, he said.”(p. 161)
から、教育というものは社会に出る男性だけが必要なもので、家の中のことだけをやればいい女性にとっては使い道がなく必要のないもので、女性が男性よりも賢いことは意味がないというよりもむしろ許されないことであるとでもいうような考えが窺える。同様に
“Mayor_ bought Miz Millie a new car, cause she said if colored could have cars then one for her was past due. So he bought a car, only he refuse to show her how to drive it.”(p. 102)
からは、男性は世間体を気にして、身分が上であることを示すための必要最低限のものを与えることはしても、それ以上のものを女性に与えようとはしないことが、黒人や白人という人種の枠を超えて抱かれているものだということが分かる。

     それでも、これまで述べてきたさまざまな問題点は、物語が進行していくにつれて徐々に解決されてゆく。それ以前には自分の意見を決して男性に向けて発することのなかったセリーが“It’s time to leave you and enter into the Creation.”(p. 199)とMr._に対する決別を表明し、メアリ・アグネスが“I want to sing, say Squeak.”(p. 202) と自分の願望を口にし、家を出てメンフィスに行くことを自ら決めた。また、メアリ・アグネスは、

“She stand up. My name Mary Agness, she say.”(p. 97)
“Mary Agness, say Squeak. Squeak, Mary Agness, what difference do it make? It make a lot, say Squeak. When I was Mary Agness I could sing in public.”(p. 203)
から、自分を一人の人間としてきちんと認めて欲しい、本当の自分を見て欲しいことを訴えている。そしてセリーに復縁を求めるMr.__は、
“ Mr._ ast me to marry again, this time in the spirit as well as in the flesh, and just after I say Naw, I still don’t like frogs, but let’s us be friends,”(p. 283)
というように、セリーを自分の物扱いしていた今までとは違い、一人の人間としてとらえて意見を求めており、その上この場面では上下の関係ではなく友人という対等な関係が築かれた。

     さらに、パンツ作りで自分の店をもつほどに至ったセリーと、歌を歌うことで成功したメアリ・アグネスは二人とも、夫の従属物としての自分ではなく、自らの力で自らの存在を主張することとなった。ソフィアとハーポの間では、

“I ast Harpo do he mind if Sofia Work? What I’m gon mind for? he say. It seem to make her happy. And I can take care of anything come up at home.”(p. 281)
という発言から、性別役割分業が取り払われた考えが見受けられる。ハーポと同様にMr._も、セリーと別れてからは
“And clean that house just like a woman. Even cook, say Harpo. And what more, wash the dishes when he finish.”(p. 222)
“When I was growing up, he said, I use to try to sew along with mama cause that’s what she was always doing. But everybody laughed at me. But you know, I like it.”(p. 272)
“Mr._ is busy patterning a shirt for folks to wear with my pants.”(p. 283)
から見られるように、以前は女性がする仕事だと決め付けて手を出せなかったことを、素直な気持ちでこなすようになった。外に勤めに出るのは男性の仕事で家の用事は女性の仕事、という「男は外、女は内」の概念から見事外へと飛び出していったといえよう。また、自分を愛してくれてもいない夫と、かつて使用人であったソフィアに依存していた世間知らずなお嬢様のエレノア・ジェーンは、
“Maybe you ought to leave him, say Sofia. You got kin in Atlanta, go stay with some of them. Git a job.”(p. 266)
という言葉から、現実に目を向けて自分の力で生きていくための一歩を踏み出すことができた。女性の教育についての考えは、
“When I went to visit her she made it very clear that Tashi must continue to learn.”(p. 165)
“The boys now accept Olivia and Tashi in class and more mothers are sending their daughters to school. The men do not like it: who wants a wife who knows everything her husband knows?”(p. 170)
から、オリンカ村の大人の男性たちにとっては相も変わらず不必要なものとみなされてはいるものの、女性たちや若い世代の男の子の中では認められ始めたことが分かる。  

    この他のThe Color Purpleにおいて見られるジェンダー問題は、男性らしさや女性らしさという概念に絡んで発生してくるものである。例えば、

“Shug say, Girl, you look like a good time, you do. That when I notice how Shug talk and act sometimes like a man.”(p. 81)
“Harpo say, Whoever heard of woman pallbearers.”(p.217)
では、一般的に女性らしいとされる言動によってシャグやソフィアの行動が異色なものと認識され、女性としての枠組み内に納まっていないと思われている。
“What I need pants for? I say. I ain’t no man.”(p.147)
“Men and women not suppose to wear the same thing, he said. Men spose to wear the pants.”(p. 271)
からは服装の面での男女のステレオタイプが形成されていて、それぞれの性別によってふさわしいとされる格好が限定されていることが窺える。しかし、
“Shug act more manly than most men. I mean she upright, honest. Speak her mind and devil take the hindmost, he say. You know Shug will fight, he say. Just like Sofia. She boun to live her life and be herself no matter what.”(p.269)
“They hold they own, he say. And it’s different.”(p. 269)
という考えから、男性であるとか女性であるとかそういう性別で人を見るということではなく、それぞれ一人一人の人格を認め合うことによって、これらの問題も解消されている。

    いつの時代でも、どんな場所でも、自分たちの生活の中で大勢が思う「普通」の枠から少しでも外れた箇所が見られると、それは差別を受ける対象となることが多々ある。ましてや元々強く意識されていた面を刺激されたならば、それは一層厳しい差別の目にさらせれることとなるだろう。The Color Purpleの中では、現代社会の中でも未だに取り上げられているようなジェンダー的ステレオタイプの問題点が数多く見られたが、この作品の中でもちろん、これらのステレオタイプに当てはまらない登場人物が幾人か存在した。体格が良く力も強く、自分の意思を通して夫に服従することなく生きたソフィアは、夫であるハーポに殴られたり、刑務所に入れられたり、白人のメイドとして自分の子供にも会えないような生活を余儀なくされる状況に陥る。仕事でも男関係でも、自分の好きなことを自由奔放にやりたい放題やってのける人生を歩んできたシャグは、人気歌手としての地位を築きながらも世間的に冷たい批判を受け、病気になっても身内から見捨てられることがあった。女性の価値は教育にはあらず、結婚にこそあると考えられているオリンカ村で宣教師として働く未婚のネッティーは、使用人だと思われて宣教師としてさえも見られておらず、オリンカ村の人々からするともはやかわいそうな人扱いである。このように、やはりそれぞれの人物はそのステレオタイプが存在する社会の中では少数派の存在で、「普通」の枠からはみ出てしまっている。「普通」でないことが悪目立ちして、つまはじきに遭ってしまう。自分と違う部分があるからといって、少数派であるからといって、力がないからといって、それが自分よりも劣っていることとは繋がらない。また、例え何かしらの劣っている面があったからといって、それが虐げても構わないという理由になるわけではない。そのことが理解されることもなく理不尽に虐げられ続ける中で、それでも屈することなく立ち向かい、長い間戦い続けるからこそ改善される問題がある。そのことが、The Color Purpleにおけるジェンダー問題を通して読み取ることができる。


Back to: Seminar Paper Home