Seminar Paper 2008
Kato, Yui
First Created on August 9, 2008
Last revised on August 9, 2008
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The Catcher in the Rye における “fall” の概念
〜大人へと落ちていく?〜
“fall” ・・・落ちる、落下する、垂れ下がる、弱まる
The Catcher in the Rye を読み進めていく過程で、どうしても外すことの出来ないキーワードとしてあげるのならば、この2つであろう。この、”fall” および、”fall down” は、物語中、幾度と無く主人公ホールデンの心を映し出す単語として、効果的に使用されている。実際に ”fall down” (転ぶ)として使われている箇所ももちろん存在するが、重要なのは、子供から大人へと成長する狭間で苦しむホールデンが、「子供」から「大人」へと落ちていく、ととらえていることである。 まず、“fall” についてみてみる。彼は、自分の考え、悩み、理想と、社会、大人、学校などの現実とのギャップに、日々困惑し、割り切れない思いを抱いている。彼の人生観から言わせると、世の中にはphony (インチキ)な大人ばかりがいて、人間は、勝ち組か負け組かで雲泥の差がある、というのである。学業の成績が悪かったためにペンシー高校を退学処分になったときも、お世話になったスペンサー先生と、こんな会話をしている。 “Life is a game, boy. Life is a game that one plays according to the rules.” 負け組側であるホールデンにとって、人生とは実に不平等で、理解しがたいものなのだろう。彼はまた、大人についてこう述べている。“People always think something’s all true. I don’t give a damn, except that I get bored sometimes I act a lot older than I am―I really do―but people never notice it. People never notice anything.” (p. 9) ニューヨークに到着してすぐ泊まったホテルで出会ったエレベーター・ボーイのように、平気で人を騙して金を奪う大人。自分の伯母のように、綺麗な身なりをして慈善活動をするような大人。そして、ホールデンを全寮制の学校に入れ、退学になってはまた別の学校へ入学させるというだけの、自分の父親のような大人には、嫌悪の気持ちを抱いているし、だからこそ、そんな大人にはなりたくない、いつまでも純粋で無邪気な子供のままでいたいと強く願っているのだ。 この物語のタイトルは、The Catcher in the Rye=「ライ麦畑でつかまえて」であるが、もうひとつ別の解釈をすれば、「ライ麦畑にいる、捕まえる人」ともとれる。 つまりホールデンは、崖の上にあるライ麦畑で遊んでいる、子供たちが、崖の下、大人へとfall 、落ちてしまいそうなとき、それを捕まえてあげる、catcherになりたいのだというのである。これは、彼自身がはっきりと妹のフィービーに打ち明けている。 “Anyway, I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody’s around―nobody big, I mean―except me. And I’m standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff―I mean if they’re running and they don’t look where they’re going I have to come out from somewhere and catch them. That’s all I’d do all day. I’d just be the catcher in the rye and all. I know it’s crazy, but that’s the only thing I’d really like to be. I know it’s crazy.” (p. 173) では、もうひとつの ”fall down” という言葉は、この作品の中でどんな意味を持つのだろうか。まず最初に使われているのは、“It was icy as hell and I damn near fell down.” (p. 5) の箇所である。この場面は、ペンシー高校を退学になったばかりのホールデンが、スペンサー先生の家に向かうところだ。ここでは単に、転びそうになったという直接的な意味だけでなく、退学直後のホールデンの孤独や寂しさ、まるで自分は消えてしまうのではないか、というような不安な心情を表している。 次に、”It was pretty dark, and I stepped on somebody’s shoe on the floor and damn near fell on my head.” (p. 46) の箇所。これは、ホールデンのルームメイトであるストラドレーターが、昔ホールデンの家の隣りに住んでいたジェーンという女の子とデートをしてきた後の場面である。ホールデンが昔から一目置いていたジェーンと、格好ばかりつけて口だけはうまいストラドレーターがデートしたこと、また、彼女のことを “it” だの “take” だのと言うことに腹をたてたホールデンは、彼と殴り合いの喧嘩を始める。 上の文章は、その喧嘩のあと、隣の部屋のアクリーのところへ進入する、というところである。このことから、上記の “fell” は、場面の切り替えを示すことにも、一役かっているように思う。 そして、この章の最後の部分でも、“Some stupid guy had thrown peanut shells all over the stairs, and I damn near broke my crazy neck.” (p. 52) とある。これは、夜中にこっそり寮をでていくとき、静かな廊下で、気にくわない寮の生徒達に向かって “Sleep tight, ya morons!” と叫んだあとの場面である。勝ち組である彼らに喧嘩を売るような言い方をして、彼らをやっつけたと思った矢先、彼らの蒔いたピーナッツの殻を踏んで転びそうになる。ここでの “fell” は、負け組はやはり勝ち組には勝てない、という意味が隠されている。このほかにも、 “Finally, somebody knocked on the door, and when I went to open it, I had my suitcase right in the way and I fell over it and damn near broke my knee. I always pick a gorgeous time to fall over a suitcase or something.” (p. 93) などの箇所がある。これらの場面を総合的に見てみると、それはいつも、ホールデンの転換期、あるいは何か予期せぬ出来事が起こるときに用いられているように思う。 学校を退学になり、これからの身の振りを考えなくてはいけないとき、このときはまたスペンサー先生に、「人生はゲームだ」という説教じみた話しを聞かされる場面でもあった。 寮で、ストラドレイターと殴り合いの喧嘩をしたあと、彼は絶望的な孤独に苛まれる。そして、立ち去る場面では、これまでの生活から抜け出し、まさに、新たな生活に飛び込んでいくところであった。しかしここでも、ホールデンはニューヨークに帰ってから、災難続きだったことを考えると、なにか悪いことの前ぶれであったような気がする。 怪しいエレベーター・ボーイに女の子を紹介してもらったときも、結局はその子を部屋に招き入れたことによって、後に殴られるという結果になった。 また、アントリーニ先生の家をでたあとも、行くあてもなく、ふらふらと街をさまよい歩き、もう二度と家には帰らず、ひとり西部のほうへ向かおうと決心する。しかしこの計画もうまくいかず、自分も一緒についていくと言ってきかないフィービーと険悪なムードになってしまう。 私がこの物語の中で特に好きなところは、1番最後のシーンである。 雨の降るなか、フィービーがメリーゴーランドに乗ってぐるぐる回っているのを、ホールデンが見ている場面。 “My hunting hat really gave me quite a lot of protection, in a way, but I got soaked anyway. I didn’t care, though. I felt so damn happy all of a sudden, the way old Phoebe kept going around and around. I was damn near bawling, I felt so damn happy, if you want to know the truth. I don’t know why. It was just that she looked so damn nice, the way she kept going around and around, in her blue coat and all. God, I wish you could’ve been there.” (p. 213) このときのホールデンのとても幸福な気持ちというのが、なんだか理解できる気がするからである。これまでずっと、「いつまでも無垢な子供のままでいたい。大人になんてなりたくない」と、子供と大人、または現実と理想の狭間で揺れ動いてきたホールデンであったが、ここでメリーゴーランドに乗るフィービーを見て、「子供達の無邪気さや汚れの無さというのは決してなくなってしまうわけではない。このメリーゴーランドのように、世界はいつまでもぐるぐると回り続ける。自分はもうこの乗り物からは降りてしまったが、フィービーのようにまた次に乗る子供達がいてくれるんだ。」という、救われた気持ちになったのだと思う。 ホールデンは先にも述べたように、ライ麦畑にいる純粋な子供達が、大人へと続く崖から落ちてしまうのを、助けるような人になりたい、と言っていた。しかし、その崖はホールデンが想像しているような切り立った崖ではなく、きっとなだらかな丘のようになっているのだろう。私達はみな、その丘を、知らず知らずのうちに下って行くのだ。 一般的に、子供から大人になること、また世の中の不平等さについて、さほど疑問や不信感を抱いたりせず、気づけば昔とは違う自分になっていた、というひとがほとんどだ ろう。しかしホールデンは、自分の気持ちに正直かつ素直であるため、自分の考えに反したり、理解に苦しむことにはいつも立ち向かう姿勢を見せている。私達が、ごく当たり前のことであると感じている、子供から大人への成長。彼は、それを “fall” ととらえて、自分自身の変化や回りの環境にとまどい苦しんでいる。 私は、「大人への階段を上る」という言葉があるように、大人になることは、色々な意味で今の自分よりも更にステップアップするような印象を持っていたので、この物語を読むうえで、ホールデンの “fall” の発想はとても興味深いものであった。 |
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