Seminar Paper 2008

Ogasawara, Yui

First Created on August 9, 2008
Last revised on August 9, 2008

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ホールデンと赤いハンチング帽
〜3日間の経験−子供から大人へ−〜

    The Catcher in the Rye は、誰もが持ち得る現実と理想の間で揺れる主人公、ホールデン・コールフィールドの3日間にわたる葛藤を描いている。

    ホールデンは子供のような心を持ちながらも大人のような外見をもち、大人のような行動をする傾向がある。また純粋(innocent)なものに強く惹かれながらもインチキ(phony)なことをするという矛盾した行動が多く見られる。これはホールデンの大人になりたくないという反抗の気持ちを表すと同時に、精神的に未熟である “青年”であるからこそ見られるのではないだろうか。イギリスの哲学者ロックは、「生まれたての人間の心は白紙である」という経験論を説いた。人間は経験することで心を得るという。それと似てこの作品は、人間は様々な経験をすることによりあらゆるものを取り入れ、考え方なども変わるが、それはインチキ(phony)への成長だけでなく、経験によって精神的に良い成長もできるということを象徴している作品である。今回、独特に見えるホールデンの特徴と、彼がいつも被っていた赤いハンチング帽の象徴性を分析しながら、この作品のテーマを論じていく。

    まず、ホールデンの精神的未熟さを見ていく。ホールデンの精神的未熟さは、純粋(innocent)なものへの強い執着心から読み取れる。大人=インチキ、子ども=純粋という概念から大人になりたくないホールデンはあらゆる場面で純粋なものに惹かれている。それが最初に表われているのが次の部分である。

“The best one in it was “The Secret Goldfish.” It was about this little kid that wouldn’t let anybody look at his goldfish because he’d bought it with his own money. It killed me.” (p. 2)

    これは、作品の冒頭でホールデンの兄D.B.が書いた物語について語っている場面である。普通は所有欲を満たすために物を買いお金を使うが、この話の子はそれをしないという、子どもの純粋さに共感し、”It killed me.” と大絶賛していることがわかる。またこれと同時に、インチキなものへの嫌悪を表わしている部分がある。それは、普通の作家から映画の脚本家になった兄に対してである。映画の脚本家という儲かる仕事、つまりお金のために転職したことにより自分の才能を花開かせなくなった兄に対し、” being a prostitute.”と言っている。映画が兄をphonyにしていると考え、”If there’s one thing I hate, it’s the movies.” と映画を批判している。ここで思い出されるのが以下の部分である。

  “But I’m crazy. I swear to God I am. About halfway to the bathroom, I sort of started pretending I had a bullet in my guts. ” (pp. 103-104) 

“When I was really drunk, I started that stupid business with the bullet in my gut again.” (p.150)

    この2つの部分でホールデンは嫌いなはずの映画の世界を自らが悲劇のヒーローにでもなったかのように演じている。またこの2つの場面で共通するところは、心に傷ついたときにこのような行動をとるという点である。心が傷ついたというのを銃で撃たれて傷つくという状況で表わしているのである。つまりこの行動は現実逃避であり、惨めな自分を忘れるための行動なのだ。このようなすぐに現実逃避する様子からも、ホールデンの精神的弱さがうかがえる。

    作品中、ホールデンは幾度となく強い孤独を感じている。それはまず、ホールデンの物語が始まるトムセンヒルの頂上に立っている場面から読み取れる。ホールデンはフットボールの試合の応援に行かず、“たった一人”で丘の上からグラウンドを“見下ろしている”。このことから冒頭からホールデンが孤独であることが象徴されている。またクレイジーな大砲の横に立ち、グラウンドを見下ろしている状況をinnocentとphonyの世界と置き換えてみると、ホールデンはinnocentな世界に立ち、崖の下のphonyな世界を見下ろしていることがわかる。崖の方向を向いていることからホールデンが大人になる、つまりphonyな世界に向かっていることが象徴されているのである。 ホールデンの孤独感は、こんなところからもうかがえる。

 “The funny thing is, though, I was sort of thinking of something else while I shot the bull. I live in New York, and I was thinking about the lagoon in Central Park, down near Central Park South. I was wondering if it would be frozen over when I got home, and if it was, where did the ducks go. I was wondering where the ducks went when the lagoon got all icy and frozen over. I wondered if some guy came in a truck and took them away to a zoo or something. Or if they just flew away.”(p. 13)

    これは、ペンシーでの最後の日にスペンサー先生と話をしながら頭の中で考えていたことである。ここから読み取れることは、ニューヨークのセントラルパークの池にいるアヒルと自分を重ね合わせているという点である。冬に池が凍ると居場所をなくしたアヒルはどこへ行くのかということと、ペンシーを退学になり居場所をなくした自分はこれからどうなるのかというアヒルの運命=自分の運命のように重ねて考えている部分があり、このように考えるほど精神が不安定であることが表わされている。

    このように精神的に未熟で気持ちが不安定なホールデンの心を3日間支えていたものが赤いハンチング帽である。ニューヨークのスポーツ用品店で買ったその赤いハンチング帽は、“赤い”というところに重要性がある。それはホールデンが大好きな亡くなった弟アリーやかわいい妹フィービーの髪の色が赤毛というところにある。アリーについては”People with red hair are supposed to get mad very easily, but Allie never did, and he had very red hair.”(p. 38)と言っており、またフィービーについては”She has this sort of red hair, a little bit like Allie’s was, that’s very short in the summertime.”(p. 67)と言っている。幼くして亡くなったアリーと小学生であるフィービーの髪の色については言及しているホールデンだが、映画のシナリオライターをしていてもう大人である兄D.B.の髪色については触れていない。このことから、“赤い”ハンチング帽をかぶることでまだ純粋である“赤毛”のアリーとフィービーのような気持ちを保ちたいということが象徴されている。ホールデンの純粋(innocent)なものへの執着が見受けられる部分である。

    この赤いハンチング帽の象徴性として忘れてはいけないのが、この帽子が“ハンチング帽”だということである。青年らがかぶるおしゃれなキャップではなく、なぜハンチング帽なのか。それは、次のホールデンの言葉からヒントが得られる。

  “Like hell it is.” I took it off and looked at it. I sort of closed one eye, like I was taking aim at it. “This is a people shooting hat,” I said. “I shoot people in this hat.”(p. 22)

    ホールデンはこの帽子のことを人撃ち帽だと言っている。前記したようにホールデンは今、純粋な世界である崖の上に立っていてインチキな世界を見下ろしている状態にある。このことから、ホールデンは崖の上からインチキな人々を狙っていて、この世からインチキなものを排除しようとするホールデンの気持ちが表わされていると言える。またホールデンはこのハンチング帽を“I swung the old peak way around to the back -- very corny, I’ll admit, but I like it that way. I looked good in it that way.”(p. 18) と言っているように逆向きにかぶる傾向がある。これは、野球のキャッチャーがするかぶり方であり、ホールデンが崖の上で大人の世界に行こうとする子供をキャッチしたいという気持ちが表れている。さらに、野球でキャッチャーだけが他のポジションの人とは逆の方向を向いていることから、ホールデンが子ども(innocent)から大人(phony)になるという人生の流れに反抗している様子が見受けられる。

    ホールデンの回りには、赤いハンチング帽のほかにインチキなものと戦う道具がいくつか出てくる。しかし皮肉なことに、トムセンヒルにあった大砲はクレイジーで使い物にならなくて、フェンシングの道具は地下鉄に忘れてきてしまい、被っていたハンチング帽は同室のストラドレイターに殴られた拍子に飛んで行ってしまう。このことから、ホールデンの気持ちとは裏腹に現実はそう上手くいかないということが表現されている。このような上手くいかない現実を受け、ホールデンはますます精神的に追い詰められていくのである。

    次に、ホールデンのみせる大人びた行動について見てみる。ホールデンは六フィート二インチ半という長身に加え、髪の毛の半分が白髪という大人びた外見を持つ青年である。ホールデンは物語中、煙草や飲酒、売春婦との接触をするがここに矛盾が見られる。大人になりたくないと願うホールデンだが、自ら大人のすることをしているのである。Phonyな世界に嫌悪感を抱きながらも、大人のする行為に興味を持っている点から、ホールデンが大人の世界に片足を突っ込んでいる状況が見受けられる。

 “God, my old heart was damn near beating me out of the room. I wished I was dressed at least. It’s terrible to be just in your pajamas when something like that happens.”(p. 101)

 “All of a sudden I started to cry.”(p. 103)

    上記の文は、売春婦のサニーとエレベーターボーイのモーリスがホールデンの部屋に押し掛けてきたときの場面である。この時、ホールデンは心臓がバクバクしたと言っており、さらにモーリスとの絡みの途中、ホールデンは突然泣き出してしまう。このことから、片足を大人の世界に突っ込んでいるがゆえに売春婦を呼んでしまったが、結果的にお金をだまし取られそうになり大人のインチキさを目の当たりにしたホールデンは、急に怖くなってしまった。つまり、ホールデンのもう片方の足はまだ子供の世界に留まっていることがわかる。

    ホールデンは物語の間、何度も女の人に話しかけているが、そこでも大人と子供の間にいる様子が見られる。例えば、次の部分だ。

  “Would you care for a cocktail?” I asked her. I was feeling in the mood for one myself. “We can go in the club car. All right?” (p. 57)

  “I really don’t think I’d better. Thank you so much, though, dear,” she said. “Anyway, the club car’s most likely closed. It’s quite late, you know.”(p. 57)

    これは、ホールデンがペンシーを出発した夜、電車で居合わせたモロー婦人を誘う場面である。同級生の母親であるモロー婦人に対して好意を持ち、未成年にも関わらずクラブカーに行ってお酒を飲もうと誘うのである。しかし、クラブカーはとっくに閉まっている時間であった。大人びた行為をしようとしてもどこか抜けていて、そこにホールデンの大人になりきれない子供っぽさが見られるのではないだろうか。

    ホールデンはこの物語の3日間、タクシーの運転手だったり、修道女であったり自分の話を真剣に聞いてくれる何人かに出会った。しかし、それ以外の人々は、すべてうわべの付き合いであり、ホールデンの望むIとYOUの関係にはなれなかった。そのためホールデンは3日間の放浪中、何度もきっと自分の話し相手になってくれる、IとYOUの関係である妹のフィービーや理想の女性ジェーンに電話をかけようとするのである。ホールデンは一人でいる時、“What I really felt like, though, was committing suicide. I felt like jumping out the window.”などと思ったりするところからも精神が病んでいる様子が伺える。精神的に不安定であるホールデンは、頼れる誰かを求めていた。そして、フィービーと再会した時、ホールデンは再び泣き出してしまう。これは、久しぶりに自分を理解してくれる人に出会い、そしてホールデンのことを真剣に心配してくれるフィービーの優しさが嬉しかったのである。そしてホールデンはこの時、ある行動をする。赤いハンチング帽をフィービーにあげるのである。ここから象徴させることは、ホールデンが3日間の経験を通し、自分はすでにインチキな世界にいることを実感してしまい、自分がインチキな者を排除することは手遅れであるということである。ここで忘れてはいけないのが、フィービーという名は、別名Dianaという名であり、このDianaは狩人と月の女神であるということだ。その狩人の女神であるフィービーにハンチング帽を渡すということは、ホールデンが大人になったことを認め、狩人を辞めると同時に、その役をまだ純粋な世界にいる狩人の女神フィービーにたくしたのである。

    最後の場面では、フィービーがメリーゴーランドに乗っている様子を見てホールデンは今までの不安定で未熟な気持ちが表れている言葉とは反対に、とても幸福な気分であったと言っている。これはフィービーの無邪気さを見て、人間が純粋でなくなるのは仕方ないが、フィービーのような無邪気な子供が絶えることはなく、純粋(innocent)な世界がなくなることはないという考え方が出来るようになったからである。ホールデンはこの3日間の経験を通し、人間である以上成長するのは当たり前で、その成長には経験が伴い、その経験する過程でインチキさを避けることはできない。しかし、子どもの純粋な心を持つことは出来なくても、子供が存在している限り忘れないことは出来ると感じたのである。ホールデンは精神的に未熟な“青年”から精神的に成長した“大人”になったのである。

    The Catcher in the Rye は、様々な経験を通し成長すること(大人になること)は悪いことばかりではなく、精神的に良い成長もできるということを象徴している作品であるといえる。


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