Seminar Paper 2008

Takeuchi, Yukari

First Created on August 9, 2008
Last revised on August 9, 2008

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The Catcher in the Rye における “fall” の概念
〜ホールデンの怒涛の3日間〜

    この物語でホールデンは、phonyなもの(インチキ)を嫌い、innocentなものを大切にし、守ろうとする傾向がある。インチキなもの=大人の世界である。場面の移り変わりでホールデンはよく転びそうになるのだが、転びそうになることは、ホールデンが何かをやろうとしてもうまくいかない、ということを暗示している。また、“fall”していけば底に落ちてしまうのが普通なのだが、ホールデンはなかなか底にたどり着くことができない。つまり、底なしの “fall” なのである。底にたどりつくこと=大人の世界にたどりつくことの象徴として表わされているが、ホールデンは大人になることをなかなか受け入れられないがゆえ、底にたどりつくまでに悩み苦しむことになる。この物語では、思春期の少年であるホールデンの、大人になることを受け入れるまでの葛藤が “fall” を使って表現されている。

    ホールデンのインチキなやつをやっつける旅は、“Some stupid guy had thrown peanut shells all over the stairs, and I damn near broke my crazy neck.”(p. 52) から始まる。しかし、ホールデンはSome stupid guyによって、ピーナッツの皮につまづいて転んでしまう。Some stupid guy=moronsと考えると、ホールデンはばかなやつにやられそうになっている。ばかなやつとはホールデンが考えるインチキなやつの仲間であり、彼がこれからインチキなやつをやっつけようとしている矢先に “fall” してしまうということはこの先、インチキなやつに負けてしまうのではないか、ということを暗示しており、前途多難な旅の幕開けである。ホールデンの怒涛の3日間の始まりである。  

“I went to open it, I had my suitcase right in the way and I fell over it and damn near broke my knee. I always pick up a gorgeous time to fall over a suitcase or something.”(p. 93) 

ここからも分かるようにホールデンは場面の節目でよく転びそうになるのである。やはり、ここでも “fall” は物事がよくない方向にいってしまうことを暗示している。結局この章でも、モーリスとサリーというインチキなやつに無理矢理お金をとられてしまう。ホールデンは、インチキをやっつけようとしているにも関わらず、インチキなやつに負けてしまったのである。ホールデンの旅は、なかなかうまくいかないものである。

“The best thing, though in that museum was that everything always stayed right where it was.”(p. 121)

“I thought how she’d see the same stuff I used to see, and how she’d be different every time she saw it.”(p. 122)

    人間は博物館に行く度心が変わっていくが、博物館はいつ行っても変わらない。つまり、人間が大人になるにつれてインチキになってしまうことを、ホールデンは嘆いているのである。 “Certain things they should stay the way they are.”(p. 122) とあるが、ここでのcertain things =子どもたちが持っているinnocenceである。子供たちの純粋な心は、ずっと変わらないままでいてほしい、また、自分自身もずっとinnocentなままでいたい、とホールデンは嘆願しているのである。しかし、“When I got to the museum, all of a sudden I wouldn’t have gone inside for a million bucks.”(p. 122)から、ホールデンは自分がinnocentな気持ちをもっているという自信がなくなったということが分かる。つまり、ホールデンは “fall” したくないと切望しながらも、すでに “fall” し始めているのである。

“Anyway, I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody’s around―nobody big, I mean―expect me. And I’m standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch if they’re running and they don’t look where they’re going I have to come out from somewhere and catch them.”(p. 173)

    ここからも子供のinnocentな気持ちを守りたい、というホールデンの願望がうかがえる。それは、落ちそうな子供がいたら、ホールデンが片っ端から捕まえるという表現からわかる。崖の下=大人のphonyな世界である。つまりホールデンはphonyな世界に “fall”しそうな子供たちを守ろうとしているのである。また、fall of man とは人類の堕落であり、これは旧訳聖書のアダムとイヴがエデンの園を追放されたという話と似たような比喩である。アダムとイヴは知恵の実を食べて追放されたという。よってこれから起こることに対して、前もって罰を受けることが、“fall” によって表わされているのではないだろうか。

“He was the one that finally picked up that boy that jumped out the window I told you about, James Castle. Old Mr. Antolini felt his pulse and all, and then he took off his coat and put it over James Castle and carried him all the way over to the infirmary.”(p. 174)

    ここではアントリーニ先生について書かれている。窓から飛び降りた少年を、ひとりで進み出て抱き上げてくれたのが、彼だったという。上着が血だらけになったことを気にもせず、堂々としていたアントリーニ先生をホールデンはとても尊敬している。また、その飛び降りた少年がホールデンの服を着ていたことからも、ホールデンはその少年を自分自身と重ねて見ている。つまり、自分がfallしたときも、チャッチしてほしい、つまり自分がインチキになりつつあるのを、誰かにとめてほしい、という願いがこの箇所から読み取ることができる。

    そしてフィービーと話している箇所である。“I figured if they caught me, they caught me, I almost wished they did, in a way.”(p. 180)では、むしろみつけてくれればいいのに、とホールデンが望んでいる。今までは、インチキなやつをやっつけるためのハンターとして頑張ってきたホールデンだが、ホールデンはハンターとして負けてしまった。つまり、今までは目標のために頑張ったが、その目標がなくなってしまったのである。また、ホールデンは自分自身が fall しかけていることを自覚しているのではないか。だから、落ちかけている自分=phonyになりつつある自分を誰かにとめてほしい、とホールデンが切望しているのではないか、と考える。

    また、アントリーニ先生はホールデンにこんなことを言っている。“This fall I think you’re riding for--it’s a special kind of fall, a horrible kind.”(p. 187) ここでの “fall” も底なしの “fall” であることを象徴している。うまく着地すれば、大人の世界に入れるのだが、ホールデンは落ち続けているから、うまく着地できない。それは、人生の目標を見つけられないからであり、悩んだ人はいっぱいいる。勉強はすべてとは言わないが、人生のためにはした方がいい、とアントリーニ先生はホールデンに伝えているのである。

“Then all of a sudden, something very spooky started happening. Every time I came to the end of a block and stepped off the goddam curb, I had this feeling that I’d never get to the other side of the street. I thought I’d just go down, down, down, and nobody’d ever see me again.”(p. 197)

    この箇所でも “fall”を示す表現が書かれている。ホールデンは、生まれてこんなに落ち込んだこともないくらい、落ち込んでいる。ホールデンは精神的、肉体的に疲れていて落ち込んでいるというのもあるが、やはり “fall”=大人になることとして考えると、ホールデンがだんだんinnocent から遠ざかっていくことがここで表現されているのではないだろうか。つまり、ホールデンの “fall”は底なしなのである。

    しかし、底なしの “fall”も終わりを迎えようとしている。“When I was coming out of the can, right before I got to the door, I sort of passed out. I was lucky, though. (p. 204) ここでホールデンは、トイレから出て、入口のすぐ近くのところまできたところで気を失っている。つまり、底なしの “fall” がついに、底にhit した!!ということを、この箇所では示唆している。そして “I felt better after I passed out. I really did.”とあるが、ホールデンの気分がよくなっていることから、ホールデンは自分が大人になったことを受け入れつつあることが分かる。ホールデンが気をとり戻したことは、再生を象徴しているのである。 ホールデンが再生したことがこの箇所からも分かる

“All of a sudden I wanted her to cry till her eyes practically dropped out. I almost hated her.”(p. 207)

“I’m not going back to school.” I didn’t know what to say when she said that. I just stood there for a couple of minutes. (p. 208)

    自分も一緒に家を出てホールデンについていく、というフィービーに対してホールデンが叱っている箇所である。ここでホールデンは分別のある大人を演じてしまっている。大人の目として、聞き分けのないフィービーを見ていることにホールデンは気づいてしまったのだ。このことに気づき、ホールデンはショックを受けている。ホールデンはこのときすでに、完全に大人になっているのである。  そしてホールデンはついに、自分が大人になったことを受け入れるようになる。

“All the kids kept trying to grab for the gold ring, and so was old Phoebe, and I was sort of afraid she’d fall off the goddam horse, but I didn’t say anything or do anything.”(p. 211)

    子供たちがゴールドリングをつかもうとしていて、フィービーもそれをつかもうとしていた。それで馬から落ちちゃうんじゃないかとはらはらしたが、ホールデンは別に何も言わなかったし、何もしなかった。 “If they fall off, they fall off, but it’s bad if you say anything to them.”(p. 211)とあるように、ゴールドリングを取ろうとして落ちそうになってもそれをやめさせるべきではない、ということをホールデンは悟ったのである。これは、先ほどホールデンがライ麦畑から落ちそうになる子供たちをキャッチする人になりたい、と言っていたこととは完全に逆のことを意味する。つまり、ホールデンは“Catcher in the Rye”になりたいなんて思うことは、とてもおかしいことであるということに気付いたのだろう。

    また、“Boy, it began to rain like a bastard.”(p. 212) と書かれている。雨は再生を象徴するものである。また、雨によって、ホールデンの今までの大人に対する嫌悪感が流された、とも考えられる。つまり、ホールデンは大人の自分を受け入れたのである。

I was damn near bawling, I felt so damn happy, if you want to know the truth. I don’t know why. It was just that she looked so damn nice, the way she kept going around and around, in her blue coat and all. (p. 213)

    大人の自分を受け入れることができたホールデンは、innocentな世界は決して消滅するわけではない、と気付く。メリーゴーランドがくるくる回っていることがそのことを象徴しているように思える。フィービーは、永遠にメリーゴーランドに乗り続けることはできない。しかしフィービーがいなくなってしまっても、また新たな子供たちがそのメリーゴーランドに乗ってくる。そして、その子供たちがいなくなったらまた新たな子供たちがやってくる。このように、 innocentな世界はなくならずに、永遠に続くのである。

    ようやくホールデンの怒涛の3日間は終わりを迎えた。ホールデンはこの旅でさまざまなことに悩み苦しんだが、人間としての成長を果たした。そして、ついにfallし続けていた彼だが、やっと底にたどりつくことができた。これは、ホールデンにだけでなく思春期を迎える私たちも、なかなか人生の目標を見つけられずに、底なしのfallを経験しがちかもしれない。そして、ずっと子供のままの気持ちでいたい、と願うかもしれない。しかし、それは無理なことである。大人になる自分を受け入れ、どんな大人になりたいか理想をもつことがより重要なのである。何事もかなわないことにしがみつくのではなく、変化を受け入れ、その変化にどのように対応すべきかを前向きに考えることが、私たちが生きていく上で必要なのではなかろうか。


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