Seminar Paper 2008

Tanaka, Risa

First Created on August 9, 2008
Last revised on August 9, 2008

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The Catcher in the Rye における “fall” の概念
〜ホールデンが理想の世界から現実社会に下りてくるまで〜

    ホールデンは思春期の悩める少年である。Innocentな世界を夢見ながらphonyな世界を憂えている。子供のinnocentさを忘れて何故世の中phonyな大人たちが溢れているのだろうか、と大人になる過程にいるホールデンは自分もphonyな大人になることを躊躇っている。しかし現実、無垢で純粋なだけでは生きていけないのである。物語のなかでホールデンはよく転んだり、落ちたり倒れたりとfallしているのである。これはこの物語はホールデンが実際の社会を見て感じるうちに、彼自身の描く現実感のないふわふわとした理想の世界から出て段々と大人になり地に足をつけて生活していかなければならなくなるという様子を表しているのではないだろうか?

    それではホールデンの理想とはいったい何なのだろうか?ホールデンが考える絶対的善なるもののひとつにアリーの存在がある。幼くして白血病で亡くなった弟だ。ホールデンはアリーが大好きである。これはフィービーが「あなたは何もかもが気に入らないんだ。」と言った時に”I like Allie,” I said.(p. 170)と答えたように明らかだ。ホールデンは決してアリーのことは悪く言わず褒めっぱなしである。そこには無邪気な子供のままでこの世を去ったアリーへの羨望もあったのだろう。子供が子供のままでいることをホールデンは望んでいた。同じくフィービーとの会話でホールデンは自分がなりたいものについてこう語っている。

“Anyway, I keep picturing all these little kids playing some game in this rye and all. Thousands of little kids, and nobody’s around--nobody big, I mean--expect me. And I’m standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff--I mean if they’re running and they don’t look where they’re going I have to come out somewhere and catch them. That’s all I’d do all day. I’d just be the catcher in the rye and all. I know it’s crazy, but that’s the only thing I’d really like to be. I know it’s crazy.”(p. 173)

    ホールデンは子供が崖から落ちそうになったらそれを捕まえるキャッチャーになりたいと言うがそれはどういうことだろうか。人が落っこちること、英語でthe fall of Manは人類の堕落を意味する。それはアダムとイヴの原罪であり、禁断の果実を口にして知識を得た二人がエデンの園を追い出され罪人としてこの世界にやってきたことだ。つまり崖を落ちた先は大人のphonyな世界であり、そこへ落ちないように捕まえているということは子供が大人にならないように見張っているのである。ふたつに共通しているのは子供が罪なき状態のままでいるということだ。

    ここからホールデンはどのようにfallしていったのだろうか。物語の始まりでホールデンはトムセンヒルの頂上で大砲の横に立っていた。下の競技場ではゲームが行われている。 “Life is a game, boy. Life is a game that one plays according to the rules.”(p. 8) とスペンサー先生は言う。ゲームは勝ち負けを決めるために争うものだ、それは人を勝ち組・負け組みにわける今の社会と同じである。それを丘の上から見ているホールデンは社会に参加していないで眺めているだけなのである。ここではまだ社会に足を踏み入れていない。そしてホールデンがいるのは丘の頂上なのである、ということはこれより上にはいけない。よくある青春物語のように少年の成長を描くにしては不自然な象徴的シーンだ。ここで後はfallするのみという設定がもう示されている。この直後ホールデンはRoute204をわたる時に転びそうになっている。トムセンヒルを下りてこの区切りの道を渡ることでphonyな現実世界へ入っていったのだ。

    ホールデンはペンシーに留まっていたらこんな短期間でfallし続けることなくまだ子供のままでいられただろう。学校の中にいて周りにいる奴らはmoronだ、stupidだ、phonyだ、と憤っているだけなら世間知らずの少年のままでまだしばらくはいられたのだ。しかしホールデンは自ら外へ出て行くことにした。そして出て行くときにさっそく転んでいる。街へ出たホールデンは人とコミュニケーションをとろうとするがことごとく上手くいかない。誰でもいいから話し相手がほしかったのだろう、エレベーター係から女を買った。部屋にその女を迎える時にも転んでいる。実際ホールデンは女の子とデートをしたりはしていたけれど、体の関係を持ったことがなかった。つまりはその意味でも子供だった。それなのに知らない女の人とお金のやり取りを通して大人になろうとしてしまったのだ。自分でも“It was against my principles and all, but I was so depressed I didn’t even think.” (p. 91) と言っているようにまったく今までのホールデンらしくない行動だ。

    “I wet down the back stairs. I nearly broke my neck on about ten million garbage pails, but I got out all right. (p. 180) フィービーに会いに自宅へと帰ったホールデンだがフィービーと話をした後、家を出て行ってしまう。そこでもまたホールデンは転んでいる。無邪気なフィービーとおしゃべりをして安らかな時間を過ごせたはずなのに、そこに留まることはせずにさらに落下し続けている。ここで気にしておきたいのがホールデンはハンティングハットをフィービーに渡していることである。“This is a people shooting hat,” I said. “I shoot people in this hat.”(p. 22) とホールデンが言っていたことに表れているように、彼の反抗を象徴するものだった。そしてライ麦畑のキャッチャーを連想させるものであったハンティングハットを手放してしまったのだ。ここにきてホールデンはいつまでもこのままではいられないと言うことに気づいてきたのだろう。そんなホールデンの状態をアントリーニ先生はこう捉えている。

“I have a feeling that you’re riding for some kind of a terrible fall.” (p. 186)

“This fall I think you’re riding for-it’s a special kind of fall, a horrible kind. The man falling isn’t permitted to feel or hear himself hit bottom. He just keeps falling and falling. The whole arrangement’s designed for men who, at some time or other in their lives, were looking for something their own environment couldn’t supply them with. Or they thought their own environment couldn’t supply them with. So they gave up looking. They gave it up before they ever really even got started.”(p. 187)

“…I can very clearly see you dying nobly, one way or another, for some highly unworthy cause.” (p. 188)

“The mark of the immature man is that he wants to die nobly for a cause, while the mark of the mature man is that he wants to live humbly for one.”(p. 188)

    アントリーニ先生がいう“die nobly”はジェームズの死を思い起こさせる。ホールデンがフィービーとの会話で好きなものを考えた時思い出していたジェームズ・キャッスルという生徒のことだ。“what he did, instead of taking back what he said, he jumped out the window.”(p. 170) この時ジェームズを運んだのはアントリーニ先生だった。アントリーニ先生はホールデンも彼のような行動をとるのではないかと危惧しているように思える。彼もまたアリーと同じく大人になる前に亡くなった少年である。アリーと違うのは、飛び降りて自ら命を絶ったことだ。つまりはライ麦畑から落ちてしまったけれど無事に着地することなく亡くなった。底にたどり着くことの出来ないfallはこれとも違う。ホールデンはただただ堕ち行くだけでどこにも、大人のphonyな世界に足を着き踏み入れることなく、むしろそれを嫌がってどこにもいけないでいるのだ。

    アントリーニ先生宅を出た後も落下は続く。“I thought I’d just go down, down, down, and nobody’d see me again.”(p. 197) しかし今度は転んで落っこちるというよりも下っているという印象を受ける。今まではジェームズが窓から落ちたように、転げ落ちて死んでしまいそうになるような描写が多かった。けれど“I kept walking and walking up Fifth Avenue”(p. 197) とあるように自分の足で歩いて下りている。“When I was coming out of the can, right before I got to the door, I sort of passed out. I was lucky, though. I mean I could’ve killed myself when I hit the floor…” (p. 204) ここで、今までは転んで落ちそうになっていただけで着地できないでいたホールデンが倒れたことで底にたどり着いている。これはホールデンが大人になることを受け入れたということだろう。それが詳しく描かれているのはフィービーがメリーゴーランドに乗っているのを眺めているときである。

Then the carrousel started, and I watched her go around and around. There were only about five or six other kids on the ride….All the kids kept trying to grab for the gold ring, and so was old Phoebe, and I was sort of afraid she’d fall off the goddam horse, but I didn’t say anything or do anything. The thing with kids is, if they want to grab for the gold ring, you have to let them do it, and not say anything. If they fall off, they fall off, but it’s bad if you say anything to them.” (p. 211)

    子供だけが乗っているメリーゴーランドはホールデンが考えていたライ麦畑である。メリーゴーランドがその場でぐるぐると回るだけで進まないように、今までのホールデンは子供がライ麦畑から落ちない=メリーゴーランドから降りないことを望んでいた。しかしここではリングを掴もうと欲を出して落ちてしまってもかまわない、むしろそうする子供たちをキャッチするなんてしてはいけないと思っている。子供たちがずっとinnocent なままでいられるわけではない、けれどメリーゴーランドの乗客が入れ替わるようにinnocentな子供は入れ替わりいなくなることはないのである。

    みんなinnocentな子供のままで大人にならないでほしい、だからライ麦畑から落ちて大人になってしまわないように子供たちをキャッチするのだ。それがホールデンの理想だった。しかしフィービーを乗せたメリーゴーランドを見てはっきりとわかった。自分はもうメリーゴーランドには乗れないし今乗っているフィービーだってそのうち乗らなくなる、子供がずっと子供のままではいられないのだと。学校を出て家も出て、社会のなかに飛び込んだホールデンは現実社会を身を持って学んだのである。


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