Seminar Paper 2009
Junko Yaguchi
First Created on January 29, 2010
Last revised on January 29, 2010
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The Great Gatsby の女性たち
ゼルダという永遠のモデルとともに
この話に登場する女性を分析するにおいて、まずまっさきに論じなければならない人は他でもなくデイジーである。デイジーはきらめく瞳、情熱な口、そして魅力的な声も持つ異性を虜にしてしまう容姿の持ち主であった。そんな彼女の愛を得ようとギャツビーは彼の全生涯をかけるのだが、そもそも私はギャツビーがこの話の作者スコット・フィッツジェラルド、そしてデイジーは彼の妻ゼルダをモデルにして書かれたという気がしてならない。そしてデイジーの娘パミー、トムの浮気相手マートルにもモデルがあるのではと考える。現に彼は実体験をもとにして書くタイプの作家で、「美しく呪われた人」「氷の宮殿」といった小説のほとんどがゼルダとスコットとモデルにしていると言われている。以下がそれらの仮説の理由である。 スコットはセントポールのミネソタ州で生まれ、プリンストン大学に通うが中退し、陸軍少尉に任官され士官養成隊に入隊する。そんなとき、カントリークラブのダンスパーティーで会ったゼルダに一目惚れする。しかし、ゼルダはアラバマ州の最高判事の娘で、ただの貧乏な青年であったスコットはどうにも釣り合わなかった。「わたしは有名でない男はきらいなの。有名になってから求婚してくれる?」とプロポーズを断られたスコットは一念発起して「楽園のこちら側」を書き一躍有名になるのであった。 スコットのゼルダに対する2種類の愛を分けてキャラクターとして作りあげたのがギャツビーとトムなのではないだろうか。 ギャツビーはデイジーに対する愛それだけで生きてきた男で、それは実際のデイジーを超越してしまっているとも言える。一方トムは自己愛の強い人間で、デイジーを愛しているというより、デイジーを妻にしている自分に陶酔しており、彼女を自分の側に置いておくことが彼の満足につながっていると言える。つまりギャツビーはゼルダに片思いおしていた時のスコット、トムはゼルダと結婚してからのスコットの描写なのではないだろうか。物語の最後でデイジーはギャツビーに罪をきせ、トムと再び人生を歩んでいくことを決める。つまり、ゼルダを愛し彼女を自分に向かせたいというただそれ一心に生きていたスコットは葬られ、自己愛からくるゼルダに対する愛情(小説を書くときの絶好の題材となるゼルダ)のほうが勝ってしまったということを暗に意味しているのではないだろうか。 そこで話をトムの浮気相手マートルに移そう。彼女はデイジーと相反し、体つきのがっしりした、しゃがれ声の、決して美しさを感じられない人物であった。トムが他の女性の選択肢もある中であえてマートルを選んだのは彼女にデイジーにはない庶民さ、現実的な部分を感じたからではないだろうか。マートルもまたトムに" I want to get one of those dogs, I want to get one for the apartment. They're nice to have- a dog" と犬をねだり、トムも賛成している。二人のマンションを買ったこと、犬を飼うということは二人が一時的ではない継続していく関係を望んでいることを意味している。マートルがトムにとってデイジーを超える存在になることは決してなかったがデイジーにはない魅力を彼女に感じ欠かせない存在になっていたのは確かである。スコットもゼルダとのパーティー三昧の甘美な生活を楽しんでいた一方で、現実にふと立ち戻る瞬間があったであろう。彼は物語の中でマートルにその役割、つまり現実の象徴を担わせている。しかしマートルはデイジーの運転する車に跳ねられ命を落とす。スコットの人生の現実的な部分もゼルダによって奪われてしまい、二人はパーティーに明け暮れ、娯楽の世界に陶酔していく。しかし妻の敵討ちのため狂ったマートルの夫ジョージによってギャツビーは殺されてしまう。つまり、スコットはいくら妻とともに時代の寵児として人々からの憧れとなっても現実には勝てなかったということではないだろうか。ゼルダは家事を一切せず、部屋はこれ以上散らかりようのないほどに散らかっていた。周囲では彼らの結婚生活が三年ももたないのではと噂をするものさえいた。そしてこのような生活はスコットの作家としての才能を徐々に蝕んでいったのだ。 次にパミーの話に移ろう。デイジーとトムの間にはパミーという三歳になる娘がいた。この娘の存在はデイジーとトムの間にあるギャツビーが取り戻すことのできない時の経過を象徴していると言えるが、作者スコットとゼルダの間にもスコッティーという娘がいた。 デイジーはトムが出産の時も居場所が分からないほどそのことに無関心で(愛人のところにいっていたのかも)、"She doesn't look like her father. She looks like me. She got my hair and shape of the face. (p.122) という台詞からも、トムとの生活の証としての娘の存在からトム的要素を排除しようとしているが、パミーが話の流れに全く関係なく"Where's Daddy?" と母デイジーに向かって聞く部分からも、彼らは正真正銘の親子の絆で結ばれていて、そこにギャツビーの立ち入る余地はないことがうかがえる。 娘についてデイジーは "I'm glad it's a girl. And I hope she'll be a fool-that's the best thing girl can be in the world, a beautiful little fool" (p.249) と述べている。これは彼女が世の醜さや汚い部分を色々見て自分がすれてしまったので、彼女はそのようなものを見ても気付かないですむくらいバカでいてほしいという、デイジーからトムの浮気への皮肉も混じった発言であると捉えられるが、また作者スコットも同じような女性観を持っていたのではと私は考える。ゼルダは当時フラッパーと呼ばれた、髪を短く切り、口紅を塗った、いかにも活発そうな娘の代表だった。二人は毎日のようにパーティーに参加し、雑誌や新聞のゴシップ欄をにぎわせていた。まったくの素面でユニオン・スクエアの噴水に飛び込んだり、スコットがタクシーの屋根、ゼルダがボンネットに乗って五番街を走り回ったり、30フィートの断崖から下の海へ飛び込む遊びもした。スコットはこの時さすがに恐怖で震えていたがそれでもゼルダに必死でついていっていた。ゼルダの破天荒な行動に頭を悩ませることもあったに関わらす、スコットは彼女と離れることは望まなかったのは彼女のそうしたすべての行動がスコットに新しい小説のインスピレーションを無限に与えていたからである。ゼルダはまさしく"a beautiful fool" だったのである。彼の小説家人生は" a beautiful fool " なしでは決して成り立つものではなかったのだ。 次にミスベイカーについて話そう。彼女をこの物語に登場させデイジーと対比させることによって、デイジーの幻想的かつ女性的で、掴みどころのなさを強調する役割を果たしているのではないだろうか。ニックとミスベイカーの恋は結局何の進展もないままに終わってしまうのだが、これもギャツビーとデイジーの衝動的で情熱的な恋をより強調する効果を担っている。しかし冷静な男勝りな面を持つ一方で、ミスベイカーは物語が進行するにつれトムに対して恋心を抱く女性らしい面も多々見せ始める。物語中の彼女の言葉で印象的なのは" It takes two to make an accident" " I hate careless people. That's why I like you.と述べているが、最後の章では "You said a bad driver was only safe until she met another bad driver? Well, I met another bad driver, didn't I.I mean it was careless of me to make such a wrong guess. I thought you were rather an honest, straightforward person. I thought it was your secret pride." (p. 184-185)と述べている。つまり彼女はトムに対して油断し防御線をはり忘れていたが、知らぬ間に恋に落ちてしまっていて、トムも同じように彼女を好きだったのだろうと遠まわしに確かめたがった。ところがトムはこれに対し、" I'm thirty. I'm five years too old to lie to myself and call it honor."と述べている。つまり、自分は確かにcareful personでミスベイカーに対してそもそも恋愛感情を抱いたことはないと伝えてこの二人の関係は終止符を打っている。 1940年12月21日、スコットはハリウッドのアパートで心臓発作により急死した。わずか、2、30人しか参列者のいない質素な葬儀にはかつての時代の申し子、フィッツジェラルドらしさを忍ばせるものはなにもなかった。そして妻ゼルダも精神病を患い、葬儀に参列していなかった。このスコットの最後はギャツビーの最後をどこか思い起こさせるところがある。以前はこぞって何百人もの客がパーティーに押し寄せていたギャツビーの葬儀には彼が命をもかけて守ったデイジーの姿が見られなかったどころかことづてや花一つ贈られてくることはなかった。まるで、スコットが「The Great Gatsby」に自分の行く末を予測して残したような終わり方である。 以上のことからこの話はスコットとゼルダをモデルにしており、つまるところスコット自身の報われないラブストリーなのではないだろうか。しかし物語と違うのは、ゼルダが精神病治療のため入院していたハイランド病院の火災により死後、スコットと再び墓の下で一緒になったことだ。またゼルダはスコットの死後、友人に次のような手紙をおくっている。 あの人ほど、本当に広いこころを持った人はいませんでした。振り返ってみますと、スコットはスコッティーと私をどうすれば幸せにできるか、それだけを考えていたように思われます。あの人が近くにいてくれますと、人生はいつも希望に満ちていたように思えたものです。(星野裕子『スコット・フィッツジェラルド〜楽園を追われた二人』1992)p.127) スコットはデイジーがギャツビーを裏切ったのと同様、ゼルダもまた彼のもとを去る日が来るのではという恐怖心があったのかもしれない。それは彼女のために名声や富を手に入れた自分からその二つがなくなった時、素の自分を愛されているのかという不安からくるものだったのではないだろうか。しかし、ゼルダもまたスコットを心から愛していたのだ。 そうなるとスコットは、愛すべき人から裏切られたギャツビーとは違い、相思相愛の関係を築いていた点で、自身の物語の主人公を超えた"The Greatest Scott Fitzgerald"だったのではないだろうか。 |
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