Seminar Paper 2010

Fukazawa Ryo

First Created on January 27, 2011
Last revised on January 30, 2011

Back to: Seminar Paper Home

HumbertとQuilty
分身との戦い

    「ロリータ」と名付けた一人の少女を取り戻すため繰り広げられたハンバートとキルティのゲーム。追われながら自分の分身に悩まされ、ロリータは裏切り分身と共に失踪してしまう今度は自分が暗号を頼りに追う立場になり主人公の身も心もボロボロになっていく。分身であるキルティを殺したことで罪悪感から解放されるかと思えばより重さは増してしまい刑務所送りになってしまう主人公ハンバート。   物語の主人公ハンバートとキルティは、互いを善悪にはっきりわけなくてはならないとすればハンバートが悪にあたりとキルティが善であるかもしれない。しかしハンバートと分身であるキルティどちらにも悪の要素があるゆえに、「ジキル博士とハイド」と同じように善悪が完全に分離しているのではないと思う。そしてキルティとはハンバートが犯した罪をより自覚し逃れることはできないということを悟るための存在、自分自身を客観的に見るための(鏡のような)存在であると考える。加えて罪を認めることができなかったハンバートはキルティを殺すことで罪(悪)の要素を押し付けようとしたが、結局分身であるキルティの罪も背負いこんでしまったのではないかと仮定する。

    最初に二人を善悪に分け難いと考える理由について述べていきたいと思う。二人は幼児・少女趣味、フランス語が話せる、読書家など共通点は多い一方で二人の相違点も見受けられる。一つはハンバートが少女愛に対して犯罪意識や抵抗があった一方で、キルティには全くそのような趣味に対し罪悪感がない点である。ハンバートは物語の前半部分でバレリアと結婚する。少女性の残る(残っているように思われた)成人女性と結婚することで少女愛に対しどこか後ろめたい気持ちがあるハンバートが安全をもとめた故である。しかしキルティはというとロリータが自分の性趣味に従わなかったことを理由に彼女を追い出してしまう。またハンバートとの会話でも彼女や彼の異常な性癖についてまったくといって悪気がない。どちら道徳心に反しているが、ハンバートの方が少女愛に罪悪感をもち葛藤したのに対しキルティはまったく持っている様子がない。29章以降ニンフェットでなくなったロリータを一人の女性と愛し始めたのに対し、キルティはハンバートと都合が悪くなれば捨ててしまうところからキルティの方に冷酷さが感じ取れる。ふたりとも罪を犯していることに対するとらえ方がまったくの正反対である。このような点ではハンバートの方がいくぶん善に近いようにも思える。
  二つ目の理由は“(“He broke my heart. You merely broke my life”) (p. 279) とあるようにキルティはロリータの心をハンバートに勝つために利用し、ハンバートは自分の性欲を満たすためロリータの人生を壊したことである。キルティはハンバートからロリータを奪ったのではなく救ったのだと後のシーンで述べている。しかしお互いに自分の欲を満たすためにロリータを奪い合ったということには変わりはなく、どちらにも罪があると思う。   確かに分身のパロディとして扱った「ウィリアム・ウィルソン」は悪が善の分身を殺し、「ジキル博士とハイド」ではもとは善であった主体が悪の分身に乗っ取られてしまうことと比べると悪であるハンバートが善のキルティを殺したように思える。ハンバート自身を “Mr. Hide almost knocked it over” (p. 206) と自ら「ジキル博士とハイド」の悪であるハイドと自分を重ねてみたり、キルティから “ Show me your badge instead of shooting at my foot, you ape, you.”(p. 298) など猿と言われたりしている。一方ハンバートもキルティのことを自分の影であると言っている。このことからキルティのこともハンバートは悪であり自分のことも悪であると認めているように思える  

    次にキルティの存在がハンバートに罪から逃れられないとより自覚させるための存在であると考える理由について述べていこうと思う。まずナボコフがパロディ化したエドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」の主体のウィルソンが分身のことについて述べている場面がある。

「彼の対抗意識というのは、ただ一にこの僕を挫き、驚かせ、苦しめようという、まことに気紛れな気持から出ているらしかった。そのくせ時には彼の不法や侮辱や反抗の中に、これはまたなんとも場違いな、そしてまたたしかみ糞面白くもないある種の愛情に満ちた態度がまじっているのに気がついて、驚きとも深いともつかない感情に襲われるのであった。結局僕に対して上手から保護者顔しようという、極度の虚栄心から出るものとしか思えなかった。」(中野好夫訳『ポオ小説全集1』(創元推理文庫、1974),p. 499)

とある。ポーの「ウィリアム・ウィルソン」では善の分身が悪の方向に落ちぶれていくのを忠告や現場に悪事を阻止しようと主人公のいるところへたびたび現れる(追いかけてくる)。ALPHRED APPEL,JRのTHE ARTICLE OF LOLITA にも記されているとうり、「ウィリアム・ウィルソン」とロリータを照らし合わせてみると、ハンバートとキルティは善悪が逆である。ハンバートはウィリアム・ウィルソンの主体同様、キルティの存在に恐怖や不快感を持っている。

“Where the devil did you get her?”
“ I beg your pardon?  ”
“ I said: the weather is getting better.”
“Seem so.”
“ Who’s the lassie?”
“My daughter.”
“ You lie-she’s not.”(p. 127)

とあるようにハンバートの目の前に現れ、遠まわしに近親相姦をしているのを知っていることをほのめかしている。「ウィリアム・ウィルソン」の分身が忠告しているところと重ねてみると少々ふざけているようだが、同じように主体のハンバートに忠告しているようにもとれるのではないだろうか。またロリータとの旅が始まって間もないころにキルティはすでに付いてきていたことが分かる。キルティは隠れてハンバートに対する “Trap”の計画をはじめたところだろう。

“Concentrate,” I said, “on the thought of Dolly Haze whom you kidnapped_”
“I did not! He cried.  “You’re all wet. I saved her from a beastly pervert.  Show me your badge instead of shooting at my foot, you ape, you I’m not responsible for the rapes of others.  Absurd!  That joy ride, I grant you, was a silly stunt but you got her back, didn’t you.  Come, let’s have a drink.” (pp. 297-298)

とあるように罪の責任を分身に全部背負わせようとした結果、ハンバートがキルティにより自分に罪があるという事をはっきりと自覚させられている。 加えてさまざまな謎をホテルに残していく場面ではハンバートに学識で挑戦し、難しい謎のあとは簡単なもので気を引くところなどハンバートの心理を読みゲームを仕掛けてくる。「ウィリアム・ウィルソン」と形は異なるが、悩み苦しむハンバートを小馬鹿にしながらも上かまるで保護者のように見ているに思える。 そして自分の罪を思い知らされ認めきれなかったハンバート。彼はキルティにと“Because of you took advantage of sinner”(p. 299)と始まる詩を読ませ自分に罪あることは分かっているが、そこの弱みに付け込まれたハンバート怒りや悲しみをぶつける。詩の最後の部分では“Because of you all you did, because of all I did not, you have to die” (p. 300)と罪(悪)をキルティに押し付けようとし最後に銃で殺害してしまう。キルティはまるで他人事のように笑いながら死んでいく。これは薬で可笑しくなっているのか、自分(分身)を殺したところで罪から逃れることはできないと皮肉なのか。どちらにしても不気味である。「ウィリアム・ウィルソン」の最後では殺された善のウィルソンはこう言っている。
「−その僕の死によって−さあ、僕の子の姿、取りも直さず君自身なのだが、よくみるがよい。−結局君がいかに完全に自分自身を殺してしまったかをな。」(中野好夫訳『ポオ小説全集1』(創元推理文庫、1974),p. 516) とある。これはハンバートとキルティに対しても言えるかどうかわからない。しかし分身を殺したことでハンバートの心境はどう変化していったかというと “Far from feeling any relief, a burden even weightier than the one I had hoped to get rid of was with me, upon me, over me.”(p.304)、そして最後の章では、 “It is strange that the tactile sense, which is so infinitely less precious to men than sight, becomes at critical moments our main, if not only, handle to reality.  I was all covered with Quilty-with the feel of that tumble before the bleeding.”(p. 306) とあるようにきっと分身であるキルティを殺すことで安心できるのではないかと思ったが、実際はそううまくいかなかった。“I rolled over him. We rolled over me. They rolled over us. We rolled over us.”(p. 299) とお互いがどちらであるか分別できないほど取っ組みあった重みの感触が残り、キルティまみれになってしまったとある。 罪から逃れられるどころか、自分の罪に加えキルティの罪もハンバートの上にのしかかってしまったのと重ねた描写でもあると思う。それがゆえに苦しさから解放されるどころかさらに重く感じたのではないだろか。 “ And do not pity C.Q. One had to choose between him and H.H., and one wanted to exist at least a couple of months longer, so as to have him make you live in the minds of later generation.” (p. 399) とありロリータの罪に対し罪は認めるが、キルティを殺したことに関して罪の意識はないようである。分身であるものはどちらか死なければいけないというのは分身を扱った物語のほぼお決まりの終わりであるように思える。結局ハンバート自身をも殺すよう数カ月長く生きたがのちに、一緒に死んでいくようになってしまったのではないだろうか。

    このような点からキルティはハンバートの分身であり、どちらにも悪の要素があるゆえにジキルとハイドのようにはっきりと善悪はつけ難いものであると考える。ハンバートにとってキルティという分身は自分の罪から逃れることができないということをより自覚させるような存在ではないだろうか。きっと分身の名前に “Clearly Guilty” と重ねたのは分身からハンバートに対するメッセージではないかと思う。 またハンバートは分身であるキルティをころすことで罪(悪)を彼にすべて押し付けようとしたが、結局すべて自分で背負いこむことになってしまった。そして自分自身も分身と共に(実際はあとを追う形だが)結局死んでしまったのではないかと思う。

    ロリータを通しハンバートやキルティの分身性について考えてきたが、他の分身を扱っている作品は見た目も完全に一緒であることが多い。それをまったく違うキャラクターで描くことの意図について少し疑問が残った。ただ単に “Trap”といとこの “ Trapp”を掛けたかっただけなのだろうか。またハンバートの悩み苦しむ人間性に対し、キルティの冷酷さの感じられる性格の違いにより善悪がより複雑になったと思う。「ジキル博士とハイド」、「ウィリアム・ウィルソン」のように完全に善と悪にわけなかったことで、人の善や悪をわけることはできない複雑さがより印象づけられているように感じた。


Back to: Seminar Paper Home