Seminar Paper 2010
Yuichi Sakai
First Created on January 27, 2011
Last revised on January 29, 2011
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HumbertとQuilty
H.Hに課せられた税金としてのC.Q
Introduction
この『Lolita』という物語を読み解くときに、一度はHumbertが持つ一面を反映した分身としてQuiltyが存在するというように解釈する人が多いのではないだろうか。では、作中で別々の人間として存在しているHumbertとQuiltyは善と悪、光と闇のような対となる人間性を持った2人であるのだろうか?
ナボコフはAlfred Appel Jr.とのインタビュー中において、自身の小説にたびたび登場する分身性を否定していたそうである。Lolita Articleでは、Quiltyは分身というよりはむしろ影であり陰であると述べられている。 「分身:1. 一つの本体が二つ以上に分かれること。また、その分かれて生じた身。(後略)」(*1)
「一つの本体が二つ以上に分かれる」というのは興味深い一文である。私は、この定義が述べているように、HumbertとQuiltyは元々一つ、もしくは極めてそれに近い関係性にある二人なのではないだろうかと考えた。前置きが長くなったが、以下で考察していこうと思う。
Discussion
'The moral sense in mortals is the duty道徳とは美意識に永遠に付いてまわる税金のようなものだ、ということである。美意識と道徳は常に一体であるというようにも読み解くことができる。ただし、ここで言う道徳意識というのは、ある種nymphetに関することにのみ適用されるとも言える。実際彼は、ValeriaがMaximovichと浮気をしていることを知った後、彼らを殺してしまうこともいとわないような発言をちらつかせていた。 ここで美意識と一体になって語られている道徳意識だが、Humbertがいわゆる「逃避行」を始める前の時点では少なからず彼の中に存在していた。 "... instead of a pale little gutter girl, Humbert Humbert had on his hands a large, puffy, short-legged, big-breasted and practically brainless baba." (p. 26)自分の中で、Annabelを起源とするnymphetというものの存在の大きさ、それを自分の手の内に収めたいという願望の大きさを認めながらも、「合法的に」その願望を、冴えない「田舎女」であるヴァレリアによって抑え込むことができる程度には、理性や道徳意識が働いていたということになる。物語開始時点においては、美意識と道徳意識は一体であり、そしてそのどちらもHumbertは持ち合わせていたのだ。 だが、その道徳意識も徐々に薄れてゆくこととなる。 'Emphatically, no killers are we. Poets never kill.' (p. 88)この時点ではまだLolitaただ一人のために人命を奪うような行為に及ぶことはなかったものの、この一文の直前に、Humbertは自身がこういったことを言うのは臆病者だからといった旨の発言もしており、またnymphetという存在がいかに尊く、それを手に入れるためならどんな手段をも厭わないと思わせるような素振りと発言を見せている。 Charlotteが死んだときにも、彼は自分のことを「crafty」と言い、彼女が死んでしまったことよりもこれからいかにLolitaと共にいるかを考えたり、事故の根本に自分が与していることを認めようとしなかったり、極めて自分本位で自己を省みようとすることはほぼなかった。 そしてLolitaとの旅が始まり、二人がとうとう一線を越えてしまった後、山の中でHumbertが彼女と交わした約束を破ってしまった後の場面では以下のように述べられている。 "I had just retracted some silly promise she had forced me ... and there she was sprawling and sobbing, and pinching my caressing hand, and I was laughing happily, ..." (p. 169)Humbertは、Lolitaとの約束をsillyと吐き捨てただけに留まらず、それよりも自分の願望を満たせたことに対する幸福感に酔いしれてさえいた。彼のnymphetに対する純粋すぎる欲望は、いつの間にか彼の中にあったはずの道徳意識をどこかへ追いやってしまっていたようだ。 ここで特筆すべき点、それはClare Quiltyという名前がこの文章間で徐々に物語に姿を現しているという点である。とは言っても、最初に物語上に名前が上がったのは刑務所内で目にしたWho's Who in the Limelightの中にその名前が記してあった、という登場の仕方ではあるが。この物語上において、明確にHumbertとQuiltyが別々の人物として存在していることが描写されて以来、Humbertの中にある道徳意識が徐々に瓦解し始めているという風にも取ることができる。 では、そのQuiltyが本格的にHumbertとLolitaに関わるようになってからはどうなっているのだろうか。 物語中盤、LolitaはHumbertの前から姿を消す。この、いわば「大脱走」の手引きをしていたのがQuiltyであることは後々明かされるのだが、終盤の殺害の場面までで、ある意味HumbertとQuiltyが最も接近したのがこの脱走の場面であるとも言えるだろう(ただしそれはLolitaという存在を介してであるが)。そしてLolitaがその口から脱走の手伝いをしたQuiltyの名を口にして以降、Humbertはそれまでとは違い(殺意を伴ってはいるが)明確に彼を意識するようになった。この間にHumbert自身にどのような意識の変化があったのだろうか。 '... I had hoped to deduce from my sense of sin the existence of a SupremeBeing.' (p. 282)彼の元からLolitaがいなくなった後に、神というもの認めようとあがいていたことを明かす場面である。これまでの行動やLolitaに対する行為・態度とは裏腹に、Humbertは自身が感じている罪の意識というものに明確に言及し、神に許しを請おうとしているようにも取れる。それまでは反道徳的な言動を省みることのなかったHumbertに少し変化が現れているのだ。 しかし、この大脱走の後にQuiltyはまた物語上から姿を消す。その最中、Lolitaとの長い旅の最中に、彼につきまとっていた影があった。Detective Trappである。後々Humbertはそれが幻影(彼の妄想が生み出した存在)であったことを明かすが、彼が現れるときはいつも、まるでHumbertの行動を非難しているかのようであった。一方このときQuiltyは彼とLolitaの物語に直接的に関わってくることはない。一時的にではあるが、Humbertが元々持ち合わせていた罪悪感、あるいは道徳意識と呼ぶべきかもしれないそれは、QuiltyからDetective Trappへと取って代わっているのである。道徳意識という存在は、執拗なまでに美意識を追いかけ続けているのだ。 そして、罪の意識を押しつけてHumbertを追い続ける影は、あるときをもってHumbertの中でその姿を一変させる。元の姿へと戻ると言った方が正しいのかもしれない。 "In the state of mind I now found myself, I had lost contact with Trapp's image. It had become completely engulfed by the face of Clare Quilty -- ..." (p. 290-291)Humbertが銃を持ち、まさに殺人へ赴こうとする直前の場面である。飾ってあった写真によって彼はその頭の中にQuiltyの顔をはっきりと思い浮かべると同時に、Detective Trappの姿を消し去ってしまった。Humbertの中から道徳意識が失われてゆくと同時に現れ、ときにはそれを外部からHumbertに対して向け、思い起こさせる存在、その役割を担う人物がDetective TrappからQuiltyへと交代した瞬間なのである。 これらの場面を見てわかるとおり、Quiltyを殺す前に既にHumbertは罪悪の意識に目覚めてはじめている。Lolita Articleでは、double-taleとしてこの物語を読むとき、通常とは異なり、分身によって諭されることなしに罪悪感に目覚めているHumbertが、分身物語的な意味もなく(殺人によって道徳意識に目覚めるということなしに)彼を殺すことによって、この物語全体が分身話のパロディと化しているとも述べられている。 では、道徳意識の化身とも言うべきQuiltyと直接接触したHumbertに変化はあったのだろうか? 'I want to stress the fact that I was responsible for every shed drop of his bubbleblood; ...' (p. 304)Quiltyを銃殺した直後のHumbertの独白の場面からの一文である。Quiltyが流す血の一滴一滴はHumberに責任がある、というのが直訳である。Every shed drop、という言葉を読み込むなら、この場でQuiltyが血を流し死んでいるというこの状況だけでなく、それに至るまでの経緯まで含めて全てにおいてHumbertに責任があるという風に解釈することもできる。つまりこれは罪の意識を自覚することがなしにはあり得ない発言なのだ。 最早彼の物語においてQuiltyが登場することはなくなった。この後にHumbertは殺人の罪で捕まり、刑務所へと送られることとなり、そして獄中において手記「Lolita (or the Confession of a White Widowed Male)」を執筆した。皮肉にもHumbertがその手でQuiltyを殺すことにより、その存在を永久に自分の心に刻み込むと共に、投獄され罪を償うこととなったのである。 Conclusion
Humbertに道徳意識が発露していたのは、Quiltyが物語上に姿を見せていないときであった。元々は一体として存在していたそれら二つは一時的に分離し、そして最後にQuiltyの死を持ってその存在を永遠にHumbertの中に刻み込んだ。結局はその道徳意識によって贖罪を選んだHumbertはそれを全うすることなくこの世を去ってしまったが。
*1: 小学館「デジタル大辞泉」、「分身」の項より引用 |
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