Seminar Paper 2010

Tsuno Yuka

First Created on January 27, 2011
Last revised on January 27, 2011

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小説Lolita の女性たち
ニンフェットとはいったい何者なのか

(序論)

1958年に全米でベストセラーになり、世界的な作家としての名声を確立した代表作『ロリータ』(1955)は、ナボコフが意図的にアメリカ作家になろうとして成功した作品である。主人公のハンバート・ハンバートはスイス生まれの知識人で、西欧文学に通じている。その彼が、離婚を転機としてアメリカに渡り、そこで俗物的な風俗文化に触れると同時に、彼が「ニンフェット」と呼ぶ特殊なアウラを持った女の子ロリータに出会うという物語。愛するがゆえの犯罪、つまり12歳の少女への感情をいるいろいろな物に置き換えて述べている。作品は、一部自認、一部自己弁護、一部読者相手への問いかけが繰り返されている。ロリータは作品の中で「ニンフェット」として定義されているが、実際にずっと「ニンフェット」なわけではない。「ニンフェット」とはどのような存在なのか、その特徴と歴史的背景を見てみる。

(本論)

初めに
主人公でもあり、語り手のハンバート・ハンバートはロリータを我が物にすることを夢見て、少女の母親であるシャーロット・ヘイズと結婚するが、シャーロットはロリータを厄介者扱いしていてサマーキャンプに送り出してしまい、ハンバートは失意の日々を送っている。そして、ある日、夫はよそよそしさを感じ取っていたシャーロットが、ハンバート・ハンバートの部屋にやってきて、何か隠し事はしていないかと探索する。実は、秘密の日記をつけているハンバート・ハンバーとは、何食わぬ顔で『少女大百科』のCの項目をぱらぱらと眺めるふりをする。

She gave me one of my 〜(p.92)

ナボコフの映画作品の中で『ロリータ』はナボコフ自身が、ロシア語に訳した唯一の長編小説である。彼に、言わせれば、『ロリータは』誤訳されそうな落とし穴に満ちている作品であるため、誰かが勝手に違う意味で解釈してしまわないよう、自分自身で翻訳することを決めた。そこで、ナボコフは、アメリカ文化の様々な細部を説明的に補強するかたわらで、英語原文ではほとんどロシア的な背景を持たなかったハンバート・ハンバートにロシア文学へのひそかな言及をおこなわれるなど、『ロリータ』の部分的な文化移植をはかっている。(紀平英作『グローバル化時代の人文学』京都大学学術出版会) このように、ナボコフは他のどの文学作品より、この作品に力を入れていたように感じる。

ニンフェットについて

ニンフの意味:ギリシャ神話に出てくる山野・河川・樹木・洞穴などの精霊。若くて美しい女性の姿をもち、歌と踊りを好む。長寿であるが不死ではない。妖精。美しい少女の形容。

妖精の様々な呼ばれ方:妖精たちは、理想的で英雄的な存在として描かれているが、もともとエルフと分類される妖精たちは、人間にとって危険極まりない存在であったという。エルフと付き合った人間はみな正気を失ってしまう。男のエルフは女を、女のエルフは男を誘惑し、エルフの国に連れ去ってしまう。連れ去られた人間は、人間の世界にはまず戻ることができないし、戻れたとしても、死ぬまで気が狂ったままだというのだ。人と良く似た姿をしている妖精は数多くいて、エルフはその代表であるが、他に有名な人の姿をした妖精としてはニンフがいる。湖や川、山や木などあらゆる場所に所属するニンフは、むしろ精霊に近い性質を持っている。ニンフの性格は自然に属するものであり、自然を破壊する人間に罰を与えるものの、日常的に人が注意を必要とするものではないらしい。

この作品で「ニンフェット」を使用したのは、実に的を射た表現だ。ある種の少女という人間というよりは、むしろ妖精に近い。そして、その妖精たちはあくまで広義の少女の部分集合に過ぎない。ナボコフはこのことを、実に興味深い表現を用いて定義している。

ニンフのような性質を持った少女たち(性格ではなく、性質)。それが「ニンフェット」なのだ。この作品では、「ニンフェット」について“It will be marked that ~” (p. 16)に定義してあるように、9歳から14歳までの境界線に存在し(学年でいえば、小学3年〜中学2年生まで)ロリータでいることができる時間は6年間と短い。短くて、はかないからこそ、ロリータであると推測できる。また、自分が途方もない魅力を持っているとは夢にも思っていない純粋な少女たち“She stands unrecognized by them and unconscious herself of her fantastic power.” (p. 17)。ハンバート・ハンバートによると、「ニンフェット」であるかどうかは美貌にはよらないという。あくまで本質的な部分にかかっているというのだ。多数の少女は往々にして綺麗で可愛く、透明感を持って素直な微笑みを浮かべている。それに対して「ニンフェット」の少女は、可愛らしいことは可愛らしいけれど、悪戯っぽい笑みを浮かべ、隙あらば誰かを自分の世界に引きずり込もうと常に身構えている。その目的の誰かが既に彼女に魅了されていることを知っているのだ。そして、まるで私を誘惑するような軽いスキンシップで人々を挑発するのである。実に数少ない、小悪魔的な魅力を持つ少女たち「ニンフェット」。ハンバート・ハンバートの定義によれば、その「ニンフェット」の代表たるロリータと同質の少女たちには、そうそう巡り会えないわけである。そして、同じような年齢の女の子の中から、「ニンフェット」を識別するには、“You have to be an artist〜herself of her fantastic power.” (p .17)に書いてあるように、優美さや、とらえどころなく不実で、心を千々に乱れさせる陰険な魅力といった特性こそ、同世代の少女たちの中で「ニンフェット」を区別する相違点であり、普通の感覚の男性には見分けが付かない。それは、ただ単に顔が美しいから二ンフェットになれるのではなく、幼くて自分の魅力にまだ気づいていないという純粋な心が必要である。また、一方で夢を見るような子供らしさに合わせて一種不気味な下品さも持ち合わせている。“The mixture of every nymphet” (p. 44)。こう考えるとどんな美少女でも中学校を卒業した時点で、「ニンフェット」を卒業してしまうのではないか。この作品でも、見た目が可愛らしい女の子から、下品でだらしない女の子に変化していくロリータ。その中で、ハンバート・ハンバートの心も、愛から一種の怒りを覚えるようになっている。

「ニンフェット」の発見

1837年〜1901年ヴィクトリア王朝時代
「不思議の国のアリス」の著者ルイス・キャロルが1865年に出版した児童文学。このときから、少女が商品化してきた。「アリス」という名前は、単にアリス・リデルという少女の名前を意味するに留まらず、現在の社会においては、特殊な意味を内包している。「アリス」と「ロリータ」はかなり異なる側面を持っている。 少女という存在は、多くの文学においてはテーマとなることはない。それは、少女の特質であるところの幼さが、作家をして彼らの主題となさしめることを妨げていることも一因であるが、些か傲慢な言葉で述べるとするならば、「少女」という存在を掴みきれないことも要因なのではないか。なぜ、「ニンフェット」が「不思議の国の中に育て上げられた」のか、これをもう少し突き詰めると、正確には「不思議の国に入らざるを得なかった」ということになる。少女は、実在の少女たちの断片を繋ぎ合わせたものであり、ある種の理想であるのだが、それは同時に醜悪なものですらある。現実にいるわけがないものを求め、その存在に巡り合うことを期待しながら、一度それに出会ったならば、私たちはその異様さに耐えきれないに違いないのである。(サエキけんぞう『W100 LIVEアイドル』シンコー・ミューック MOOK「ムック」)

産業革命による経済の発展が成熟に達した絶頂期に「ニンフェット」の発見はあった。活版印刷が発明され、紙のメディアが増えて工場もできたことにより、大量生産を試み、労働条件が厳しくなった。その中で、心が閉ざされてしまった労働者達が心の余裕を求め、少女愛に走ったのではないだろうか。顔は必ずしも美少女ではない。猫のように繊細なカーブをみせる頬骨、冷たくて妖しい目の輝き、そして、ちょっと不満げな感じで閉じられた唇。いくら言葉で説明しても、「ニンフェット」の顔の特徴は表現できないが、少女愛に捕らわれた者なら、すぐに「ニンフェット」と普通の少女を見分けられる。「ニンフェット」 の性格的特長とは、一言でいって、優等生タイプではない、おりこうさんタイプではない。おとなしくて何でも素直にいうことを聞く清楚な感じの少女が「ニンフェット」かというと、それはまれなこと。子供の持つイノセントは、可愛らしくて無邪気な善と、平気で狸を湖に沈めてしまう冷徹な悪が同居している。  

(結論)

ナボコフの作品に出てくるロリータのように、ニンフェットはだいたい気が強い。この本も読んでいて目立つのは、ロリータのほうから積極的ハンバート・ハンバートに働きかけている点である。気性の荒い野生の猫のようだ。自分では大人にも負けることはないと思っている。急に優しく甘い声ですり寄ってくるときには、何か魂胆がある。そういう子供が、れっきとした大人に媚を売って取り入ろうとする。「私だけを好きになって」そんな眼で大人を魅了する。そして、そんな子供に魅了されてしまう大人が少女のけがれのない瞳にだまされてはいけない。そう思いながらも、嬉々としてニンフェットの魔力に捕らわれてしまう大人は世の中に多いのではないか。女性にとって、いや、女性ばかりでなく、全ての生物にとって、時間とは不可逆的なものであり、どんな時間も、もう二度と手に入らない。

ニンフェットたちは、「少女」という枠を社会から押しつけられ、ある女の子は自身をありのままに表出させた結果、ある女の子は自身に色づけをして演出をした結果、ある種の人々が期待する「少女」の姿をとるのである。ジェンダーから脱却したところに少女が存在するのか。少女たちが、社会の枠組のなかで、いかようにも「洗脳」され、自己の世界を形作って行く様子を観察することは、その社会のあり方を観察することに等しいと言えるのではないだろうか。


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