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Seminar Paper 97


Mayumi Kanno

First created on December 19, 1997
Last revised on December 20, 1997

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Faulknerの黒人観
フォークナーは黒人を差別しているか?

T、序論

アメリカ南部の作品を読む時、黒人問題を避けて通ることは絶対にできない。南北戦争が終わってすぐの1898年から、1928年の約30年間を舞台とするこの作品の中に、奴隷性の残存を見ることができるだろうか。果たして黒人は、どのようにとらえられているのだろう。

U、本論

A、主要登場人物の黒人観

この作品の中で、それぞれの登場人物が、黒人たちをどうとらえているだろうか。まず、コンプソン家の子供達(白痴のベンジーを抜かした3人)の場合を挙げてみる。

1、クエンティン

死ぬ場所と時間を決めようとして、町をうろつくクエンティンは、ふと、ヴァージニアで会った黒人の男のことを思い出す。南部の習慣では、クリスマスの朝に「クリスマスギフト」と先に言った方が、言われた方から贈り物をもらうのを、クエンティンが大目にみて25セントを与えるのだが、やがてその場を去る時のその黒人の様子を、クエンティンは次のように表している。

"He stood there beside the gaunt rabbit of a mule, the two of them shabby and motionless and unimpatient."(p.87 ll.18-20)
クエンティンはその黒人を、motionless (不動)、unimpatient (忍耐)という言葉で表す。また、そのそばにいた、忍耐強いことが特徴のmuleも、この黒人と一緒にとらえられている。

2、キャディー

キャディーがこの作品の中で、黒人に対する彼女の考えを述べる場面はほとんどない。しかし、その言動の中に、明らかに黒人を白人と区別していることが読み取れる場面がいくつかある。

Dumuddy の死の場面で、ディルシーの娘フロニィーが、葬式が始まったか聞くと、キ ャディーはこう答える。“That's niggars. White folks don't have funerals."(p.33 ll.13-14)

彼女は、白人は死なないとまでは思っていないであろうが、明らかに黒人と白人を区 別している。子供が無意識に発する差別的な言葉の方が、意図的なものより、よりそ の差別が根深いことを感じさせないだろうか。また、そのキャディーの言葉に対し、 フロニィーが、“White folks dies too. Your grandmummy dead as any nigger can get, I reckon."(p.33 ll.25-27)と答えている。フロニィーもまた、黒人の側から白人を区別しているよう である。

3、 ジェイソン

女性、ユダヤ系白人に対してと同様に、ジェイソンは、黒人にたいしても、露骨な 差別の言葉を頻繁に発する。第3章では、「台所で飯を食わせてやっている大勢の黒 んぼ」という言葉が頻発し、彼が黒人を、共に暮らす仲間としてではなく、養ってや っている余分な者達としか考えていないことが分かる。しかし、キャディーと密会し たディルシーを叱った後で、“... I put the fear of God into Dilsey. As much as you can into a nigger, that is.” (p. 207 ll.19-20)と言っているところから、黒人の上に絶対的権力を振るっているようで実 は、おどかすこともできない様子であるのが、おかしくもある。

次に、黒人達が、自分達をどのようにとらえているか、考察したい。

上記の通り、フロニィーは、はっきりと黒人と白人を区別して考えているが、コンプ ソン家に仕える他の召し使い達も、同様の考えをもっているようである。フロニィー の息子ラスターは、クエンティン(キャディーの娘)が毎晩家を抜け出すことを、何 故誰にも言わなかったのかとディルシーに責められ、「白人のことには関わらない」 と言っている。ディルシーは、黒人の教会へ行くベンジーを嘲笑する人達を、次のよ うに言う。
"Trash white folks. Dat's who it is. Think he aint good enough fer white church, but nigger church aint good enough fer him."(p.290 ll.23-26)
ディルシーの考えでは、黒人と白人の区別だけでなく、階級意識も確立しているようである。

B、作品に登場する黒人像

1、 ディルシー

コンプソン家の女中ディルシーは、作品の中の黒人問題を考える上で、非常に重要な人物といえる。彼女の言動、またはその存在そのものが、南部の黒人の姿を体現しているように思われる。ディルシーは、女中としてコンプソン一家に忠実に仕え、家事をしきるだけでなく、子供達を、一見すると粗雑で口うるさいひがみ屋のような態度だが、母親以上の愛情をもって養育し、自分の子や孫である他の黒人召し使い達を統制する。その姿は、奴隷制の下で過酷な労働を強いられた、黒人達の暗い過去の投影のようでありながら、運命をあるがままに受け入れ、力強く生を全うする頼もしさがある。

第4章では、彼女が早朝からかいがいしく雑事をこなし、コンプソン夫人のきまぐれとも思える命令の一つ一つに従い、ベンジーや彼の守り役のラスターに目を配り、機嫌の悪いジェイソンをなだめ、クエンティン(キャディーの娘)を擁護する様子が描かれている。コンプソン氏と長男クエンティンを亡くし、長女キャディーは夫に去られた後、その名を口にすることさえも禁じられ、生まれた時から白痴の次男ベンジーを抱え、三男ジェイソンは、家族に内緒で不正に金儲けをしようと企み、母親のコンプソン夫人は、家事を放棄し一日中寝込んでいる、といった完全に落ちぶれてしまったコンプソン一家の中で、休みなく働き続けるディルシーの姿は、読者に頼もしいイメージと安心感を与えてくれる。

しかしフォークナーは、ディルシーに、単なる働き者の女召し使い以上の価値をもたせようとしているようである。
  “She had been a big woman once but now her skeleton rose, ..., as though muscle and tissue had been courage or fortitude which the days or the years had consumed until only the indomitable skeleton was left rising like a ruin or a landmark above the somnolent and impervious guts, and above that the collapsed face that gave the impression of the bones themselves being outside the flesh, lifted into the driving day with an expression at once fatalistic and of a child's astonished disappointment, .... (pp.265-266)
引用の前半では、彼女の体が、courage (勇気)とfortitude (忍耐)の年月を刻み込み、今なお不屈の精神をもちつづけることを示すといえる。後半に表わされた彼女の表情には、宿命論者的に運命、黒人としての、または没落家族の女中としての運命を受け入れ、かつその運命に対し無意識に、子供のように、無邪気な失望の色を表す、そんなディルシーの立場や心情を示すように思われる。

また、第4章後半の教会の場面では、宗教、神への敬意といった、黒人達の別の一面を垣間見ることができる。牧師が説教壇で力強く呼びかけると、会衆の一人がそれに応える。感動し、気持ちの高揚したディルシーは、涙を流す。そこには、論理を超えた魂の解放、神と一体となる至上の幸福がある。黒人達の神々しいほどのspiritualな様子が印象深い。

2、ディ−コン

第2章で、自殺を図ろうとするクエンティンは、ディ−コンという黒人に会おうとする。ディ−コンは、クエンティンの通うオクスフォード大学の、寮の小間使いである。クエンティンは、親戚でも友人でもないディ−コンに、死ぬ前になんとか会おうとし、また、遺品の一部を残す。クエンティンにとって彼は、非常に重要な存在であったことがうかがえる。

一目で南部人を見分けることができる、というディ−コンは、最後に会う時も、クエンティンに対し、suh、master、と呼びかけ、慇懃な態度を見せる。クエンティンは、そんな彼の様子から何を感じたのだろうか。
“..., and suddenly I saw Roskus watching me from behind all his whitefolks' claptrap of uniforms and politics and Harvard manner, diffident, secret, inarticulate and sad." (p. 99 ll.24-27)
北部の大学に通い、北部人の考えに合わせようと意識的に努力してきたクエンティンは、心の奥で、自分達白人に仕える黒人召し使いの姿を、懐かしく、恋しく思ったかも知れない。すっかり北部の様式を身につけていても、相変らず南部人の心を失っていないディ−コンの姿に、クエンティンは、デルシィーやロスカスといった、忠実な黒人召し使い達の姿を重ね合わせたのだ。彼が死ぬ前にどうしても会いたい、と思ったディ−コンというのは、南部そのものだったのかも知れない。

V、結論

これまで考察してきたことから、この作品におけるフォークナーの黒人観をまとめてみようと思う。

最初に、主要登場人物が黒人をどのように考えているかを、いくつか場面を挙げて見てきた。そこから、白人側も、黒人側も、どちらもお互いを区別し、自分達と違うものと認識していることが分かった。また、「(白痴の)ベンジーは、白人の教会に行くのには十分な人物ではないが、黒人の教会は彼にとって十分ではない」というディルシーの言葉からは、明らかに白人を優位とした見方が読み取れる。 南北戦争が終わり、それまで奴隷として白人に仕えてきた黒人達は、解放され、名目上、白人と同等の権利を与えられた。しかし、実際には、南部人の心から、完全に奴隷性を取り去ってしまうことはできなかったようである。それが、クエンティンのように、白人に敬々しく接する黒人達を恋しく思ったり、反対にジェイソンのように、“役に立たない黒んぼ”を見下す、といった行動となって現れたのかも知れない。

フォークナーは、勿論奴隷制を復活させたかったわけではないが、南部人の心の奥に、古き良き時代、黒人の上に権威を振るっていた頃を、懐かしく思う気持ちがあること、また、南部人にとって、差別意識は完全に取り去ることができないことを、読者に感じさせてくれるように思われる。

次に、作品に登場する黒人像を考察し、黒人の特質について、フォークナーが独特の形容をしていることに気付いた。彼の言う、黒人の“忍耐”、“勇気”とは、一体どういうものなのか。それは、自己犠牲的な白人への奉仕愛、と言えないだろうか。奴隷制の下で彼らは、常に、不平等、過酷な労働、白人の支配に耐えてきた。南部の大部分の白人の生活が、黒人達の忍耐の上に成り立っていた、といっても過言ではないだろう。フォークナーは南部人として、一般によく言われる奴隷制への罪意識を感じるとともに、彼らの忍耐と勇気をたたえ、賞賛する気持ちをもっていたのかも知れない。

また、奴隷制とはかけ離れて、フォークナーが登場する黒人に、ある種の超人的な要素をもたせたことにも気付かされる。コンプソン家の没落を予言するロスカス、ロスカスの霊を見るヴァ−シュ、黒人の教会での光景など、白人の登場人物にはない、spiritualな面をもち合わせるのである。フォークナーにとって、黒人達は、実際的な面と精神的な面の両方をもつ者と、とらえられているようである。

以上見てきたとおり、フォークナーの黒人観について、大きく、二つのことがいえる。一つは、南部人の心の奥に根強く宿る、黒人への差別意識である。そしてもう一つは、奴隷制への罪意識と、黒人達の忍耐強さといった特質をたたえる気持ちである。フォークナーの中に、黒人を軽蔑する気持ちは微塵もなく、むしろ、その忠誠心を懐かしみ、その特質を賞賛する気持ちが強いように思われる。彼にとっての黒人とは、南部人の幻想する、古き良き南部を支える、大事な影役者達だったようである。


Faulknerの黒人観
フォークナーは黒人を差別しているか?

T、序論

アメリカ南部の作品を読む時、黒人問題を避けて通ることは絶対にできない。南北戦争が終わってすぐの1898年から、1928年の約30年間を舞台とするこの作品(一応、ゼミ員以外の読者も想定して、The Sound and the Fury としておきましょう)の中に、奴隷性の残存(なぜ「奴隷制の残存」が問題になるのでしょう?)を見ることができるだろうか。果たして黒人は、どのようにとらえられているのだろう。

U、本論

A、主要登場人物の黒人観

この作品の中で、それぞれの登場人物が、黒人たちをどうとらえているだろうか。まず、コンプソン家の子供達(白痴のベンジーを抜かした(「除いた」)3人)の場合を挙げてみる。(なぜBenjyを除くのでしょうか?登場人物の意識の中の「奴隷制の残存」を問題にするなら省く理由は分かりますが、「Faulknerの黒人観」を問題にするなら、価値判断を伴わないもっともニュートラルな視点で黒人、白人を見つめるBenjyの視点は作者の黒人観を類推する上で重要と思います。例えば、LusterがJasonと同じように平気で嘘をつくことやBenjyに意地悪すること等。確かに、Benjyには黒人「観」と呼べるものはないでしょうが・・・)

1、クエンティン

死ぬ場所と時間を決めようとして、町をうろつくクエンティンは、ふと、ヴァージニアで会った黒人の男のことを思い出す。南部の習慣では、クリスマスの朝に「クリスマスギフト」と先に言った方が、言われた方から贈り物をもらうのを、クエンティンが大目にみて25セントを与えるのだが、やがてその場を去る時のその黒人の様子を、クエンティンは次のように表している。

"He stood there beside the gaunt rabbit of a mule, the two of them shabby and motionless and unimpatient."(p.87 ll.18-20)(行数は書かなくてよいことになっています。最初の引用なので、(William Faulkner, The Sound and the Fury (New York: Vintage International, 1990), p. 87. 以下、本書からの引用はページ数のみを記す。)とするのが「正式」です。)
クエンティンはその黒人を、motionless (不動)、unimpatient (忍耐)という言葉で表す。また、そのそばにいた、忍耐強いことが特徴のmuleも、この黒人と一緒にとらえられている。

2、キャディー

キャディーがこの作品の中で、黒人に対する彼女の考えを述べる場面はほとんどない。しかし、その言動の中に、明らかに黒人を白人と区別していることが読み取れる場面がいくつかある。

Dumuddy(Dumuddy)の死の場面で、ディルシーの娘フロニィーが、葬式が始まったか聞くと、キャディーはこう答える。“That's niggars. White folks don't have funerals."(p.33 ll.13-14)(p. 33)

彼女は、白人は死なないとまでは思っていないであろうが(授業で触れたようにこのときのCaddyは本当に死なないと思っていたはずです。)、明らかに黒人と白人を区別している。子供が無意識に発する差別的な言葉の方が、意図的なものより、よりその差別が根深いことを感じさせないだろうか。(やはり授業で触れたはずですが、このような曖昧な表現ではなく、「差別が根深いこと」はこの場面を解釈すれば単に「区別している」以上であることを論ずることができるはずです。教育実習で欠席していた?)また、そのキャディーの言葉に対し、 フロニィーが、“White folks dies too. Your grandmummy dead as any nigger can get, I reckon."(p.33 ll.25-27)と答えている。フロニィーもまた、黒人の側から白人を区別しているよう である。(なぜFronyも「区別している」とこの箇所から言えるのでしょう?彼女は白人も黒人も平等に死ぬとここでは言っていると、僕には読めますが・・・)

3、 ジェイソン

女性、ユダヤ系白人に対してと同様に、ジェイソンは、黒人にたいしても、露骨な 差別の言葉を頻繁に発する。第3章では、「台所で飯を食わせてやっている大勢の黒 んぼ」という言葉が頻発し、彼が黒人を、共に暮らす仲間としてではなく、養ってや っている余分な者達としか考えていないことが分かる。しかし、キャディーと密会し たディルシーを叱った後で、“... I put the fear of God into Dilsey. As much as you can into a nigger, that is.” (p. 207 ll.19-20)と言っているところから、黒人の上に絶対的権力を振るっているようで実 は、おどかすこともできない様子であるのが、おかしくもある。(Good point!)

次に、黒人達が、自分達をどのようにとらえているか、考察したい。

上記の通り、フロニィーは、はっきりと黒人と白人を区別して考えているが、コンプ ソン家に仕える他の召し使い達も、同様の考えをもっているようである。フロニィー の息子ラスターは、クエンティン(キャディーの娘)が毎晩家を抜け出すことを、何 故誰にも言わなかったのかとディルシーに責められ、「白人のことには関わらない」 と言っている。ディルシーは、黒人の教会へ行くベンジーを嘲笑する人達を、次のよ うに言う。
"Trash white folks. Dat's who it is. Think he aint good enough fer white church, but nigger church aint good enough fer him."(p.290 ll.23-26)
ディルシーの考えでは、黒人と白人の区別だけでなく、階級意識も確立しているようである。(「階級意識も確立している」については、もう少し説明がほしい。ただ、この箇所は授業で説明したように、もっと効果的にFaulknerの黒人観を論ずることができるはず。結論部分のコメントを参照。)

B、作品に登場する黒人像

1、 ディルシー

コンプソン家の女中ディルシーは、作品の中の黒人問題を考える上で、非常に重要な人物といえる。彼女の言動、またはその存在そのものが、南部の黒人の姿を体現しているように思われる。ディルシーは、女中としてコンプソン一家に忠実に仕え、家事をしきるだけでなく、子供達を、一見すると粗雑で口うるさいひがみ屋のような態度だが、母親以上の愛情をもって養育し、自分の子や孫である他の黒人召し使い達を統制する。その姿は、奴隷制の下で過酷な労働を強いられた、黒人達の暗い過去の投影のようでありながら、運命をあるがままに受け入れ、力強く生を全うする頼もしさがある。

第4章では、彼女が早朝からかいがいしく雑事をこなし、コンプソン夫人のきまぐれとも思える命令の一つ一つに従い、ベンジーや彼の守り役のラスターに目を配り、機嫌の悪いジェイソンをなだめ、クエンティン(キャディーの娘)を擁護する様子が描かれている。コンプソン氏と長男クエンティンを亡くし、長女キャディーは夫に去られた後、その名を口にすることさえも禁じられ、生まれた時から白痴の次男ベンジーを抱え、三男ジェイソンは、家族に内緒で不正に金儲けをしようと企み、母親のコンプソン夫人は、家事を放棄し一日中寝込んでいる、といった完全に落ちぶれてしまったコンプソン一家の中で、休みなく働き続けるディルシーの姿は、読者に頼もしいイメージと安心感を与えてくれる。

しかしフォークナーは、ディルシーに、単なる働き者の女召し使い以上の価値をもたせようとしているようである。
  “She had been a big woman once but now her skeleton rose, ..., (rose...as)as though muscle and tissue had been courage or fortitude which the days or the years had consumed until only the indomitable skeleton was left rising like a ruin or a landmark above the somnolent and impervious guts, and above that the collapsed face that gave the impression of the bones themselves being outside the flesh, lifted into the driving day with an expression at once fatalistic and of a child's astonished disappointment, .... (disappointment...)(pp.265-266)(pp. 265-266)
引用の前半では、彼女の体が、courage (勇気)とfortitude (忍耐)の年月を刻み込み、今なお不屈の精神をもちつづけることを示すといえる。後半に表わされた彼女の表情には、宿命論者的に運命、黒人としての、または没落家族の女中としての運命を受け入れ、かつその運命に対し無意識に、子供のように、無邪気な失望の色を表す、そんなディルシーの立場や心情を示すように思われる。

また、第4章後半の教会の場面では、宗教、神への敬意といった、黒人達の別の一面を垣間見ることができる。牧師が説教壇で力強く呼びかけると、会衆の一人がそれに応える。感動し、気持ちの高揚したディルシーは、涙を流す。そこには、論理を超えた魂の解放、神と一体となる至上の幸福がある。黒人達の神々しいほどのspiritualな様子が印象深い。(以上、非常に良く書けていますが、Faulknerの黒人観を論ずるならば、それと上記のDilsey像とをもっと大胆に結びつけて論じられると思います。)

2、ディ−コン

第2章で、自殺を図ろうとするクエンティンは、ディ−コンという黒人に会おうとする。ディ−コンは、クエンティンの通うオクスフォード(ハーバード!)大学の、寮の小間使いである。クエンティンは、親戚でも友人でもないディ−コンに、死ぬ前になんとか会おうとし、また、遺品の一部を残す。クエンティンにとって彼は、非常に重要な存在であったことがうかがえる。

一目で南部人を見分けることができる、というディ−コンは、最後に会う時も、クエンティンに対し、suh、master、("suh", "master")と呼びかけ、慇懃な態度を見せる。クエンティンは、そんな彼の様子から何を感じたのだろうか。
“..., and ("...and") suddenly I saw Roskus watching me from behind all his whitefolks' claptrap of uniforms and politics and Harvard manner, diffident, secret, inarticulate and sad." (p. 99 ll.24-27)
北部の大学に通い、北部人の考えに合わせようと意識的に努力してきたクエンティンは、心の奥で、自分達白人に仕える黒人召し使いの姿を、懐かしく、恋しく思ったかも知れない。すっかり北部の様式を身につけていても、相変らず南部人の心を失っていないディ−コンの姿に、クエンティンは、デルシィーやロスカスといった、忠実な黒人召し使い達の姿を重ね合わせたのだ。(南部人-正確には南部黒人-の心を失っていない、という見方は正しいかも知れませんが、北部人に同化しているように見えても「失っていない」という一種のしたたかさにFaulknerの黒人観が表れているように思います。)彼が死ぬ前にどうしても会いたい、と思ったディ−コンというのは、南部そのものだったのかも知れない。(この「南部」がどういうものかが、作者の黒人観を知る上で重要と思います。)

V、結論

これまで考察してきたことから、この作品におけるフォークナーの黒人観をまとめてみようと思う。

最初に、主要登場人物が黒人をどのように考えているかを、いくつか場面を挙げて見てきた。そこから、白人側も、黒人側も、どちらもお互いを区別し、自分達と違うものと認識していることが分かった。また、「(白痴の)ベンジーは、白人の教会に行くのには十分な人物ではないが、黒人の教会は彼にとって十分ではない」というディルシーの言葉からは、明らかに白人を優位とした見方が読み取れる。(ただ、これはあくまでも"trash white folks"がそう考えている、とDilseyが言っているだけで、Dilseyはそう考えていない。授業で言いましたが、僕には"trash white folks"がそう考えている、とDilseyに言わせたのは、作者の白人たちに対する痛烈な皮肉のように聞こえます。実際には、ほとんどの白人たちがそう考えているから、上流階級の白人を含めてほとんど全てが"trash white folks"になってしまう、という意味で。) 南北戦争が終わり、それまで奴隷として白人に仕えてきた黒人達は、解放され、名目上、白人と同等の権利を与えられた。しかし、実際には、南部人の心から、完全に奴隷性を取り去ってしまうことはできなかったようである。それが、クエンティンのように、白人に敬々しく接する黒人達を恋しく思ったり(Quentinが「白人に敬々しく接する」という理由で、DeconやRoskusを恋しく思っているとは思えません。それは菅野さんが引用している、電車の窓から話しかけたmuleに乗った黒人への郷愁と共通なものと思います。それを具体的に言葉で表現すれば、Faulknerの黒人観と結びつくと思います。)、反対にジェイソンのように、“役に立たない黒んぼ”を見下す、といった行動となって現れたのかも知れない。

フォークナーは、勿論奴隷制を復活させたかったわけではないが、南部人の心の奥に、古き良き時代、黒人の上に権威を振るっていた頃を、懐かしく思う気持ちがあること、また、南部人にとって、差別意識は完全に取り去ることができないことを、読者に感じさせてくれるように思われる。(その通りと思いますが、一般的な南部人の黒人観だけではなく、Faulknerの黒人観も同様と考えますか?本論部分のどの箇所から、そう考えるのでしょう?JasonやQuentinの態度からですか?)

次に、作品に登場する黒人像を考察し、黒人の特質について、フォークナーが独特の形容をしていることに気付いた。彼の言う、黒人の“忍耐”、“勇気”とは、一体どういうものなのか。それは、自己犠牲的な白人への奉仕愛(少なくもDilesyの場合は「自己犠牲的な白人への奉仕愛」から「白」を省けるのではないでしょうか?)、と言えないだろうか。奴隷制の下で彼らは、常に、不平等、過酷な労働、白人の支配に耐えてきた。南部の大部分の白人の生活が、黒人達の忍耐の上に成り立っていた、といっても過言ではないだろう。フォークナーは南部人として、一般によく言われる奴隷制への罪意識を感じるとともに、彼らの忍耐と勇気をたたえ、賞賛する気持ちをもっていたのかも知れない。(これを結論とするなら、その線に沿って本論を再構成できると思います。)

また、奴隷制とはかけ離れて、フォークナーが登場する黒人に、ある種の超人的な要素をもたせたことにも気付かされる。コンプソン家の没落を予言するロスカス、ロスカスの霊を見るヴァ−シュ、黒人の教会での光景など、白人の登場人物にはない、spiritualな面をもち合わせるのである。フォークナーにとって、黒人達は、実際的な面と精神的な面の両方をもつ者と、とらえられているようである。(「迷信深さ」などとともに、この側面を作者は肯定的、否定的、どちらにとらえていると思いますか?)

以上見てきたとおり、フォークナーの黒人観について、大きく、二つのことがいえる。一つは、南部人の心の奥に根強く宿る、黒人への差別意識である。そしてもう一つは、奴隷制への罪意識と、黒人達の忍耐強さといった特質をたたえる気持ちである。フォークナーの中に、黒人を軽蔑する気持ちは微塵もなく、むしろ、その忠誠心を懐かしみ、その特質を賞賛する気持ちが強いように思われる。彼にとっての黒人とは、南部人の幻想する、古き良き南部を支える、大事な影役者達だったようである。(このパラグラフの「差別意識」はあるが、軽蔑する気持ちは「微塵もない」、というのは、おそらく正しいでしょうが、僕には、自己矛盾しているようで、よく理解できません。)

総評:コンパクトに上手く構成されており、良く書けている。但し、欲を言えば、結論部分はもっと短くて良いから、本論部分に結論部分の一部を移動し、そこで述べている作者の黒人観ともっと結びつけるなどの方法で、可能な範囲でよいから再構成してもらいたい。

望まれる水準には達していますが、さらに完成された論文としてホームページに掲載するため部分的に書き直すことを希望します。提出は1月末までで構いません。

 


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