Seminar Paper 97
Mami Kitakubo
First created on December 19, 1997
Last revised on December 20, 1997
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Benjyの特徴とBenjyの役割について
Benjyは、この作品の登場人物の中でも、特別な存在であると思われる。作品の初めにBenjyの独白の章がおかれているが、その語り方は、彼は生まれながらに白痴という運命を背負っているがために、物事や自分の行動を客観的に観察しているわけではない。彼はただものごとを見、聞き、かつ行動しているにすぎないように思われる。そのような様子を表す所は、至る所に見られるが、この作品の初めの場面でゴルファ−たちの様子が描かれている所では“they were hitting.”(P3)とtheyをゴルファ−という名前で認識できていないし、“they went to the table.”(P3)の文中のtableはgolfのteeであるが、tableとしてしか認識していない。また“Luster’s hand came and took another piece.”(P57),“The long wire came across my shoulder.”(P58)にも表れているように、目の前の出来事に対する認識力は非常に虚ろなものであるのがわかる。
“Caddy put her arms around me, and her shining veil,and I couldn’t smell trees anymore and I began to cry.”のCaddyの結婚式の場面では、Benjyはいよいよ木のにおいがするCaddyがいなくなるのを感じ取っている。過去におけるBenjyは最愛の姉といっしょに思いがけず長時間遊びまわることができたし、特に夜はCaddyといっしょに寝ることができた。QuentinもJasonもまだ子供の純真さを持っていたし、(Damuddyの死の場面より)Vershも気さくで頼りになる黒人少年だった。 では、過去と対比されている現在はどうだろう。今は姉のCaddyはいないばかりか、Quentinは死に、ただ一人残った兄のJasonは意固地な利己主義者となってしまっている。そしてBenjyが見ることができるのは “Come away from there,Benjy,Luster said.You know Miss Quentin going to get mad.”(p46)にも表されているように、Caddyの姿ではなく、あるいはかつての姉の情事を忍ばせる姪のQuentinとよその男であり、ここにはかつての牧歌的な世界がなく、虚無的な頽廃した世界がBenjyの、周りを取り囲んでおり、まさにCompson家の崩壊があらわになっている。 Benjyの章では、今まで述べたようにあらゆる過去の思い出が現在に潜入し、牧歌的と虚無性、郷愁と呪詛という独白によって語られる現在と過去の対比は、彼の発する泣き声で象徴され、章全体の雰囲気を作りあげている。 第一部ですでにこのような過去と現在の対比が設定され、一つの基調を作りあげている以上、その対比の世界から他の登場人物も抜け出し得ないはずである。(20世紀英米文学案内16フォ−クナ−62参照)Quentinの章がはるか過去のことに属し、Jasonの章がBenjyの章の前日に属していることは、まさにその明瞭な証拠であるように思われる。 では、具体的に、他の人物たちはどんな形で、この対比の世界にかかわっているのだろうか。 二章に属しているQuentinの章はQuentinが自殺する直前の様子が描かれているが、この章においてもBenjyの章と同様、さまざまな過去の記憶が現在に潜入している。QuentinはCaddyの処女喪失とtime obsessionにとらわれており、BenjyがCaddyの不在に感覚的にとりつかれていたとすれば、この日のQuentinはまさに知的にとりつかれている。Caddyの倫落は彼にとっては、自分自身の精神の挫折を意味し、現在にむなしさを感じて自殺の想念に追い込まれていく。いわば、過去がもたらした悲劇だと言い換えることができるように思える。具体的に見ると、 “She ran right out of the mirror,out of the banked scent. Roses. Roses.Mr.and Mrs.Jason Richmond Compson announce the marriage of−”(p77)の結婚式の場面を絶望的な思いで、思い出している一方、“I said I have committed incest Father”(p77),“I have committed incest I saidFather it was I it was not Dalton Ames”(p79)と近親相姦を犯したと父に告げたことを思い出している。またtimeのobsessionは時計を壊したり、“Then I could hear the watch again”(78)と、時を非常に神経質に意識していることが読み取れる。おそらくQuentinにとってtimeとは悪魔のようなもので、Caddyの処女喪失という事実もtimeのなせる業だという思いに至ったために、timeにとりつかれているのではないかと思われる。QuentinはBenjyと違い、自殺という道を選んだけれども二人が過去の処女のCaddyのイメ−ジから免れられないという所は同じである。 そして三章のJasonの章では、ただ一人崩壊寸前のCompson家を支えているJasonの姿と親のCaddyの姿を彷彿とさせるような情事に明け暮れる十七才のQuentinの姿が描かれている。この二人もBenjyやQuentinとは多少異なっているが、過去から逃れることはできない。そもそもQuentinの存在事態がCaddyの不倫の子であり、Jasonも兄と父の亡き後、無力な母親や白痴のBenjyばかりではなくQuentinまでも、つまり、Compson家の過去の愚かしさの結果としての、現在の頽廃と不幸の総和を、その肩に担わされているのである。(20世紀英米文学案内16P74より) では二章、三章で語られている、Benjy以外の他の兄弟の様子は、Benjyの章とどうかかわっているだろうか。 例をとって挙げてみると、“Roskus came and said to come to supper−”(P19)からBenjyの意識がDamuddyの死んだ日に戻る部分があるが、このDamuddyの死の場面は、後のQuentin、Jason,Caddyの運命を象徴する場所が数多く見られる。“Caddy was all wet and muddy behind, and I started to cry.”(P19)の所でCaddyが服を濡らし、あとでdrawerを泥まみれにすることは、Caddyの後の処女喪失と倫落を象徴的に予表しているばかりかCaddyを偏愛する兄Quentinの苦悶とBenjyの嘆きをすでに作りあげている。(注釈による) また、“Caddy took her dress off and threw it on the bank.Then she didn’to have on anything but her bodice and drawers,and Quentin slapped her and−”では注釈にもあるように、Caddyが実際に服を脱いでしまい、兄のQuentinはなすすべもなく彼女をたたく。このことは、Caddyの処女喪失に際して、Quentinが彼女に感じる無力さと対照させることができる。そしてその後“She began to splash water on Quentin、and Quentin splashed wateron Caddy”(P18)の水の掛け合いの場面は、二章でQuentinがイタリア移民の少女を連れて泳いでいる子供たちから水をかけられた時に思い出す場面でもある。そして、P20の“Jason cried.His hands were in his pockets.”“Jason going to be rich man”では、後にJasonが金に執着する姿を連想させ、みんなの後ろからついていく孤立した様子は、Mrs Compsonの家であるBasocom家の血を唯一引く者として現在無力な母を支えるJasonの姿へと結びつく。このように、登場人物の現在をもたらした原因である過去のさまざまな出来事やその要因となり得た個々の気質などは、Benjyの独白の章で思い出される過去の記憶にふんだんにもりこまれており、その後作品を読み進る上で、かなりの対比をなすようになっている。言い換えれば、この対比の世界を強調するために、章の配列も時間の流れ通りにはあえてせず、過去の重要性にさらに強烈な印象を与えるために、Benjyの白痴の鋭い感覚を通して思い出させているように思われる。なぜならBenjyの意識は他のだれよりも現在と過去を自由に行き来することが可能であるために、この対比の世界を強調し、鮮やかな伏線を作るにはもっとも適した語り手と思われるからである。 そして四章では、三つの独白の悪夢のような呪縛から急に客観描写に変わる。四章の配列は先にも述べたように過去と現在を最もあざやかに対比させるための配列であるが、その一方、章全体としての話しの中心はほぼ過去から現在に配列されているように思える。言い換えれば過去にとれわれている重みが重い順に配列されている。Benjyの章では白痴であるがため、過去と現在が同じくらいかそれ以上に意識の上であがっている。QuentinもBenjyほどではないが、過去のことをよく思い出している。そして三章になるとかなり現在に重点が置かれた語り口になっている。ここまでCompson家の過去を重視して効果的な独白で印象づけた後に、四章で現在の客観描写を加えることで、より強烈に現在のCompson家の崩壊寸前の頽廃した姿を赤裸々な姿としてうつし出すことが可能になっていると思われる。 では四章にBenjyはどのような役割を果たしているのだろうか。一章のように独白の形をとっていないために、過去の記憶による過去と現在の対比は表れないが、この客観描写においてもBenjyはその対比の世界を作りあげている。では現在のみの語り口で、どうやって対比を実現させているか。その典型的な場面が、この作品の結末の部分である。LusterがBenjyを乗せて、墓場に向かうが、彼は左まわりに馬車を走らせるので、Benjyはたちまちにして秩序感を失い、絶望的な呻き声を発する。これは “I could hear Queenie’s feet and the brightshapes went smooth and steady on bothsides,the shadows of them flowing acrossQueeenie’s back.(P11)とあるように、Benjyの章で語られている楽しい思い出と対照をなしている。この時はいつもの習慣通り、spuareを馬車が右まわりに走らせたので、Benjyは心楽しみ、brighat shapesも見ることができる。このbright shapesは注釈にもあるように、Benjyが心楽しんでいるときに出て来るmotifであるが、四章での馬車の場面ではbright shapesに浸っていることはできず、象徴的なものとなっている。 今まで述べてきた中で考えてみると、この作品においての主役はCadyyであり、この作品はCaddyの話であるということもできるが、作品全体を語る人物はBenjyであると考えられる。そしてそのことによってこの作品を難解でありながら、おもしろいものとしているのだともいえる。
Benjyの特徴とBenjyの役割について
Benjy(英語は半角に直すこと。Bnejy)は、この作品の登場人物の中でも、特別な存在であると思われる。作品の初めにBenjyの独白の章がおかれているが、その語り方は、彼は生まれながらに白痴という運命を背負っているがために、物事や自分の行動を客観的に観察しているわけではない。彼はただものごとを見、聞き、かつ行動しているにすぎないように思われる。そのような様子を表す所は、至る所に見られるが、この作品の初めの場面でゴルファ−たちの様子が描かれている所では“they(文章の途中から引用する場合は"...they were hitting."と省略記号...を用いた方がいいでしょう。) were hitting.”(英文は半角に直すこと。他の人のレポートを参照。)(P3)((p. 3) のようにp. を半角小文字に直すこと。)(テキストからの最初の引用なので、(William Faulkner, The Sound and the Fury (New York: Vintage International, 1990), p. 3. 以下、本書からの引用はページ数のみを記す。)とするのが「正式」です。)とtheyをゴルファ−という名前で認識できていないし、“they went to the table.”(P3)("...they went to the table." (p. 3)以下も同様に全部半角に訂正のこと。)の文中のtableはgolfのteeであるが、tableとしてしか認識していない。また“Luster’s hand came and took another piece.”(P57),(や)“The long wire came across my shoulder.”(P58)にも表れているように、目の前の出来事に対する認識力は非常に虚ろなものであるのがわかる。
“Caddy put her arms around me, and her shining veil,and I couldn’t smell trees anymore and I began to cry.”(p. ??)必要な箇所とは思いますが、引用の仕方がぎこちないので、前後の地の文との結びつきを工夫してみて下さい。のCaddyの結婚式の場面では、Benjyはいよいよ木のにおいがするCaddyがいなくなるのを感じ取っている。過去におけるBenjyは最愛の姉といっしょに思いがけず長時間遊びまわることができたし、特に夜はCaddyといっしょに寝ることができた。QuentinもJasonもまだ子供の純真さを持っていたし、(Damuddyの死の場面より)Vershも気さくで頼りになる黒人少年だった。( )内が意味不明。 では、過去と対比されている現在はどうだろう。(過去にも上で述べているように様々な出来事とそれにまつわるBenjyの感情があり、一概に過去と現在を対比できないのでは・・・)今は姉のCaddyはいないばかりか、Quentinは死に、ただ一人残った兄のJasonは意固地な利己主義者となってしまっている。そしてBenjyが見ることができるのは “Come away from there,Benjy,Luster said.You know Miss Quentin going to get mad.”(p46)にも表されているように、Caddyの姿ではなく、あるいはかつての姉の情事を忍ばせる姪のQuentinとよその男であり、ここにはかつての牧歌的な世界がなく、虚無的な頽廃した世界がBenjyの、周りを取り囲んでおり、まさにCompson家の崩壊があらわになっている。 Benjyの章では、今まで述べたようにあらゆる過去の思い出が現在に潜入し、牧歌的と虚無性、郷愁と呪詛という独白によって語られる現在と過去の対比は、彼の発する泣き声で象徴され、章全体の雰囲気を作りあげている。(牧歌的な過去はほんの一部では・・・。ここまでで、Benjyの章における彼の語彙や語りの手法が論じられていると言えるでしょうか?あまりに部分的で余分なものが多すぎると思います。) 第一部ですでにこのような過去と現在の対比が設定され、一つの基調を作りあげている以上、その対比の世界から他の登場人物も抜け出し得ないはずである。(20世紀英米文学案内16フォ−クナ−62参照)Quentinの章がはるか過去のことに属し、Jasonの章がBenjyの章の前日に属していることは、まさにその明瞭な証拠であるように思われる。(なぜ、「明確な証拠」なのでしょうか?) では、具体的に、他の人物たちはどんな形で、この対比の世界にかかわっているのだろうか。(なぜ、ここでそれを論ずる必要があるのでしょう?課題は他の兄弟たちがBenjyとどう関わるかではなくて、Benjyがどのように関わるかを要求しているので、むしろ逆のことをやろうとしていると言えます。) 二章に属しているQuentinの章はQuentinが自殺する直前の様子が描かれているが、この章においてもBenjyの章と同様、さまざまな過去の記憶が現在に潜入している。QuentinはCaddyの処女喪失とtime obsessionにとらわれており、BenjyがCaddyの不在に感覚的にとりつかれていたとすれば、この日のQuentinはまさに知的にとりつかれている。Caddyの倫落は彼にとっては、自分自身の精神の挫折を意味し、現在にむなしさを感じて自殺の想念に追い込まれていく。いわば、過去がもたらした悲劇だと言い換えることができるように思える。具体的に見ると、 “She ran right out of the mirror,out of the banked scent. Roses. Roses.Mr.and Mrs.Jason Richmond Compson announce the marriage of−”(p77)の結婚式の場面を絶望的な思いで、思い出している一方、“I said I have committed incest Father”(p77),“I have committed incest I saidFather it was I it was not Dalton Ames”(p79)と近親相姦を犯したと父に告げたことを思い出している。またtimeのobsessionは時計を壊したり、“Then I could hear the watch again”(78)(p. 78) と、時を非常に神経質に意識していることが読み取れる。おそらくQuentinにとってtimeとは悪魔のようなもので、Caddyの処女喪失という事実もtimeのなせる業だという思いに至ったために、timeにとりつかれているのではないかと思われる。QuentinはBenjyと違い、自殺という道を選んだけれども二人が過去の処女のCaddyのイメ−ジから免れられないという所は同じである。 そして三章のJasonの章では、ただ一人崩壊寸前のCompson家を支えているJasonの姿と親のCaddyの姿を彷彿とさせるような情事に明け暮れる十七才のQuentinの姿が描かれている。この二人もBenjyやQuentinとは多少異なっているが、過去から逃れることはできない。そもそもQuentinの存在事態がCaddyの不倫の子であり、Jasonも兄と父の亡き後、無力な母親や白痴のBenjyばかりではなくQuentinまでも、つまり、Compson家の過去の愚かしさの結果としての、現在の頽廃と不幸の総和を、その肩に担わされているのである。(20世紀英米文学案内16P74より) では二章、三章で語られている、Benjy以外の他の兄弟の様子は、Benjyの章とどうかかわっているだろうか。(前述したように、これは全く要求されていない事項です。) 例をとって挙げてみると、“Roskus came and said to come to supper−”(supper...") (P19)からBenjyの意識がDamuddyの死んだ日に戻る部分があるが、このDamuddyの死の場面は、後のQuentin、Jason,Caddyの運命を象徴する場所が数多く見られる。“Caddy was all wet and muddy behind, and I started to cry.”(P19)の所でCaddyが服を濡らし、あとでdrawerを泥まみれにすることは、Caddyの後の処女喪失と倫落を象徴的に予表しているばかりかCaddyを偏愛する兄Quentinの苦悶とBenjyの嘆きをすでに作りあげている。(注釈による) また、“Caddy took her dress off and threw it on the bank.Then she didn’to(?) have on anything but her bodice and drawers,and Quentin slapped her and−”(and..." (p. ??) では注釈にもあるように、Caddyが実際に服を脱いでしまい、兄のQuentinはなすすべもなく彼女をたたく。このことは、Caddyの処女喪失に際して、Quentinが彼女に感じる無力さと対照させることができる。そしてその後“She began to splash water on Quentin、and Quentin splashed wateron Caddy”(P18)の水の掛け合いの場面は、二章でQuentinがイタリア移民の少女を連れて泳いでいる子供たちから水をかけられた時に思い出す場面でもある。そして、P20の(20ページでの) “Jason cried.His hands were in his pockets.”“Jason going to be rich man”では、後にJasonが金に執着する姿を連想させ、みんなの後ろからついていく孤立した様子は、Mrs Compsonの家であるBasocom家の血を唯一引く者として現在無力な母を支えるJasonの姿へと結びつく。 このように、登場人物の現在をもたらした原因である過去のさまざまな出来事やその要因となり得た個々の気質などは、Benjyの独白の章で思い出される過去の記憶にふんだんにもりこまれており、その後作品を読み進る上で、かなりの対比をなすようになっている。言い換えれば、この対比の世界を強調するために、章の配列も時間の流れ通りにはあえてせず、過去の重要性にさらに強烈な印象を与えるために、Benjyの白痴の鋭い感覚を通して思い出させているように思われる。なぜならBenjyの意識は他のだれよりも現在と過去を自由に行き来することが可能であるために、この対比の世界を強調し、鮮やかな伏線を作るにはもっとも適した語り手と思われるからである。(Good point!) そして(第)四章では、三つの独白の悪夢のような呪縛から急に客観描写に変わる。四章(この小説の各章?)の配列は先にも述べたように(?)過去と現在を最もあざやかに対比させるための配列であるが、その一方、章全体としての話しの中心はほぼ過去から現在に配列されているように思える。言い換えれば過去にとれわれている重みが重い順に配列されている。Benjyの章では白痴であるがため、過去と現在が同じくらいかそれ以上に意識の上であがっている。QuentinもBenjyほどではないが、過去のことをよく思い出している。そして三章になるとかなり現在に重点が置かれた語り口になっている。ここまでCompson家の過去を重視して効果的な独白で印象づけた後に、四章で現在の客観描写を加えることで、より強烈に現在のCompson家の崩壊寸前の頽廃した姿を赤裸々な姿としてうつし出すことが可能になっていると思われる。(Good point!) では四章にBenjyはどのような役割を果たしているのだろうか。一章のように独白の形をとっていないために、過去の記憶による過去と現在の対比は表れないが、この客観描写においてもBenjyはその対比の世界を作りあげている。では現在のみの語り口で、どうやって対比を実現させているか。その典型的な場面が、この作品の結末の部分である。LusterがBenjyを乗せて、墓場に向かうが、彼は左まわりに馬車を走らせるので、Benjyはたちまちにして秩序感を失い、絶望的な呻き声を発する。これは “I could hear Queenie’s feet and the brightshapes went smooth and steady on bothsides,the shadows of them flowing acrossQueeenie’s back.(P11)とあるように、Benjyの章で語られている楽しい思い出と対照をなしている。この時はいつもの習慣通り、spuare(square)を馬車が右まわりに走らせたので、Benjyは心楽しみ、brighat(bright) shapesも見ることができる。このbright shapesは注釈にもあるように、Benjyが心楽しんでいるときに出て来るmotifであるが、四章での馬車の場面ではbright shapesに浸っていることはできず、象徴的なものとなっている。 今まで述べてきた中で考えてみると、この作品においての主役はCadyy(Caddy)であり、この作品はCaddyの話であるということもできるが、作品全体を語る人物はBenjyであると考えられる。そしてそのことによってこの作品を難解でありながら、おもしろいものとしているのだともいえる。(言いたいことは分かりますが、ここまで論じてきたことから、ちょっと飛躍しすぎていませんか?) 総評:上述したように、自分で選択したテーマからかなり離れていますし、内容、構成、引用の仕方などに難がありすぎます。参考文献を利用するのは構いませんが、あくまで自分でテーマにそって、何をどのように述べるかを決めてから、参考文献を参照して下さい。参考文献の構成、内容にそって論を進めるのは本末転倒です。他の人のゼミ論とその後半につけた僕のコメントをまず読んでみて下さい。構成を考える上で参考になるのは、北窪さんにとっては、序論、本論、結論が明示されている菅野さんのもの、テーマ的には大島さんのもの、間接的には山本さん、馬場さんのものが、特に参考となるでしょう。 忙しいかも知れませんが、ぜひ冬休み明けまでに書き直して、再提出して下さい。遅れると、試験とぶつかり、大変になると思います。疑問点などがありましたら、僕の自宅に電話してもらって構いません。 |
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