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Seminar Paper 97


Junko Ohshima

First created on December 19, 1997
Last revised on December 21, 1997

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「三人の兄弟 」
−Satan にとりつかれた哀れな3人の物語−

 私はThe Sound and the Furyを読んで、同じ一つの言葉でも「どのように語るか」で、まことに違った印象を与えるということに気づいた。小説のすごいところは、単なる「記号」にすぎない、しかも限りある言葉のみを使って、まるで私たちが実際に自分の目で見たかのように感じさせるところである。また視覚的な情報をいっさい用いず、その限りある言葉のみを使って何千通りもの人間像を描き出せることはまことに興味深いところである。もちろん言葉を使って描き出せるものは人間像だけではない。私たちが現実に経験していることを、可能な限りではあるが「記号化」することができるのである。また小説のおもしろいところは、現実にはありえないことでさえつくりだすことができるところである。この小説の中でも第1章でいきなり「物言えぬ白痴」であるはずのBenjy が語るという、現実にはありえないことが平然と描かれているのである。私は作者が、各章の語りの手法を変えただけで、3人の兄弟の違いを見事に表わしているのに感動した。そこで私は、この小説の各章の語りの手法を分析して、それが3人の兄弟の特質をいかに効果的に表現しているか論じようと思う。

 まず初めにBenjy の章の語りの手法を分析してみよう。大きく分けると3つのタイプがあることに気づく。1つ目は「鋭い嗅覚」、2つ目は「白痴的な表現」、そして3つ目は「意識の飛躍」である。具体的にみてみよう。まず「鋭い嗅覚」であるが、Benjy はどうやら嗅覚が異常に発達しているようである。「〜のように感じる」と表現するのではなく、「〜のような匂いがする」という表現が頻繁に使われている。また、この表現は主として彼の最愛の姉Caddy の処女喪失に関連してよく出てくる。ここでテキストの文を引用してみよう。初めは、つまり処女喪失前までは"Caddy smelled like trees."(p.5)といっていたのだが、彼女が処女喪失した後では"I couldn't smell trees anymore and I began tocry."(p.40) というように変化していく。注釈によると、Caddy はBenjy にとって「自然のような」存在だったことがわかる。「自然」を定義づけることは難しいが、Benjy が追い求めていたのはおそらく汚れのない、まるで木漏れ日のこぼれるすがすがしい木の香りがするようなCaddy であったのであろう。それが処女喪失によって汚れた匂いになっていったのではないだろうか。この他にもsmell という表現はよく出てくる。例えば「死の匂い」というものもその一つである。Mr.Compsonの死の場面で "I could smell it."(p.34)という文章があるが、これはまさにMr.Compsonの死の匂いを嗅ぎとったのであろう。また、Dammudy の死の場面でも"Something I could smell."(p.75)という文章がある。これらのことからもわかるように、Benjy はその優れた嗅覚によって、様々な変化を感じとっているのであろう。普通の人ならば、"feel"とでも表現しそうなところをあえて"smell" と表現したところにBenjy の特質が巧みに描かれているのであろう。

 次に「白痴的な表現」についてだが、これは本来「物言えぬ」白痴であるBenjy が語っているという、一種矛盾に満ちたこの章の中で、やはりBenjy が白痴であるということがわかる表現のことである。テキストを引用してみよう。"My hand jerked back and I putit in my mouth and Dilsey caught me."(p.59) この文章を読む限り、Benjy には火傷をしたという概念はないように思われる。彼はただ「僕の手が急に戻ってきて、僕はそれを口に入れたんだ。」という感覚しか持っていない。「火傷をして熱かったので」という明確な表現ができないところにBenjy の白痴性が暗に含まれているのである。もう一つ例を挙げてみよう。冒頭の文章、"Through the fence, between the curing flower spaces,Icould see them hitting"(p.3)である。これについては参考図書を引用することにする。
 今の短い引用文に限って言えば、彼が「ぼく」に付与している白痴の属性は、おそらく「打つ」という言葉に最もよく集約されている。「ぼく」と読者の視線は、「彼らが打っている」という事実に集中しているのだが、「打つ」という言葉が指示する意味内容はきわめて広く、しかも、この今の特殊な場合の「打つ」の意味内容を明確に規定しえないところに、「ぼく」の白痴性−名づけ得ぬという白痴の強いられた「沈黙」が巧みに暗示されているからである。(大橋健三郎『フォ−クナ−研究1』(南雲堂,1986,p.193)
つまり、物事を明確に理解できないからこのように表現するのであろうし、このように表現することによって、自ら白痴であることを述べずとも白痴であることを読者に伝えることができるのである。これは作者の見事なトリックの一つであろう。

 最後に「意識の飛躍」についてだが、これは原則としてそのときBenjy が見たり、聞いたり、感じたりしたものがきっかけとなっておこる。例として、現在の場面からDammudy の死の場面に意識が飛躍したときのことをみてみよう。"I hushed and got in the waterand Roskus came and Caddy said, It's not supper time yet. I'm not going.She was wet."(p.17) Benjy は川に入ったことがきっかけとなって、Dammudy が死んだ日にCaddyたちと一緒に川に入っていったことを思い出す。注釈によると、このことはBenjy の最も幸福な幼児記憶であるという。その証拠にBenjy はしばらくの間Caddy がまだ木のような匂いがしていた頃の幸せだった思い出に浸っていて、Caddy 失ってしまった悲しい現在にはほとんど戻ってこないのである。このように、Benjy にとっての現在がいかにつらいものであるかを巧みに描き出している作者の手法に改めてはっとする。以上のことが私の考えるBenjy の特質である。

 次にQuentin の章の語りの手法を分析してみよう。Quentin の章では"time obsession"とCaddy の"loss of virginity" に注目して考えていこうと思う。Quentin が"time"に取り付かれていたことは冒頭の文章の"then I was in time again."(p.76) という部分からも明らかである。Quentin の"time obsession"とは、結局彼が愛するするCaddy の"loss of virginity" に苦しんでいる姿を見た父が、彼に「時間がすべてを過去のことにして、忘れさせてくれる。」と言ったことに対し、自分の気持ちは時間が経てば変わってしまうような"temporary" なものではないと考え、なんとかこの"time"を自分の手中に納めようとしていた為に起こったものである。また、彼を苦しめていたCaddy の"loss of virgin-ity" については、 "Did you ever have a sister did you"(p.160) という文章に如実に表れていると思われる。こうした言葉はCaddyの処女を奪ったDalton Amesという男が妹を持っていなかったことからきている。「妹を持っていないおまえにCaddy という妹を持った俺の苦しみがわかるものか。」といった気持ちが込められているのであろう。また、Q-uentinの章でもBenjy と同じように「意識の飛躍」が見られるが、Quentin の場合そのほとんどが死を目前にした現在と、彼を苦しめているCaddy の"loss of virginity" につながる思い出となっている。このように交互に、しかもテンポよく意識を回転させて表現することによって、死を目前にしたQuentin がどれほどまでに精神的に錯乱しているか、それにどれだけCaddy のことを愛し、また彼女に対する気持ちすら"temporary" なものにしてしまう"time"に抵抗しようとしていたのかがひしひしと伝わってくるような感じがする。同じような文章でも、ただ"time obsession"に関することや"loss of virginity" に関することをそれぞれまとめて書いただけでは、錯乱する彼の様子や苦悩を読者に感じさせることはできなかったであろう。以上が私の考えるQuentin の章の語りの手法と彼の特質である。

 最後にJason の章の語りの手法を分析してみよう。まず初めに気づく大きな特徴はJas-onの口調がBenjy やQuentin のそれとは違って口語的であることと、嫌みや皮肉ばかり言っているという点であろう。Benjy やQuentin の章の動詞を見ると、ほとんどが過去形であることに気づく。それに対してJason の章では彼が口癖のように"I says"(p.180) と言っているように現在形になっているのである。これはBenjy やQuentin が過去のことにばかり気をとられているのに対して、Jason はほとんど過去の出来事を回想しないことからもわかるように合理的な現実主義者であることがわかる貴重な手がかりとなるであろう。次にJason の嫌みについてだが、例えば彼が大学へ行かなかったことについて言及している場面で、自分はQuentin がBenjy のpasture を売るまでしてHarvard に行かせてもらったというような、目に見えるような愛情を受けなかったと感じていたためか、次のような皮肉を言うのである。"because at Harvard they teach you how to go for a swim at night without knowing how to swim and at Sewanee"(p.196)これは明らかに、Quentin の自殺に対する皮肉であろう。最後にJason がCaddy や、姪のQuentin に対してどういう感情を抱いていたかがわかる文章を見てみよう。彼はCaddy がQuentin の養育費として毎月送ってくる200 ドルをくすねているにもかかわらず次のように言う場面がある。"money has no value"(p.194) ここには、かつてCaddy の結婚相手であったHerbert に銀行の地位を約束されていたのに、Caddy が離婚されてしまったためにその話が白紙に戻ってしまった彼の恨みが表れているといえるであろう。彼はただお金がほしかっただけではなく、Caddy に対する復讐心からそのようなことをしたのであろう。また、Quentin に対しては"Have you got a sweetie that can write?"(p.212) などと言っているが、私にはこの一文に彼のQuentin の見方が凝縮されているように思える。「手紙が書けるような恋人がいるのか?」というのは明らかにQuentin を馬鹿にしているようにしか思えない。更にここには、性的に奔放だったCaddy の娘であるからQuentin もまた男に溺れていくという意味と、それもまともな恋人としてではなくどこか売女的な、誰とでも関係を持つような女だという意味が暗に含まれていると考えられる。しかしこのように一見Compson 家で一番まともな人間に見えるようなJason も、結局はCaddy 祺uentin を非難したりすることによってしか自分の存在意義を見いだせないような哀れな男であるように思われる。以上が私の考えるJason の章の語りの手法と、彼の特質である。 

 これまでBenjy,Quentin,Jason の3人の兄弟の語りの手法を分析してきたが、最後に全体を通してこの3人の兄弟の共通点や相違点について考えてみようと思う。一番良い例はCaddy に関する3人の兄弟の態度であろう。大まかに分けると、Benjy とQuentin はともにCaddy の"loss of virginity"に並々ならぬショックを受け、嘆き悲しんでいたのに対し、Jason だけはショックを受けず、それよりもむしろそれによって自分が約束されていた銀行の地位を失うことになったので彼女を憎んでいる。また、大まかに言えば共通であるように思われるBenjy とQuentin の態度であるが、細かく見ていくと違ったものであることがわかる。Benjy がCaddy を失ってしまっても白痴であるがゆえに呻き、悲しむことしかできないのに対し、知性というものを備えたQuentin は、それがやり直すことのできない現実であることを知っているがゆえに悩み、苦しみ、ついには自殺するにいたってしまったのである。もう一つ例を挙げるとすれば、やはり「時制」についであろう。先程述べたように、Benjy とQuentin の章では主に過去形が使われている。この2人に共通していえることは過去の出来事にばかり固執しているところである。また、違っているところは、同じ過去のことでもBenjy は過去の幸せだった頃の思い出に浸っているのに対し、Q-uentinは彼を苦しめるCaddy の”loss of virginity"に関することばかり思い出しているところであろう。そのような中Jason だけが唯一、現実の世界を生きているように描かれているのである。最後に唯一3人に共通する点を挙げるとすれば、この3人の兄弟の人生はCaddy というたった一人の女性によって大きく左右されてしまったということであろう。それはまさにCaddy という名のSatan にとりつかれた、実に哀れな3人の男の物語である。  


「三人の兄弟 」
−Satan にとりつかれた哀れな3人の物語−

 私はThe Sound and the Furyを読んで、同じ一つの言葉でも「どのように語るか」で、まことに違った印象を与えるということに気づいた。小説のすごいところは、単なる「記号」にすぎない、しかも(すぎないのに、?)限りある言葉のみを使って、まるで私たちが実際に自分の目で見たかのように感じさせるところである。また視覚的な情報をいっさい用いず、その限りある言葉のみを使って何千通りもの人間像を描き出せることはまことに興味深いところである。もちろん言葉を使って描き出せるものは人間像だけではない。私たちが現実に経験していることを、可能な限りではあるが「記号化」することができるのである。また小説のおもしろいところは、現実にはありえないことでさえつくりだすことができるところである。この小説の中でも第1章でいきなり「物言えぬ白痴」であるはずのBenjy が語るという、現実にはありえないことが平然と描かれているのである。私は作者が、各章の語りの手法を変えただけで、3人の兄弟の違いを見事に表わしているのに感動した。そこで私は、この小説の各章の語りの手法を分析して、それが3人の兄弟の特質をいかに効果的に表現しているか論じようと思う。

 まず初めにBenjy の章の語りの手法を分析してみよう。大きく分けると3つのタイプがあることに気づく。1つ目は「鋭い嗅覚」、2つ目は「白痴的な表現」、そして3つ目は「意識の飛躍」である。具体的にみてみよう。まず「鋭い嗅覚」であるが、Benjy はどうやら嗅覚が異常に発達しているようである。「〜のように感じる」と表現するのではなく、「〜のような匂いがする」という表現が頻繁に使われている。また、この表現は主として彼の最愛の姉Caddy の処女喪失に関連してよく出てくる。ここでテキスト(William Faulkner, The Sound and the Fury (New York: Vintage International, 1990) 以下、本書からの引用はページ数のみを記す。)の文を引用してみよう。初めは、つまり処女喪失前までは"Caddy smelled like trees."(p.5)(p. 5 のようにピリオドの前に半角のスペースをひとつ入れる。以下、同じ。)といっていたのだが、彼女が処女喪失した後では"I couldn't smell trees anymore and I began tocry."(p.40) というように変化していく。注釈(大橋健三郎,『響きと怒り』英潮社新社ペンギンブックス注釈書(東京:英潮社新社, 1988)によると、Caddy はBenjy にとって「自然のような」存在だったことがわかる。「自然」を定義づけることは難しいが、Benjy が追い求めていたのはおそらく汚れのない、まるで木漏れ日のこぼれるすがすがしい木の香りがするようなCaddy であったのであろう。それが処女喪失によって汚れた匂いになっていったのではないだろうか。この他にもsmell という表現はよく出てくる。例えば「死の匂い」というものもその一つである。Mr.Compsonの死の場面で "I could smell it."(p.34)という文章があるが、これはまさにMr.Compsonの死の匂いを嗅ぎとったのであろう。また、Dammudy の死の場面でも"Something I could smell."(p.75)という文章がある。これらのことからもわかるように、Benjy はその優れた嗅覚によって、様々な変化を感じとっているのであろう。普通の人ならば、"feel"とでも表現しそうなところをあえて"smell" と表現したところにBenjy の特質が巧みに描かれているのであろう。

 次に「白痴的な表現」についてだが、これは本来「物言えぬ」白痴であるBenjy が語っているという、一種矛盾に満ちたこの章の中で、やはりBenjy が白痴であるということがわかる表現のことである。テキストを引用してみよう。"My hand jerked back and I put it in my mouth and Dilsey caught me."(p.59) この文章を読む限り、Benjy には火傷をしたという概念はないように思われる。彼はただ「僕の手が急に戻ってきて、僕はそれを口に入れたんだ。」という感覚しか持っていない。「火傷をして熱かったので」という明確な表現ができないところにBenjy の白痴性が暗に含まれているのである。もう一つ例を挙げてみよう。冒頭の文章、"Through the fence, between the curing flower spaces,Icould see them hitting"(p.3)である。これについては参考図書(「参考文献」もしくは「大橋健三郎氏の言葉」)を引用することにする。
 今の短い引用文に限って言えば、彼が「ぼく」に付与している白痴の属性は、おそらく「打つ」という言葉に最もよく集約されている。「ぼく」と読者の視線は、「彼らが打っている」という事実に集中しているのだが、「打つ」という言葉が指示する意味内容はきわめて広く、しかも、この今の特殊な場合の「打つ」の意味内容を明確に規定しえないところに、「ぼく」の白痴性−名づけ得ぬという白痴の強いられた「沈黙」が巧みに暗示されているからである。(大橋健三郎,『フォ−クナ−研究1』(南雲堂,1986,p.193)(東京:南雲堂,1986, p. 193)とするのが「正式」です。
つまり、物事を明確に理解できないからこのように表現するのであろうし、このように表現することによって、自ら白痴であることを述べずとも白痴であることを読者に伝えることができるのである。これは作者の見事なトリックの一つであろう。

 最後に「意識の飛躍」についてだが、これは原則としてそのときBenjy が見たり、聞いたり、感じたりしたものがきっかけとなっておこる。例として、現在の場面からDammudy の死の場面に意識が飛躍したときのことをみてみよう。"I hushed and got in the water and Roskus came and Caddy said, It's not supper time yet. I'm not going.She was wet."(英文中、ピリオドの後には半角2スペース。分かっていると思いますが、念のため。)(p.17) Benjy は川に入ったことがきっかけとなって、Dammudy が死んだ日にCaddyたちと一緒に川に入っていったことを思い出す。注釈によると、このことはBenjy の最も幸福な幼児記憶であるという。その証拠にBenjy はしばらくの間Caddy がまだ木のような匂いがしていた頃の幸せだった思い出に浸っていて、Caddy 失ってしまった悲しい現在にはほとんど戻ってこないのである。このように、Benjy にとっての現在がいかにつらいものであるかを巧みに描き出している作者の手法に改めてはっとする。以上のことが私の考えるBenjy の特質である。

 次にQuentin の章の語りの手法を分析してみよう。Quentin の章では"time obsession"とCaddy の"loss of virginity" に注目して考えていこうと思う。Quentin が"time"に取り付かれていたことは冒頭の文章の"then I was in time again."(p.76) という部分からも明らかである。Quentin の"time obsession"とは、結局彼が愛するするCaddy の"loss of virginity" に苦しんでいる姿を見た父が、彼に「時間がすべてを過去のことにして、忘れさせてくれる。」と言ったことに対し、自分の気持ちは時間が経てば変わってしまうような"temporary" なものではないと考え、なんとかこの"time"を自分の手中に納めようとしていた為に起こったものである。また、彼を苦しめていたCaddy の"loss of virgin-ity"(ハイフンは使用しないで下さい。以下、同じ。自動的に入ってしまうのかな?) については、 "Did you ever have a sister did you"(p.160) という文章に如実に表れていると思われる。こうした言葉はCaddyの処女を奪ったDalton Amesという男が妹を持っていなかったことからきている。「妹を持っていないおまえにCaddy という妹を持った俺の苦しみがわかるものか。」といった気持ちが込められているのであろう。また、Q-uentinの章でもBenjy と同じように「意識の飛躍」が見られるが、Quentin の場合そのほとんどが死を目前にした現在と、彼を苦しめているCaddy の"loss of virginity" につながる思い出となっている。このように交互に、しかもテンポよく意識を回転させて表現することによって、死を目前にしたQuentin がどれほどまでに精神的に錯乱しているか、それにどれだけCaddy のことを愛し、また彼女に対する気持ちすら"temporary" なものにしてしまう"time"に抵抗しようとしていたのかがひしひしと伝わってくるような感じがする。同じような文章でも、ただ"time obsession"に関することや"loss of virginity" に関することをそれぞれまとめて書いただけでは、錯乱する彼の様子や苦悩を読者に感じさせることはできなかったであろう。(Yes!)以上が私の考えるQuentin の章の語りの手法と彼の特質である。

 最後にJason の章の語りの手法を分析してみよう。まず初めに気づく大きな特徴はJas-onの口調がBenjy やQuentin のそれとは違って口語的であることと、嫌みや皮肉ばかり言っているという点であろう。Benjy やQuentin の章の動詞を見ると、ほとんどが過去形であることに気づく。それに対してJason の章では彼が口癖のように"I says"(p.180) と言っているように現在形になっているのである。これはBenjy やQuentin が過去のことにばかり気をとられているのに対して、Jason はほとんど過去の出来事を回想しないことからもわかるように合理的な現実主義者であることがわかる貴重な手がかりとなるであろう。(Yes, I agree.)次にJason の嫌みについてだが、例えば彼が大学へ行かなかったことについて言及している場面で、自分はQuentin がBenjy のpasture を売るまでしてHarvard に行かせてもらったというような、目に見えるような愛情を受けなかったと感じていたためか、次のような皮肉を言うのである。"because at Harvard they teach you how to go for a swim at night without knowing how to swim and at Sewanee"("...because at Harvard they teach you how to go for a swim at night without knowing how to swim..." とひとつの文章の前と後ろが省略されていることを省略記号...を使って表します。最後の"at Sewanee"は次の節にかかるので不要です!)(p.196)これは明らかに、Quentin の自殺に対する皮肉であろう。最後にJason がCaddy や、姪のQuentin に対してどういう感情を抱いていたかがわかる文章を見てみよう。彼はCaddy がQuentin の養育費として毎月送ってくる200 ドルをくすねているにもかかわらず次のように言う場面がある。"money has no value"(p.194) ここには、かつてCaddy の結婚相手であったHerbert に銀行の地位を約束されていたのに、Caddy が離婚されてしまったためにその話が白紙に戻ってしまった彼の恨みが表れているといえるであろう。彼はただお金がほしかっただけではなく、Caddy に対する復讐心からそのようなことをしたのであろう。また、Quentin に対しては"Have you got a sweetie that can write?"(p.212) などと言っているが、私にはこの一文に彼のQuentin の(に対する?)見方が凝縮されているように思える。「手紙が書けるような恋人がいるのか?」というのは明らかにQuentin を馬鹿にしているようにしか思えない。更にここには、性的に奔放だったCaddy の娘であるからQuentin もまた男に溺れていくという意味と、それもまともな恋人としてではなくどこか売女的な、誰とでも関係を持つような女だという意味が暗に含まれていると考えられる。(Yes. でも、Jason自身、本当にQuentinが無学な男だけにしか相手にされない、と信じているようには感じられないので、僕にはこの言葉は、Jasonは気づいていなくても、Quentinがひょっとしたら母親と同じように銀行家のような大物をもつかまえる可能性もある、自分はしがない店員で終わるかも知れないのに・・・というような漠然とした恐れ、嫉妬が裏にこもっているようにも感じてしまいます。深読みかな・・・)しかしこのように一見Compson 家で一番まともな人間に見えるようなJason も、結局はCaddy 祺uentin (CaddyやQuentin? 文字化けしてしまいました。)を非難したりすることによってしか自分の存在意義を見いだせないような哀れな男であるように思われる。以上が私の考えるJason の章の語りの手法と、彼の特質である。 

 これまでBenjy,Quentin,Jason (コンマの後は半角1スペース)の3人の兄弟の語りの手法を分析してきたが、最後に全体を通してこの3人の兄弟の共通点や相違点について考えてみようと思う。一番良い例はCaddy に関する3人の兄弟の態度であろう。大まかに分けると、Benjy とQuentin はともにCaddy の"loss of virginity"に並々ならぬショックを受け、嘆き悲しんでいたのに対し、Jason だけはショックを受けず、それよりもむしろそれによって自分が約束されていた銀行の地位を失うことになったので彼女を憎んでいる。(Good point!)また、大まかに言えば共通であるように思われるBenjy とQuentin の態度であるが、細かく見ていくと違ったものであることがわかる。Benjy がCaddy を失ってしまっても白痴であるがゆえに呻き、悲しむことしかできないのに対し、知性というものを備えたQuentin は、それがやり直すことのできない現実であることを知っているがゆえに悩み、苦しみ、ついには自殺するにいたってしまったのである。もう一つ例を挙げるとすれば、やはり「時制」についであろう。先程述べたように、Benjy とQuentin の章では主に過去形が使われている。この2人に共通していえることは過去の出来事にばかり固執しているところである。また、違っているところは、同じ過去のことでもBenjy は過去の幸せだった頃の思い出に浸っているのに対し、Q-uentinは彼を苦しめるCaddy の”loss of virginity"に関することばかり思い出しているところであろう。そのような中Jason だけが唯一、現実の世界を生きているように描かれているのである。最後に唯一3人に共通する点を挙げるとすれば、この3人の兄弟の人生はCaddy というたった一人の女性によって大きく左右されてしまったということであろう。それはまさにCaddy という名のSatan にとりつかれた、実に哀れな3人の男の物語である。(Satanというのは一般的に男性と考えられているので、Caddyを表すにはイマイチ・・・。魔女、妖婦のイメージをもつ名前に変えることもできると思います。その点、斉藤さんのDaughters of Eveというのは、Caddyを表すにはぴったりしています。と言うのは、彼女が論じているように、Caddy, QuentinにはSatanや魔女がもつイメージとは逆の肯定的な要素もあるからです。ですから、Satanという言葉を使うなら、Caddyを介して、3人の兄弟が心の中にSatanを作ってしまった、というような言い方にした方がいいかも知れません。Benjyの場合はちょっと苦しいですが・・・)

総評:期待した水準に達している、それなりに完成度も高い、よく書けているレポートです。「それなりに」というのは、構成、内容の面で首を傾げることもないが、Yes, yes!とうなずくことも少ない、当たり前のことを当たり前に要領よくまとめているからです。ですから、最後の授業で僕が言った水準を十分クリアするわけです。内容(書いたこと)はいいが、構成(書き方)に難がある馬場さんとちょうど反対のケースとも言えるでしょう。(山本さんがこの両者のバランスが一番とれていると思います。斉藤さんのような「離れ業」は誰にでも勧めるわけにはいかないので・・・)一番の問題は「語りの手法」を、特にQuentin, Jasonの章で、もう少し深く分析できるのではないか、と感じたことと、せっかく興味深いサブタイトルが付いているのに、それが生きなかった、あたりでしょうか。

というわけで、書き直す必要はありません。「ゴミ」をきれいにするだけで結構です。でも、「バンザイ!」と言う前に、他の人のゼミ論をぜひ読んでみて下さい。「私も・・・」という気になりましたら、1月末までで結構ですから、大幅に手直ししたものを提出してみませんか?

 


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