Seminar Paper 97
Shin Ono
First created on January 21, 1998
Last revised on January 21, 1998
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3人の兄弟
“Through the fence, between the curling flower spaces, I could see them hitting.” (William Faulkner , The Sound and the Fury ( New York : Vintage International,1990), p. 3. 以下本書からの引用はぺージ数のみを記す)非常に謎めいた冒頭のこの一文から、The Sound and the Furyの世界に読者は放り出されてしまうのだ。いかなる時代のどんな作家でも、作品の冒頭には神経質になるようだが、フォークナーほどこれから先のストーリー展開を想像させない作家を私は知らない。それは例えば、この一文の主節中の“ I ”や“them”が一体誰なのか、また、“hitting”とは一体どこで何を打っているのか、というように全てが謎のままで不安に読み進めなくてはならないからだ。しかも読み進むにつれて、その謎は少しずつ解かれてゆくのかと思いきや、読者に更なる不安や困惑さえ感じさせるのだ。そして、“Here,Caddy”(p.3)まで読み、やっとその“hitting”の謎が解けるのである。なんとも読者泣かせの作品だ。この第一章を概観すれば、この日(1928年4月7日)に33歳の誕生日を迎えた白痴BenjyがCompson家の邸内を散歩しながら独白する。33歳の白痴に一体どれほどの知能が備わっているのか、私には見当もつかない。(一説には3歳程度の知能とされているらしいが)しかし、第一章を読む限り、Benjyは誰かに向かって独白しているのではなく、自分の心の中で内的な独白をしているようだ。また白痴ゆえの感覚的な鋭敏さ、純粋さゆえの自然への崇拝(アニミズム)など、Benjyを描写したこれらの要素は彼の役割を語る上で欠かすことはできないだろう。 では、Benjyの人間性(和製英語でいうところのidentity)はどのように表現されるべき だろうか。Compson家の崩壊を通してBenjyも人間性を喪失したとすると、フォークナーが彼に期待していた「白痴性」が無意味なものになってはしまわないだろうか。というのも、白痴に人間性を認められるのであろうかと思うからである。 それでは私がBenjyに人間性を認める理由として考えられることを挙げてみたい。 Benjyは、“Caddy smelled like trees.”(p.6他多数)などのように、「Caddy は木のにおいがした」と感じながら も、Caddy が化粧をしてしまった後には“ I couldn't smell trees anymore and I began to cry.”(p.40)というように以前までのCaddy の処女性を疑っているかのようなセリフを残している。このように感覚的にCaddy の変化に鋭い反応をみせたBenjyを考えれば、その感受性の豊かさは人間性と評価してもいいのではないだろうか。それに上記のp.40のシーンは「Caddy の香水事件」の時のものだったが、p.68-69の「Caddy 処女喪失」の時にも、Benjyは同様な反応を示したことから感受性の豊かさは本物と言える。このように考えてみると、Benjyも人間性を持ち合わせ、Caddy への強い思慕を傾けながらも、Compson家の崩壊の中、独白するという白痴らしからぬ役割を果たしていたのである。 したがって、白痴=無人格という単純な構図はここに崩れ去り、Benjyの人間性を白痴という形で確認することができるのだ。そしてまた、Benjy特有のはげしい呻き声も一種の人間性と表現できるのではないだろうか。この呻き声は様々な理由から発せられている。そこで、彼の呻き声の理由を分析してみると、Caddyへ向けられたものが大部分であることが分かる。代表的な例を挙げると、p.3-4のBenjyとLusterとのやりとり(“Shut up that moaning.”)やp.47のCaddyとCharlieがkissしようとしている時のBenjyの反応に対してのCaddyによる(“Hush, Benjy.”)から明らかである。また、注釈(大橋健三郎 『響きと怒り』 英潮社新社ペンギンブックス 注釈書( 東京 : 英潮社新社、1988)のp.49によれば、CaddyはBenjyにとって自然のようで平和の象徴であるとされている。更には、Benjyが好きなものとして作者のフォークナーは次の3つを挙げている。1つは兄のQuentinのHarvard University入学や最愛の姉Caddyの結婚式の資金のために売られた“pasture”である。Benjyの好きな残りの2つは、姉のCaddy、そして“firelight”となっている。こうした事実からもCaddyとの記憶の飛躍がBenjyに呻き声を立たせている原因だと判断できる。ある意味、CaddyはBenjyの運命を左右した重要人物と言える。以上のことからも分かるように、Benjyの「白痴性」と「呻き声」は人間性と考えてもいいだろう。 それでは次に、Quentinは人間性を喪失するに至るまで、どのような環境で成長し、人格を形成してきたのだろうか。まずはQuentinの置かれた境遇を明らかにすべきだろう。 QuentinはCompson家の長男として生まれ、異常なほどの愛情を捧げた妹のCaddy、そして弟にJasonとBenjyをもつ。さらに知的な南部出身の白人青年として描写され、Benjyの“pasture”の恩恵もあってHarvard Universityに入学した。当然、Compson家の中で一番の知的人間なのである。しかし、その知的さゆえにかえって悪循環な思考を巡らせてしまうこともあった。それは例えば、p.76の“and then I was in time again,”とあるように、“time”の概念に取りつかれてしまう場面などに顕著である。人間は長い歴史の中で“time”の概念に支配されてきたが、Quentinがこれほどまでに“time”の概念に固執するのは一体どうしてだろうか。注釈のp.124によれば、それはCaddyの「性」にまつわる「出来事」のショックから“time obsession”になったとのことだ。しかし、どれほど愛する妹のCaddyのこととはいえ、単純にこれだけがQuentinを自殺へと追い詰めたとは考えにくい。 この日(1910年6月2日)、QuentinはCaddyの処女喪失に混乱しながら、CambridgeやBostonにあるCharles川あたりを放浪しながら独白をしている。もちろん、独白中の意識のきわめて大きな部分をCaddyが占めていることは言うまでもない。そんなCaddyに対する偏執はBenjyとも共通するところがあるが、知的なQuentinの場合、その意味がとても深い。 というのも、妹Caddyへの愛も、純粋な兄妹愛でもなく、近親相姦を犯しかねない禁断の愛でもないからである。むしろ、その愛は失われたidentityを回復しようとする自己への愛(ナルシズム)の疑いすら感じてしまうのだ。それに20歳前後の健全な男性が妹以外の女性にあまり興味が持てないあたり違和感がある。このように彼のナルシズムを考えると、Caddyへの異常な愛情も、またそれに付随する「時間」や「死」も説明がつく。 ここまでQuentinの人間性や特徴をまとめてきたが、では一体なぜ人間性を喪失したのかという疑問が浮かんでくる。その理由としていくつか考えられる。1つは、Quentin自身がCaddyの純潔を求めつつも、自分の性的不潔に気づき、矛盾を感じて錯乱したのではないか。純潔こそ正義というピューリタン的発想の持ち主であるQuentinもp.96やp.113のCaddyとNatalieの性的不潔に純潔への自信が揺れることがあっても不思議ではない。 2つ目としては、故郷である南部社会における矛盾を感じたのではないか。その矛盾の代表は彼の母親であるMrs.Compsonである。木陰に吊るしたハンモックで黒人にプランテーションの指示をして一日中ダラダラと過ごすのが南部の理想的な生活であるのに対し、実際のところCompson家は崩壊の一途で、poor whiteとして生活しているのだ。聡明なQuentinであればきっと、自分と家族の将来を案じていたに違いない。 3つ目の理由としては、“time”の概念からの永遠の解放として「死」を選択したことではないだろうか。Caddyの処女喪失を知り、支離滅裂に近い精神状態で「時」の破壊的な力を克服することは不可能だと悟ったのではないかとも考えられる。Quentinにとって「時」とは純潔の象徴であったが、Caddyのせいで、「時」=「性的不潔」という今までとは全く正反対の、いわばMr.Compson的な図式が出来上がってしまったのだから。 ところで、人間性を喪失してしまった長男Quentinにとって、Compson家での家族間のコミュニケーションの欠如も問題だろう。私たち人間は、コミュニケーションなしには生きられない。自分の意志伝達方法を学ぶ基礎であるはずの家庭に不協和音があれば、正常な愛やコミュニケーションは育まれることはないはずだ。したがって、対人コミュニケーションに難のあるCompson家では、個人の抱える不安や悩みなどを相談したりしてうまく解決できない。このように、Quentinの人間性の喪失には、個人の特徴による要因から家庭における問題まで様々な要因が複雑に絡んでいたのである。 さて、Compson家の3人の兄弟の次男Jasonの役割、そして人間性の喪失過程も同様に確認しておきたいと思う。この日(1928年4月6日)、Jasonは、様々な出来事によって南部旧家のCompson家が崩壊する中、1人奮闘し、独白している。父親のMr.Compson亡き後は、3人兄弟で唯一の“まともな”人間として、一家の支柱となっている姿はとても痛々しい。 この章の中のJasonにも、BenjyやQuentinらのように性格的な特徴があった。BenjyやQuentinは、その形こそ違うが、Caddyへの偏執があった。が、このJasonには偏執どころかCompson家崩壊の悪の根源がCaddyであると決めつけているくらいだ。他の兄弟とは異なり、JasonにとってのCaddyやその娘Quentinの存在は、まさに目の上のこぶであり、金を搾取するだけの邪魔者であったのだろう。(JasonのCaddyへの憎しみは後述の通り)そして更には、Caddyや17歳の娘Quentin、黒人の使用人を憎み、物欲とりわけ金銭欲に取りつかれるようになった。また、“time”の概念はQuentinとは違って非常に具体的である。Quentinは時間を純潔の証として捉えていたのに対して、Jasonは時間の一刻一刻を現金として考えていたからである。まるで現代ビジネスにおいて極度に効率化された合理主義に生きる人間のようだ。彼にとっての時間はまさに、“Time is Money.”の文字通りの意味だったのだろう。しかしだからといって、Jasonが単なる拝金主義者であると断言するのはどうであろうか。これまでJasonはCompson家の不名誉と不運を全てその双肩に担ってきたのだ。QuentinのようにBenjyのpastureを売ってHarvard Universityに入学できるほど経済的に余裕もなく、かといって、独立して商店街に大きな自分の店を構えられるほどの力もないのだ。彼には、合理主義的思考と強い意志(頑固なくらいの)の2つしか特徴はないのである。しかも、かつてのBenjyの白痴性、Quentinの知的ゆえの悪循環な思考回路とともに、その根底には「空虚さ」が存在しているのだ。そして、そのうつろさを晴らすために、Quentinとは別個の、日常的な現在の時間に異常な関心を持っていたのである。 しかし、Jasonの立場になって考えてみれば、これも当然のことだろう。過去には、約束されていた銀行員としての社会的地位もCaddyによって台無しにされ、現在は父と兄亡き後の荒廃した一家を養うことで精一杯であるし、これからの未来も、母親Mrs.Compsonの変な期待と誇りを背負って生きてゆかなければならないからだ。過去・現在・未来のどの時制にも見捨てられ、Jason自身の人生とは一体何だったのだろうと考えさせられてしまう。 また、もう1つ特筆すべきことは、長男QuentinがそうであったようにJasonもナルシストの気があるのではないかということだ。このように考えるのには理由がある。それは、彼には愛情を注ぐべき対象がなかったからだ。Compson家の不幸を1人で背負いすぎてしまったせいだろうか、どうやらJasonは結婚してなかったようだ。(もちろん、子供もいない)それに、BenjyやQuentinのようにCaddyに入れ込むこともなかった。では彼の「愛情」は一体どこに向かったのか。Jason自分自身へ向かったと考えるのが一番自然ではないだろうか。人間誰しも自分が一番大切だと思うのが本音の部分だろう。Jasonの現金への執着も、こうした人間の性がつい出てしまったのではないだろうか。「愛情」が注がれるべき対象を見失うことでナルシストへと陥り、冷酷なまでの自己中心的性格を形成してしまったのが、このJasonではないのか。 ここまで3人の兄弟の特質や人間性の喪失に至るまでを分析してきた。この3人の兄弟を分析することによって、様々なことが浮き彫りになってきた。1つには、この兄弟たちのみならず、Compson家を構成する人物がみな、精神的不能状態にあるということだ。(ただし、Benjyは去勢されているので性的にも不能) そして、この物語全編を通して各章の年代がバラバラであるのにも関わらず、常に悪循環で暗いイメージの生活を描写できたのは、この一家全員の病的な精神的不能によるものだったのである。 また、3人の兄弟を惑わせた悪女Caddy,母と同じ自由奔放な道を歩みそうな娘のQuentin……。 まるで古代エジプトのクレオパトラとアントニウスの悲話を思い出させるような存在感の大きさにただ驚嘆するばかりである。しかしどうして男はこうも女に弱いのだろうか、『歴史は繰り返す』、小説の中においてさえも……。 |
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