Seminar Paper 97
Miho Saito
First created on December 19, 1997
Last revised on December 20, 1997
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The Sound and the FuryにおけるFaulknerの女性観: William Faulknerの“The Sound and the Fury"は、アメリカ南部の旧家Compson家の三人の息子_Harvardに通う優秀な長男Quentin、敵意に満ちた次男Jason、そして白痴の三男Benjy_が、一家の一人娘Caddyを語ることにより浮き彫りにされるCompson家の崩壊を描いた物語である。Faulknerは、この長編小説を思いついたきっかけとして、次のように語っている。 "It began with a mental picture.The picture was of the muddy seat of a little girl's drawers in a pear tree....and then I realized the symbolism of the soiled pants, and that image was replaced by the one of the fatherless and motherless girl climbing down the rainpipe to escape from the only home she had..."(注釈書p.73-74)木を登っていく少女のお尻が泥で汚れている、という一つのimageから始まったこの物語の主題(主題の一つとした方が適切か)を象徴するものとして、Faulknerはここで"the soiled pants"を挙げているわけだが、この一つのimageが何を内包しているかを論ずるにはまず、上記の引用文と同じ小説中のシーンを説明する必要があろう。 小説中では主にBenjyによって語られるこのシーン(本文p.39 l.3-l.22)は、Compson家の祖母Damuddyの葬式が行われる一日の出来事を、Benjyが途切れ途切れに回想する一場面である。この一日はBenjyにとっては最良の1日であり、作品中ではBenjyの名前付け替えもされておらず、「死」というものも知らない、Compson家の子供たちの"innocence"の象徴として描かれている。しかし同じに、CaddyがDamuddyの部屋を覗くべく"pear tree"に登っていく姿は「死」の目撃を意味しており、"loss of innocence"の気配を感じさせるものである。また、注釈書に指摘があるように、Caddyが登る庭の"pear tree"は、Eveが蛇にそそのかされ("...A snake crawled out from the house..."(p.37l.27)の部分で、このシーンにも蛇が登場している)"apple tree"になる禁断の果実に手を伸ばすことによる"Paradise Lost"を暗示していると言えよう。つまりこのシーンは、「楽園」として描かれているのだ。 このようなシーンの中で、Caddyの着ている"the soiled pants"に込められたsymbolismは、Caddyが後にDalton Amesに処女を捧げ、多数の男と関係する性的な奔放さ、"loss of innocence","loss of virginity"である。つまり、純潔でinnocentな世界_paradise,the garden of Eden_に影をおとす「汚れ」のimageをCaddyは背負っているのであり、ついにそれが原因となってCaddyはCompson家から出て行き、「楽園」を失うことになる。そしてFaulknerの言葉にも"...and that image was replaced by the one of the fatherless and motherless girl..."(引用文から)とあるように、この「汚れ」のimageはその娘Quentinにも受け継がれ、彼女もまた母親と同じような性的な奔放さを身につけ、結局は母親が純潔を失う契機となった"pear tree"(先の引用文では"rainpipe"とあるが、作品中では"pear tree"となっている)をつたいおり、「楽園」から離れて行くのである。FaulknerはCaddyとQuentinに「汚れ」のimageを背負わせ、「楽園」から追われるfallen Eveとしての女性像を作り上げているように思える。だが、果してそれをFaulknerの女性観と呼べるであろうか。 確かに"The Sound and the Fury"で描かれているCaddyとQuentinは、その性的な奔放性、堕落性が強調されている。これは、この物語の語り部であるCompson家の三人の息子たちの「証言」にも表れていよう。ここで彼らの口から吐露されるmurmuringから浮かび上がってくるCaddyとQuentinの姿を、年齢順でも日付順でもない、Faulkner's orderに従って追っていくことにしよう。 "The Sound and the Fury"ではじめに彼女たちを語るのは末息子のBenjyである。Caddyが兄弟の中で最も愛したのがこのBenjyであり、Benjyも彼女を深く愛するのである。しかしBenjyが愛するのは"Caddy smelled like trees."というセリフに表れているとおり、「木の香り」を漂わせた"innocent"なCaddyである。 "...I couldn't hear the water,and Caddy opened the door."Why,Benjy,"she looked at me and I went and she put her arms around me."Do you find Caddy again,"she said."Did you think Caddy had run away."Caddy smelled like trees...."We dont like perfume ourselves."Caddy said.She smelled like trees..."(p.42 l.12-p.43 l.5)この場面はCaddyが着けていた香水をbathroomで洗い落としたため、再び彼女の「木の香り」を嗅いで安心しているBenjyの姿が描かれている。つまり彼は、大人の女に成長していくCaddyを受け入れられず、まだ彼女が"innocent"か否かを「木の香り」で判断しているのだ。そして、Caddyが処女を失った時、Benjyの"innocence"を失った彼女に対する拒絶は、一層激しさを増す。 "...We were in the hall.Caddy was still looking at me....,but I pulled at her dress and we went to the bathroom and she stood against the door,looking at me.Then she put her arm across her face and I pushed at her,crying."(p.69 l.17-l.25)もはや"innocence"を失ったCaddyからは二度と「木の香り」はしないのだが、Benjyは以前のようにCaddyがbathroomに入ればそれが復活すると思っているのである。しかし彼の悲しい努力が報われるはずもなく、Caddyは結婚して家を去っていってしまう。そしてBenjyは「木の香り」のする"innocent"なCaddyを永遠に失い、Caddyの娘Quentinにその面影を重ねつつも、癒し得ない喪失感を抱えていくのである。 Benjyに次いでCaddyを語るのは、長兄Quentinである。彼の苦痛に満ちた長い独白から浮き上がるCaddy像は、最も官能的なものである。これはCaddyの"virginity"に執着したQuentinの目を通した姿であるから必然的なことであろう。QuentinはCaddyの"virginity"の喪失に耐え難い苦痛を覚えるが、一方のCaddyは"...yes I hate him I would die for him Ive already died for him I die for him over and over again everytime this goes..."(p.151 l.19)とDalton Amesへの愛を口にし、一層Quentinを苦しめるだけである。 "Honeysuckle is the saddest odor of all, I think."(p.169 l.17)女として目覚めたCaddyを象徴する"honeysuckle"の濃厚な香りは、甘美な香りに包まれていくCaddyに戸惑うばかりのQuentinを責め立てる。 "We did a terrible crime...Ill tell Father then itll have to be...you thought it was them but it was me listen I fooled you all the time..."(p.147 l.30-p.148 l.4)Quentinは、処女喪失よりも更なる大罪である"incest"を犯しCaddyと共に地獄へ落ちると妄想することで、この苦しみから逃れようともがく。だがCaddyと父に何の影響も与えられなかったばかりか、Caddyは刹那的に多数の男と関係した結果妊娠し、Sydney Herbertとの愛のない結婚へと走るのである。 "...it's because you are a virgin: dont you see? Women are never virgins. Purity is a negative state and therefore contrary to nature. It's nature is hurting you not Caddy..."(p.116 l.6-9)もはやなす術も無く、父の運命論にも同調できないQuentinは、Caddyを連れ去っていく"nature" "time"に反抗して自殺をするのである。 最後の語り手は、次兄Jasonである。Caddyに対する理由なき敵意に支配された彼の口からは、母親と同じような"a bitch"に成長したQuentinの姿が明かされる。"...If she stayed on the streets. I dont reckon she'd be playing out of school just do something in public..." (p. 180 l.21-23) 学校にも行かず、男たちと遊びまわるQuentinを、Jasonは覚めた目でみつめる。 "Once a bitch always a bitch, what I say."(p.180 l.1)実の母親に育てられた経験のないQuentinが、あたかも母親の真似をするように同じ生き方をするのを見て、Jasonは2人の身体に流れる「あばずれの血」を確認する。そしてそのうちの一人を"feed"し、もう一人の金を騙し取ることで、彼女たちへの勝利を味わっていたのだ。しかしその勝利はまやかしで、娘のQuentinはJasonの隠し金と共に、"pear tree"をつたって逃げ出すのである。 "...What is it I must do? He thought...."(p.312l.21)それまでJasonの生きる糧であったCaddyとQuentinへの憎しみはその行き場を失い、彼はただ呆然とするばかりである。 このような苦悩に満ちた3人の「証言」から浮き上がるCaddyと娘のQuentinの姿は、およそ「楽園」にはふさわしくないばかりか、「楽園」の混乱と崩壊をもたらす脅威的なものであろう。禁断の果実(これを性衝動ととることができよう)を食べてしまったEveが産みの苦しみを知ったのと同様、CaddyもまたQuentinを出産し、Quentinも禁断の果実に手を伸ばしてしまう。3人の「楽園喪失」には、長男Quentinが"...theres a curse on us..." (p. 158 l.10)と思わず口走るように、一種呪いにも似た運命が感じられる。 Faulknerが"The Sound and the Fury"で描いた女性に、運命的な「汚れ」のimageがつ いてまわっているのは明らかなことである。だが私は、FaulknerがCompson家の男たち---"Once a bitch always a bitch."と彼女たちを蔑むJason、"innocence"や"virginity"に女の価値を見出そうとするBenjyとQuentin、そして"...Because it means less to women, Father said. He said it was men invented virginity not women..."(p.78 l.22)"...dont you see? Women are never virgins..."(p.116 l.7)と女性の性的堕落性を生来のものとする運命論者的なMr.Compson---のような女性観を持っていたとは思えない。何故なら、彼ら(CaddyとQuentinがEveなら、彼らはAdamであろうか)が守ろうとした「楽園」をFaulknerが肯定していたとは考えられないからだ。 Caddyと娘のQuentinの"loss of innocence"により引き起こされた「楽園崩壊」を体験するCompson家の3人の息子は彼女たちとは対照的に、「楽園」の住人にしか成り得なかった無力な、"impotent"な人間として描かれている。長男Quentinは「楽園」を破壊する力そのものである"nature"、時間の経過を克服すべく、少なくとも自分の時の流れを永久に止めることができる唯一の方法である自殺という道を選び、Caddyでは叶えられなかった"virginity"を自ら完成させる。次男Jasonは、年老いた母親と白痴の弟、使い物にならない黒人召し使いが残るのみの「楽園」を維持するため、しがない商店の店員をするしかないうだつの上がらない自分の運命をCaddyとQuentinのせいにして、「ほころびたボロ靴下」のような人生を生きてしまう。末っ子のBenjyは「楽園」を取り囲む"fence"から外へ出ることができず、そこにいるはずのない"innocent"なCaddyの幻影を追い求め、うめき声をあげるのみである。Benjyが受ける"castration"の手術は、そんな「楽園」の"impotece"の象徴に他ならないであろう。 "impotemt"な人間が守ろうとした"impotent"な人間しかいない「楽園」は、それ自体"impotent"なものに違いなく、Faulknerはその崩壊を描かずにはいられなかったのではないか。だからこそ、この破壊者となるCaddyとQuentinの性的な奔放性、堕落性を強調することで彼女たちの"un-impotence"を表現したのだ。"...Whatever I do, it's your fault," she says. "If I'm bad, it's because I had to be. You made me..."(p.260 l.7)というQuentinのセリフは、Faulknerが「楽園」に突きつけた最後通告とも言えるであろう。「楽園」を崩壊へと導くためには、CaddyとQuentinはfallen Eveになるしかなかったのである。 更にもう一つ、Faulknerが彼女たちに求めたものがある。それは、崩壊の次に訪れるべき再生のimageである。これは、FaulknerがCaddyとQuentinの「楽園喪失」を"escape" と表現していることにも表れていよう。 "..."I'll run away and never come back." Caddy said..."(p.19 l.3)CaddyとQuentinに「楽園」を"escape"させたFaulknerは、2人に「楽園再生」の予感としての、母体の生産力を見出していたに違いない。その生産力こそ、Eveが禁断の果実に手を伸ばしたからこそ、女に与えられた「力」なのだから。彼女たちが"innocence"を保ったままでは、これは表現しきれなかったのである。 "The Sound and the Fury"のCaddyとQuentinは、堕落した、反逆的な女性である。しかしFaulknerは、その一筋縄ではいかない女たちに、萎えきった「楽園」の崩壊と再生を担わせた。この意味は大きいであろう。Faulknerがこの作品で女性に求めたものはマリアのような純潔ではなく、Eveの娘たる女性が内に孕んでいる崩壊と再生の「力」である。
The Sound and the FuryにおけるFaulknerの女性観: William Faulknerの“The Sound and the Fury"(書名はThe Sound and the Furyとイタリックにするか、The Sound and the Furyのように下線を引きます。引用符は短編の作品名などに用います。)は、アメリカ南部の旧家Compson家の三人の息子_(---ダッシュ。以下略。)Harvardに通う優秀な長男Quentin、敵意に満ちた次男Jason、そして白痴の三男Benjy_が、一家の一人娘Caddyを語ることにより浮き彫りにされるCompson家の崩壊を描いた物語である。Faulknerは、この長編小説を思いついたきっかけとして、次のように語っている。 "It began with a mental picture.(英文をタイプする際は、ピリオドの後にはスペースを2つ、コンマ、コロンなどの後は1つ入れます。半角で!)The picture was of the muddy seat of a little girl's drawers in a pear tree....and then I realized the symbolism of the soiled pants, and that image was replaced by the one of the fatherless and motherless girl climbing down the rainpipe to escape from the only home she had..."(注釈書p.73-74)初出なので、明示しておく必要があります。例えば(大橋健三郎,『響きと怒り』英潮社新社ペンギンブックス注釈書(東京:英潮社新社, 1988, p. 73-74. 以下、『注釈書』と略す。)のような書き方があります。木を登っていく少女のお尻が泥で汚れている、という一つのimageから始まったこの物語の主題(主題の一つとした方が適切か)を象徴するものとして、Faulknerはここで"the soiled pants"を挙げているわけだが、この一つのimageが何を内包しているかを論ずるにはまず、上記の引用文と同じ小説中のシーンを説明する必要があろう。 小説中では主にBenjyによって語られるこのシーン(本文p.39 l.3-l.22)どのテキストか明示する必要があるので、(William Faulkner, The Sound and the Fury (New York: Vintage International, 1990), p. 39. 以下、本書からの引用はページ数のみを記す。)とするのが「正式」です。この場合は行数を示してもいいかも知れませんが、引用の場合、行数は必要ありません。は、Compson家の祖母Damuddyの葬式が行われる一日の出来事を、Benjyが途切れ途切れに回想する一場面である。この一日はBenjyにとっては最良の1日であり、作品中ではBenjyの名前付け替えもされておらず、「死」というものも知らない、Compson家の子供たちの"innocence"の象徴として描かれている。しかし同じに(同時に?)、CaddyがDamuddyの部屋を覗くべく"pear tree"に登っていく姿は「死」の目撃を意味しており、"loss of innocence"の気配を感じさせるものである。また、注釈書(『注釈書』)に指摘があるように、Caddyが登る庭の"pear tree"は、Eveが蛇にそそのかされ("...A snake crawled out from the house..."(p.37l.27)(p. 37)以下、自分で行数を削除して下さい。の部分で、このシーンにも蛇が登場している)"apple tree"になる禁断の果実に手を伸ばすことによる "Paradise Lost" を暗示していると言えよう。つまりこのシーンは、「楽園」として描かれているのだ。 このようなシーンの中で、Caddyの着ている"the soiled pants"に込められたsymbolismは、Caddyが後にDalton Amesに処女を捧げ、多数の男と関係する性的な奔放さ、"loss of innocence","loss of virginity"である。つまり、純潔でinnocentな世界_paradise,the garden of Eden_に影をおとす「汚れ」のimageをCaddyは背負っているのであり、ついにそれが原因となってCaddyはCompson家から出て行き、「楽園」を失うことになる。そしてFaulknerの言葉にも"...and that image was replaced by the one of the fatherless and motherless girl..."(引用文から)(『注釈書』, p. ???)とあるように、この「汚れ」のimageはその娘Quentinにも受け継がれ、彼女もまた母親と同じような性的な奔放さを身につけ、結局は母親が純潔を失う契機となった"pear tree"(先の引用文では"rainpipe"とあるが、作品中では"pear tree"となっている)をつたいおり、「楽園」から離れて行くのである。FaulknerはCaddyとQuentinに「汚れ」のimageを背負わせ、「楽園」から追われるfallen Eveとしての女性像を作り上げているように思える。だが、果してそれをFaulknerの女性観と呼べるであろうか。 確かに"The Sound and the Fury"(The Sound and the Fury)で描かれているCaddyとQuentinは、その性的な奔放性、堕落性が強調されている。これは、この物語の語り部であるCompson家の三人の息子たちの「証言」にも表れていよう。ここで彼らの口から吐露されるmurmuringから浮かび上がってくるCaddyとQuentinの姿を、年齢順でも日付順でもない、Faulkner's orderに従って(分かる気もしますが、別な言葉を使えませんか?「順序」と「秩序」が掛詞になっていていい表現とは思いますが・・・)追っていくことにしよう。 "The Sound and the Fury"ではじめに彼女たちを語るのは末息子のBenjyである。Caddyが兄弟の中で最も愛したのがこのBenjyであり、Benjyも彼女を深く愛するのである。しかしBenjyが愛するのは"Caddy smelled like trees."というセリフに表れているとおり、「木の香り」を漂わせた"innocent"なCaddyである。 "...(複数のパラグラフなのでインデントして引用する場合、本文になければ、最初と最後に引用符をつける必要はありません。また、文の最初なので省略記号...は必要ありません。)I couldn't hear the water,and Caddy opened the door.この場面はCaddyが着けていた香水をbathroomで洗い落としたため、再び彼女の「木の香り」を嗅いで安心しているBenjyの姿が描かれている。つまり彼は、大人の女に成長していくCaddyを受け入れられず、まだ彼女が"innocent"か否かを「木の香り」で判断しているのだ。そして、Caddyが処女を失った時、Benjyの"innocence"を失った彼女に対する拒絶は、一層激しさを増す。 "...We were in the hall.Caddy was still looking at me....,but (me....but コンマは単語と同じに解釈して、文章を含む単語が省略されているので、省略記号のピリオドは4個です。)I pulled at her dress and we went to the bathroom and she stood against the door,looking at me.Then she put her arm across her face and I pushed at her,crying."(p.69 l.17-l.25)(上記引用の注意に従って修正すること。)もはや"innocence"を失ったCaddyからは二度と「木の香り」はしないのだが、Benjyは以前のようにCaddyがbathroomに入ればそれが復活すると思っているのである。しかし彼の悲しい努力が報われるはずもなく、Caddyは結婚して家を去っていってしまう。そしてBenjyは「木の香り」のする "innocent"なCaddyを永遠に失い、Caddyの娘Quentinにその面影を重ねつつも、癒し得ない喪失感を抱えていくのである。 Benjyに次いでCaddyを語るのは、長兄Quentinである。彼の苦痛に満ちた長い独白から浮き上がるCaddy像は、最も官能的なものである。これはCaddyの "virginity" に執着したQuentinの目を通した姿であるから必然的なことであろう。Quentinは Caddyの "virginity" の喪失に耐え難い苦痛を覚えるが、一方のCaddyは "...yes I hate him I would die for him Ive already died for him I die for him over and over again everytime this goes..."(p.151 l.19)(上記引用の注意に従って修正すること。但し、ここではインデントしない引用なので、引用符は必要。)とDalton Amesへの愛を口にし、一層Quentinを苦しめるだけである。 "Honeysuckle is the saddest odor of all, I think."(p.169 l.17)女として目覚めたCaddyを象徴する"honeysuckle"の濃厚な香りは、甘美な香りに包まれていくCaddyに戸惑うばかりのQuentinを責め立てる。 "We did a terrible crime...Ill tell Father then itll have to be...you thought it was them but it was me listen I fooled you all the time..."(p.147 l.30-p.148 l.4)Quentinは、処女喪失よりも更なる大罪である"incest"を犯しCaddyと共に地獄へ落ちると妄想することで、この苦しみから逃れようともがく。だがCaddyと父に何の影響も与えられなかったばかりか、Caddyは刹那的に多数の男と関係した結果妊娠し、Sydney Herbertとの愛のない結婚へと走るのである。 "...it's because you are a virgin: dont you see? Women are never virgins. Purity is a negative state and therefore contrary to nature. It's nature is hurting you not Caddy..."(p.116 l.6-9)(上記引用の注意に従って修正すること。)もはやなす術も無く、父の運命論にも同調できないQuentinは、Caddyを連れ去っていく"nature" (と?)"time"に反抗して自殺をするのである。 最後の語り手は、次兄Jasonである。Caddyに対する理由なき敵意に支配された彼の口からは、母親と同じような"a bitch"に成長したQuentinの姿が明かされる。"...If she stayed on the streets. I dont reckon she'd be playing out of school just do something in public..." (p. 180 l.21-23)(上記引用の注意に従って修正すること。) 学校にも行かず、男たちと遊びまわるQuentinを、Jasonは覚めた目でみつめる。 "Once a bitch always a bitch, what I say."(p.180 l.1)実の母親に育てられた経験のないQuentinが、あたかも母親の真似をするように同じ生き方をするのを見て、Jasonは2人の身体に流れる「あばずれの血」を確認する。そしてそのうちの一人を"feed"し、もう一人の金を騙し取ることで、彼女たちへの勝利を味わっていたのだ。しかしその勝利はまやかしで、娘のQuentinはJasonの隠し金と共に、"pear tree"をつたって逃げ出すのである。 "...What is it I must do? He thought...."(p.312l.21)それまでJasonの生きる糧であったCaddyとQuentinへの憎しみはその行き場を失い、彼はただ呆然とするばかりである。 このような苦悩に満ちた3人の「証言」から浮き上がるCaddyと娘のQuentinの姿は、およそ「楽園」にはふさわしくないばかりか、「楽園」の混乱と崩壊をもたらす脅威的なものであろう。禁断の果実(これを性衝動ととることができよう)を食べてしまったEveが産みの苦しみを知ったのと同様、CaddyもまたQuentinを出産し、Quentinも禁断の果実に手を伸ばしてしまう。3人の「楽園喪失」には、長男Quentinが"...theres a curse on us..." (p. 158 l.10)と思わず口走るように、一種呪いにも似た運命が感じられる。 Faulknerが"The Sound and the Fury"(上記注意に従って修正すること。)で描いた女性に、運命的な「汚れ」のimageがつ いてまわっているのは明らかなことである。だが私は、FaulknerがCompson家の男たち---"Once a bitch always a bitch."と彼女たちを蔑むJason、"innocence"や"virginity"に女の価値を見出そうとするBenjyとQuentin、そして"...Because it means less to women, Father said. He said it was men invented virginity not women..."(p.78 l.22)"...dont you see? Women are never virgins..."(p.116 l.7)と女性の性的堕落性を生来のものとする運命論者的なMr.Compson---のような女性観を持っていたとは思えない。何故なら、彼ら(CaddyとQuentinがEveなら、彼らはAdamであろうか)が守ろうとした「楽園」をFaulknerが肯定していたとは考えられないからだ。(Yes, yes!) Caddyと娘のQuentinの"loss of innocence"により引き起こされた「楽園崩壊」を体験するCompson家の3人の息子は彼女たちとは対照的に、「楽園」の住人にしか成り得なかった無力な、"impotent"な人間として描かれている。長男Quentinは「楽園」を破壊する力そのものである"nature"、時間の経過を克服すべく、少なくとも自分の時の流れを永久に止めることができる唯一の方法である自殺という道を選び、Caddyでは叶えられなかった"virginity"を自ら完成させる。次男Jasonは、年老いた母親と白痴の弟、使い物にならない黒人召し使いが残るのみの「楽園」を維持するため、しがない商店の店員をするしかないうだつの上がらない自分の運命をCaddyとQuentinのせいにして、「ほころびたボロ靴下」のような人生を生きてしまう。末っ子のBenjyは「楽園」を取り囲む"fence"から外へ出ることができず、そこにいるはずのない"innocent"なCaddyの幻影を追い求め、うめき声をあげるのみである。Benjyが受ける"castration"の手術は、そんな「楽園」の"impotece"の象徴に他ならないであろう。 "impotemt"な人間が守ろうとした"impotent"な人間しかいない「楽園」は、それ自体"impotent"なものに違いなく、Faulknerはその崩壊を描かずにはいられなかったのではないか。だからこそ、この破壊者となるCaddyとQuentinの性的な奔放性、堕落性を強調することで彼女たちの"un-impotence"(I like the word!)を表現したのだ。"...Whatever I do, it's your fault," she says. "If I'm bad, it's because I had to be. You made me..."(p.260 l.7)というQuentinのセリフは、Faulknerが「楽園」に突きつけた最後通告とも言えるであろう。「楽園」を崩壊へと導くためには、CaddyとQuentinはfallen Eveになるしかなかったのである。 更にもう一つ、Faulknerが彼女たちに求めたものがある。それは、崩壊の次に訪れるべき再生のimageである。これは、FaulknerがCaddyとQuentinの「楽園喪失」を"escape" と表現していることにも表れていよう。 "..."I'll run away and never come back." Caddy said..."(p.19 l.3)CaddyとQuentinに「楽園」を"escape"させたFaulknerは、2人に「楽園再生」の予感としての、母体の生産力を見出していたに違いない。その生産力こそ、Eveが禁断の果実に手を伸ばしたからこそ、女に与えられた「力」なのだから。彼女たちが"innocence"を保ったままでは、これは表現しきれなかったのである。 "The Sound and the Fury"(上記注意に従って修正すること。)のCaddyとQuentinは、堕落した、反逆的な女性である。しかしFaulknerは、その一筋縄ではいかない女たちに、萎えきった「楽園」の崩壊と再生を担わせた。この意味は大きいであろう。Faulknerがこの作品で女性に求めたものはマリアのような純潔ではなく、Eveの娘たる女性が内に孕んでいる崩壊と再生の「力」である。
総評:説得力があり、「生き」のよい論旨の展開が気に入りました。ケチのつけようがない!とにかく、「カッコイイ」サブタイトルで決まり!欲を言えば、他の主要な女性、Mrs. CompsonとDilseyについても少し触れてほしかった。前者の性格は、CaddyやQuentinがもつ生命力と好対照で、後者はCaddyとQuentinを擁護する存在として、斉藤さんの論を補強できたはずです。(補強する必要はないほどよく書けていますが・・・)
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