Seminar Paper 97
Ryoko Yamamoto
First created on December 19, 1997
Last revised on January 19, 1998
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The Sound and the Fury: 三人の兄弟
The Sound and the Furyを読んで行く上で私が一番おもしろいと感じたのは、全体を構成する4つの章の各々が単独の小説と言ってもいいくらいに違った雰囲気でまとまっているということである。その4つの章は語り手が異なり、"April Seventh, 1928."はBenjyの章、"June Second,1910."はQuentinの章、"April Sixth,1928."はJasonの章、そして"April Eighth,1928."はDilseyの章と呼ばれる。全体としてはDilseyの章以外は“意識の流れ”と言われる語りの手法が用いられており、それが4章を結び付けるポイントになっている。興味深い点は、このように他にはあまり見られない構成・語りを用いることで語り手のキャラクターを読者により強く印象づけることであると思う。では実際にそれぞれの章はどのような手法を使って語られているのだろうか?
"Now, git in that water and play and see can you stop that slobbering and moaning."また、この場面の転換を見てもわかるように必ずしもパラグラフ単位で切り替わるわけではなく、Roman体とItalic体の文字の切り替えが用いられることで、記憶の断片が挿入されている様子がさらに強調されている。第二に、Benjyが白痴であるからこそ感じ得る感覚について考えると、“匂い”や“音”についてとてもおもしろく語られていることに気付く。“匂い”に関して印象的だったのはMr.Compsonの死の場面である。死というものが一体何であるのか、多分Benjyには理解できていないはずだが、いつもとは違う何かの匂いを確実に嗅ぎ付けていることが"I could smell it." (p. 34)というフレーズが4回も繰り返されているところでわかる。状況の変化を匂いで感じているもう一つの例がCaddyについてである。Benjyの最愛の姉Caddyは木や雨の匂いがしていた。"She smelled like trees." (p. 9), "Caddy smelled like trees in the rain."(p. 19) Benjyが大好きだった純真で汚れのないCaddyや、彼を優しく愛情で包むCaddyはいつも"smelled like trees "と表現されている。(pp. 42, 43, 44, 48, 72, etc...) それに変化が起きたのはCaddyの結婚式の場面である。p.39から始まるこの場面はCaddyという名前が突然文の間に挿入されているところなどから見ても、Benjyのかなりの心の動揺、不安が感じられる箇所であるが、花嫁姿のCaddyを見たBenjyはいつものように彼女が抱いてくれるのにもかかわらず、"...Caddy put her arms around me, and her shining veil, and I couldn't smell trees anymore and I began to cry. " (p. 40) と語っている。「死」や「結婚」という概念、そしてそれによって愛する人達が身近に居なくなってしまうことを理解はできないけれど、匂いで何らかの変化を察知しているとしたら、それはやはり白痴だからこその能力だと言っても良いのではないだろうか。また、“音”に関してもBenjyは普通の人とは少し違う捉え方をしている。状況を判断するのではなく音を単に音として受け入れ、それをそのままの形で語りに出している。シャワーを浴びるCaddyをドアの外でBenjyが待っている場面を例にとると、 I went to the bathroom door. I could hear the water.と表現されている。何気なく読んでも私達はこの場面でシャワーを浴びおわったCaddyが出てきたのだと容易に想像することができるがBenjyの頭の中では記憶自体が音の世界でインプットされているように思えて興味深い。こういった例は他にも見られた。"We went out and Versh closed the door black. I could smell Versh and feel him." (p. 27) とあり、次の会話は"You all be quiet, now. We're not going up stairs yet. Mr.Jason said for you to come right up stairs. He said to mind me. I'm not going to mind you. But he said for all of us to. Didn't he, Quentin. I could feel Versh's head..." (p. 27)となっている。この暗闇の中での会話は恐らくQuentin, Versh, Caddy, JasonのものだがBenjyは誰が何を言ったかわからず音そのものだけを捉えて記憶しているために、このような表記になっているのではないだろうか。そういった視点でBenjyの章全体を振り返って見ると彼が音に対して反応している、または、ある単語がもとになって場面の転換が行われている箇所が多いように思える。ゴルフのキャディを呼ぶ "Here, caddie." (p. 3)の声に反応してうめき出す冒頭もそうであるし、 "Big enough to sleep by yourself in Uncle Maury's room." Dilsey said. Uncle Maury was sick. (p. 43)これらはいずれも会話中のある単語から断片的な記憶がよみがえっている例である。最後に全体の語りそのものを通して言えることは、使われる単語や文が他の章と比較して稚拙だということである。Benjyが白痴だからということは言うまでもないが、その幼い言葉づかいの中にも私達読者がハッとさせられるフレーズがあることは注意すべきだと思う。例えば子供達が小川で遊ぶ場面ではBenjyはCaddyを"Caddy was all wet and muddy behind, and I started to cry" (p. 19) と語っており、なんとも無い描写でありながらCaddyの将来の姿を私達に暗示するかのようである。 次に2番目の章、"June Second,1910." について考えたい。この章はCompspn家の長男Quentinの語りである。彼は子供の頃から物事に対して慎重で思慮深く、妹のCaddyの自由奔放で勝ち気な性格とは対照的であった。そのCaddyに対して一種近親相姦的な愛情に近い感情を抱いており、時を経るにつれて性的にも奔放になってゆく彼女を目の当たりにし、彼女を責めると同時に彼女の処女性にこだわったため、自分自身の中で純潔なCaddyを失ってゆく苦しみを次第に大きくしてゆく。母Mrs. Compsonの期待を背負ってHarvard大学へ入学したが、遂にはこの日1910年6月2日、ボストンのチャールズ川で自殺をしてしまう。つまりこの章の語りは自殺を決心したQuentinの心の動きを追ったもので、やはり大部分がCaddyとの思い出、彼女に対する想い、そして彼女を取り巻いた男達への憎しみで占められている。全体的に見てQuentinの章は文章一つ一つが長く句読点が少ない。これはQuentinが頭の中で常に深く物事を考え込んでいる様子を表していると思う。単に現実にあった出来事をフラッシュバックしていたBenjyの章とは大きく異なり、Quentinが物事をどう捉えているのか何を考えているかが言葉として表れている。思慮深いQuentinの語りをBenjyの章の直後に持ってくることでその対照的な感じはますます際立っている。しかし、複雑で理屈っぽくさえも感じられる語りから判断して、Quentinの場合は思想を持った普通の人間の語り以上に独特な思考回路があるのではないかと私には思えてならない。Caddyの処女性にこだわりかつての無邪気なCaddyを失う苦しみをもたらした“時間”を克服するために自殺という道を選択するに至るような、彼なりの哲学があって、その哲学的な雰囲気がQuentinの章を占めているような印象を受けた。例えば彼は時間に対して異常なほど感覚を鋭くしている。注釈書(大橋健三郎,『響きと怒り』英潮社新社ペンギンブックス注釈書(東京:英潮社新社, 1988)p. 124.)によるとQuentinの"time obsession"とされている。冒頭から"When the shadow of the sash appeared on the curtains it was between seven and eight oclock and I was in time again, hearing the watch." (p. 76) とありQuentinの自殺が時間への強迫観念に帰するものだと想像させられる。 "Then I could hear the watch again." (p. 78)これらはいづれもQuentin が時間や時計に取り付かれている様子を表したものである。単に時計を気にかけるだけでなく、かつて父親のMr.Compsonが時間について話したことや自分の考えを懇々と述べている部分が多かったように思う。 ...I began to wonder what time it was. Father said that constant speculation r egarding the position of... (p. 77)また、Quentin特有の語りとして、正確な会話の再現、というものが挙げられると思う。BenjyやJasonの章においても様々な会話の記憶が意識へ入り込んでいるがQuentinの章に限っては特にCaddyの処女喪失の場面でのQuentinとCaddyの会話、そしてMr.CompsonとQuentinの会話の表記が特徴的である。具体的には前者のシーンはp. 150からp. 164にかけて文頭を大文字にせず、会話であることを印す“ ”の記号を用いずに表記するという方法がとられている。 Caddy do you love him nowこれはMrs. Bland, Spoade, Shreve, Geraldと共に車に乗っている間のQuentinの回想だが、上のような特殊な語りの効果で、かなりの間彼の意識はこの頃の記憶へ飛んでしまっていることがわかるし、二人の会話のやりとりが彼の頭の中でここまで細かく再現され反響していることを考えると、Quentinにとって小川でCaddyと交わした会話、Dalton Amesという男にCaddyを奪われたショックはとても強烈に印象に残っているということがわかる。p.107〜p.113の結婚式の前夜の会話も同じ事が言えると思う。後者の、Mr. CompsonとQuentinの会話は違ったかたちで特徴的である。会話なのかそうでないのか、Quentin自身の想像なのか父親の言葉なのか、私達読者にはわかりづらくQuentinが混乱しているかのように感じられるが、よく読むと内容は正確な会話の記憶として死ぬ間際のQuentinの頭で復唱されている。 ...and he we must just stay awake and see evil done for a little while its not always and i it doesnt heve to be even that long for a man of courage and he do you consider that courage and i yes sir dont you and he every man is the arbiter of his own virtues whether or not... (p. 176)“時間”を克服するために死ぬのだというQuentinがその死の意味を確信するかのような、また死に向かうスピードを加速してゆくかのような、この章の終わりである。意識の流れの場面の転換が行われる箇所についてはBenjyよりも込み入ったフラッシュバックの仕方をしていると思う。例えば大学で一緒のGerald BlandにCaddyを奪ったDalton Amesのイメージを重ねてしまうシーンなどではとても複雑である。 What picture of Gerald I to be one of the (現在) Dalton Ames oh asbestos Quentin has shot (Caddyの処女喪失) background. Something with girls in it. Women do heve (現在)always his voice above the gabble voice that breathed(結婚式の前夜)an affinity for evil (p. 105)この様な複雑な記憶の混同は死を迎えるQuentin の心の錯乱を、言葉そのものよりも効果的に表しているのではないだろうか。ただし、全体的にはそのような重苦しさや乱れの中にも自分の身辺を着々と整える彼の覚悟を決めた冷静さも感じられると思う。 最後に、April Seventh,1928. Jasonの章について見てみたい。JasonはCompson家の次男である。Quentinの自殺、Mr. Compsonの死後、一人で一家の家計を支えMrs. Compson, Benjy, Caddyの娘のQuentinを養っている。Caddyの結婚相手Herbertの斡旋で銀行家になれる約束があったがCaddyが妊娠していたことで結婚が不成立になったのと同時にその地位への約束も失った過去がある。子供の頃からずる賢いところがあり、冷酷で人を見下しているような感じのする人物である。Quentinの難しく長々と続く語りと比較して、Jasonの章はなんてさっぱりとした語りだろう、と私は感じた。良く言えばさっぱりしている、言い方を変えれば冷ややかで投げやりな感じの語りだと思う。余計なことは語らずただ淡々とあったことのみが述べられているが、Benjyのそれともまた違うと思う。BenjyやQuentinの語りとは異なり、回想の部分はMr.Compsonの葬儀、Quentinを引き取ったときのこと、Caddyに娘のQuentinを見せたときのことぐらいで、それらも同じように淡々と語られている。前の二つの章のようにItalic体を混ぜて場面転換しないところはJasonの現実的・合理的な考え方を反映しているように思える。またJasonが自分の考えを述べるときは決まって "like I say" (pp. 194, 197, 207, 211, etc...)や "I reckon", "I says"などというフレーズを使っていることに気付く。自己中心的で横柄なキャラクターが目に見えるようである。次の例はCaddyに娘のQuentinに会わせるといってお金を払わせた場面の語りである。 "And so I counted the money again that night and put it away, and I didn't feel so bad. I says I reckon that'll show you. I reckon you'll know now that you cant beat me out of a job and get away with it. " (p. 205)また、姪のQuentinが"I wish I was dead"と言ったのに対しJasonは "That's the first sensible thing she ever said," (p. 260)と平然と言っている。他にも彼の毒舌ぶりを感じる箇所は挙げればきりがないほどたくさんあった。 以上、三人の兄弟の語りを振り返ってきたが、スタイルは違ってもそれぞれの持つ心の苦悩を表現していることには変わりはないと思う。Benjyは一番理解のある優しい姉が近くに居なくなってしまったという心の傷を、Quentinは仲の良い兄妹以上に愛情を注いだ妹の変化を乗り越えられなかった苦しみを、JasonはバラバラになったCompson家で十分に愛情を受けられなかった上に、一人家長としてやっていかなければならないつらい運命を、語り手として訴えていたと思う。同じ時を過ごした兄弟のそれぞれの視点は異なり、それぞれの思いが語りの手法の違いで表現されるという構成はとても新鮮であった。私達読者が理解できなかったり勘違いをして読み進む可能性は大きいが、あえてそのリスクを負いながらも、このような大胆な構成をすることで登場人物のキャラクターが生き生きとし、ストーリーの深みも増したと言えるのではないだろうか。 |
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