Seminar Paper 98
Motomi Baba
First Created on January 9, 1999
Last revised on January 9, 1999
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The Catcher in the Ryeにおける‘fall’の概念 The Catcher in the Ryeは子供から大人へと成長していく少年の心の葛藤を描き、多くの共感を呼んだ作品である。主人公であり語り手のホールデン・ コールフィールド は16歳で頭の半分が白髪という少年である。彼は非常に独自の世界観を持っており、それはタイトルとなった「ライ麦畑のキャッチャー」について彼が語る部分に表れている。 “Anyway, I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody's around―nobo dy big, I mean―except me. And I'm standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff―I mean if they're running and they don't look where they're going I have to come out from somewhere and catch them. That's all I'd do all day. I'd just be the catcher in the rye and all. I know it's crazy, but that's only thing I'd really like to be. I know it's crazy. ”(J. D. Salinger, The Catcher in the Rye (英潮社ペンギンブックス、1995 ) p. 156 以下本文からの引用はページ数のみを記す。)ホールデンはライ麦を子供の世界と考える。それに対する大人の世界は、ライ麦畑の端は崖になっていることから、その谷の向こうにあるといえる。そして子供が大人になる時には、その谷を越え、向こう側に渡ることになる。この時、子供が大人になることは可能だが、一度 大人になってから子供に戻ることは不可能なため、大人世界から戻ることができないよう、大人世界の方が低く、ライ麦畑の方が高いという高低差があるようだ。このことから彼は子供が大人世界へと飛び降りることを‘fall’と考えている。 そんなライ麦畑でホールデンはそこから飛び出そうとする子供を受け止めるキャッチャーになりたいと言う。この理由は、ホールデンの大人観に関係している。彼のよく使う言葉に‘phony’がある。これは「偽の」とか「いんちきな」という意味で、特に大人に対してよく使われる。例えば本音ではなく、お世辞を言ったり、下心があって思ってもいないことを言う時である。大人特有の対人関係における必要悪ともいえるものを、ホールデンはそのたびごとに非難する。このような大人への反発から、ホールデンはこのphonyさを持たない innocentな子供たちがとても好きなのである。感情のままに奔放に、正直に生きているタイプであろう。そしてそんな子供たちをphonyな世界には行かせず、いつまでもライ麦畑で遊んでいてほしいと彼は願う。 そしてそのように考えるホールデン自身はというと、大人の世界へとfallしていく真っ最中にいるのである。彼が最初にfallしている自分を感じたのはペンシーを出る前、道路を横断している時である。「道を渡る」という子供世界から大人世界へと渡っていくことを象徴するような場面である。落ちていく、大人になっていく自分を感じながらもキャッチャーへの道を選び寮を飛び出したホールデンだった。キャッチャーの資格を得てライ麦畑へ戻ろうとしていたのだろう。既に子供世界からが転げ落ち、大人世界にも到達していない、仲間も理解者もいないホールデンは孤独感にさいなまれ、とにかく誰かと一緒にいたい、誰かに自分の取るべき道を教えてほしいと考える。 そんなとき一つの考え方を示したのがタクシー運転手のホーウィッツである。ホールデンは以前から「池の水が凍ったら、そこにいる『カモ』はどこに行くのか」という問いの答えを探していた。「カモ」を自分と同一視して、自分の行く先を知りたかったのである。ところがホーウィッツはホールデンの思いもよらない答えを出す。カモよりも、氷の下にいる「魚」の方がよっぽど大変だ、と言うのだ。カモはどこにでも飛んでいくなりできるが、その場を移動できない魚の方が確かに状況としては厳しい。だが、その状況に適応できるような身体の構造になっており、それは‘Mother Nature’のおかげだとホーウィッツは説く。 子供の世界にも、大人の世界にも属していないホールデンには当然、魚の辛さはわからない。大人たちは彼の嫌うphonyさを身につけないと、その世界ではうまくやっていくことができず、冬を越すこともできないのだ。また、ホールデンの好きな子供の世界にもそれなりの辛さがある。彼は妹のフィービーのノートや彼女の寝顔を見ながら「子供は何をしても大抵は許される」と思い、すでに自分は子供ではないために羨ましく思う。しかし、子供たちも許されてばかりいるわけではない。それはフィービーの腕の傷の原因で明らかにされる。男の子に階段から突き落とされたフィービーは、仕返しにその子のウィンドブレーカーをインクだらけにしたというのだ。子供は大人にはその奔放な行為を「子供なのだから仕方がない」という理由で許されるが、子供同士ではそれが成り立たないのだ。ホールデンはすでにそのことを忘れてしまっている。彼の憧れつづけたinnocentな世界も、自由奔放に振る舞う子供たち同士の衝突は絶えず、実は厳しい世界だったというわけだ。 そう考えると、現在のホールデンは一見孤独で辛い立場にいるようだが、現実はそれぞれの世界の厳しさから逃げているだけ、ということになる。そして、彼の夢見るキャッチャーもまた、「子供の世界にいる唯一の大人」という立場上、矛盾した、どちらの世界にも属さない人物なのである。もしホールデンがこの孤独と矛盾に打ち勝ち、それでもキャッチャーになりたいというのなら、それもまた「カモ」としての新しい生き方を見つけたことになるのだが、彼はそこまでの強さを持たない。アントリーニ先生と語る場面で、ホールデンはこう言う。“…if I didn't see them, if they didn't come in the room, or if I didn't see them in the dining room for a couple of meals, I sort of missed them. ”(p.168) たとえどんなに嫌な人でも、しばらく会わないと懐かしくなってしまうというのは、やはりホールデンも、孤独よりも自分の主義を曲げてphonyな大人たちといる方がよい、と考えたせいだろう。また、作品中に現れたキャッチャーになりうるphonyでない大人というのが、二人の尼さんだったり、アントリーニ先生のような同性愛者であったりと大人の中ではある意味世間から隔離されていたり、限定された人達である、ということもホールデンの道を阻んだ一因であろう。実際、彼は一度修道院に入ろうかとか、「西部に行って聾唖者として暮らす」と考えたりもするが、結局どちらも実行しなかった。 また、キャッチャーになるためには、自分を受けとめてくれる人はもういないのだから、崖の下の世界に引き込まれないようphonyなものに対して強い人間であることが必要である。自分がphonyにならないだけでなく、phonyさを打ち負かすような力が欲しい。そんな人物になるべく、ホールデンは寮を飛び出し、phonyな世界へと戦いを挑んでいくのだが、実際の彼は己の無力さをかみしめることになる。ホテルでのモーリストの対決がそれである。結局モーリスに殴られ彼は倒されてしまう。この場面は寮でのストラドレーターとの喧嘩を連想させるが、同じような結末でもホールデンの気持ちは正反対であった。ストラドレーターとの時は殴り倒された後でもなお、彼を非難しつづけ、「暴力に屈せず自分の主張を貫いた」というある種の満足感をホールデンは感じていた。ところがモーリスにやられたあとは、“Only, this time I thought I was dying. ”(p. 93) と言っている。ストラドレーターとモーリスの力の差もあったかもしれないが、精神的な痛手も相当大きかったと思われる。というのは、自分が正しかったにもかかわらず、その意見を相手に認めさせることができなかった、「自分の主張が、正義が力によってねじ曲げられた」という敗北感を強く感じたはずだからである。そしてホールデンは一人、いつか観た映画の真似をしながらモーリスへの復讐を夢想する。拳銃を使うあたりが彼の無力さ、また現実味の乏しさを感じさせる。仮に復讐を「計画」したのならまだ実現の見込みはあるし、完全に敗北したことにはならないのだろうが、このような空想ではこの復讐は不可能であり負けたということを自ら認めたことになってしまう。このように彼はphonyさに打ち勝つことは到底できないことを実感したのである。 さらにinnocentな子供の世界にいるキャッチャーとしては決してphonyであってはならないはずであったが、ここでも現実のホールデンはそうはいかない。他人のphonyさを攻撃しながらも彼もまたphonyな言動をしているのだ。このことはホールデンとフィービーとの会話の中で、 phonyな大人とinnocentな子供という対比となって表れている。「額を熱くしたからさわってみて」と言う彼女に対して何も感じないホールデンは困り果て、“I think it's starting to, now. ”(p.158)と言ってしまう。つまり嘘をつくというphonyな行為をしたのである。だがこれは「何も感じない」と言ってしまうとフィービーが傷付けられ、劣等感を持つことを避けるためにした、と彼が自覚している点が重要である。ただ感情のままに言葉をぶつけるのではなく、相手が自分の言葉によってどんな気持ちになるのかを予測し、嘘をつくことになろうとも自分の言葉の方を変える、それが彼が妹に対してとった行動である。あれほど嫌っていたphonyさも、さほど悪いものではなく時には必要だと彼も感じたのではないだろうか。 そのような現実に直面し、またいろいろな経験をしながら落ちて行ったホールデンがようやく大人世界へと着地するのはmuseumのトイレでのことだった。 “…I sort of passed out. I was lucky, though. I mean I could've killed myself when I hit the floor, but all I did was sort of land on my side. …I felt better after I passed out. ”(p. 184)ペンシーで始まりニューヨークで終わった彼の‘fall’は、始めと終わりこそ苦痛を伴って彼に‘fall’していることを実感させるが、その間の落ちている時は何度も物につまづいたり、転んだりして小さな‘fall’を繰り返しているのにもかかわらず、自分が嫌っている大人世界へ着々と近づいていることに気づかせない。そしてそれこそがホーウィッツの言っていた‘Mother Nature’のおかげではないだろうか。キャッチャーになることによって子供が大人になる、という自然の流れに逆らったホールデンに対しては彼を「カモ」という孤独で辛い立場に押しやるという罰を与え、キャッチャーになることを諦めて、素直に大人になろうとしている彼には、そのことを感じさせずに痛みもなく、大人世界へと導いてやるのだ。誰でもその時期がくれば自然に渡って行けて、大人世界に入ることを許されるというわけだ。彼はやっと孤独から解放されたのである。 さらにそれだけではなく、ホールデンが気づく前から実は‘fall’は始まっていたのである。忘れてはならないのは、彼の頭はすでに半分が白髪だったことである。大人の世界に入った、という決定的なところを自覚できたにすぎないのだ。本人にも気づかせることなく徐々に大人になって行くというのはまさに自然の力である。 このように長い時間を経て大人になっていく、ましてや気がつかないうちに大人にるというのはホールデンの考えていたこととはまったく違うものであった。彼は大人になることを‘fall’ととらえていたが、実はもっとゆっくりと時間をかけて降りてくるものであり、また苦痛や本人の自覚さえもないまま降りてこられるもの、とすると「崖から落ちる」のではなく「ゆるやかな坂を下りる」ようなことではないだろうか。そしてこれは、実際に大人世界にたどりつかなければわからないことであった。拒否せずに大人になることが‘fall’の正体を知る一番の早道だったのだが、ホールデンは心配しすぎて遠回りしてしまったのである。 そしてようやく大人になったホールデンは、 phonyさから逃げることも、それを非難することもやめている。ハリウッドで脚本家になった兄にも以前は非難の目がむけられていたが、静養中の彼は兄に全てを話したことから兄に対して心を開き、かつて同じ道をたどったのであろう兄に理解を求めているように見える。これはたとえ大人になってphonyさを身につけようとも、その人の人間性すべてが変わってしまうわけではないと、自分がphonyになってみて初めてわかったからであろう。その証拠に、ホールデンは精神科医の質問に対してこう考える。 “It's such a stupid question, in my opinion. I mean how do you know what you're going to do till you do it ? The answer is, you don't. I think I am, but how do I know? I swear it's a stupid question. ”(p. 192)このようにホールデンのひねくれぶりも健在なのである。 旅の終わりに彼はやっと、‘phony’さも‘fall’も恐れるようなものではないと知る。あれだけ拒否していたことが皮肉ではあるが、「自分でやってみなければわからない」という教訓を得ることができたし、何よりもホールデンと同世代の読者への「そんなに心配する必要はない」という作者のメッセージがここに込められている。 |
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