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Seminar Paper 98


Aiko Hayashi

First Created on January 9, 1999
Last revised on January 9, 1999

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「ライ麦畑からの転落」
−愛と救済を求めて−

「諸師よ、地獄とは何であるか? つらつら考えるに、愛する力をもたぬ苦しみが、 それである、と、私はいいたい」 −ドストエフスキー−
The Catcher in the Ryeは、16歳の少年Holden Caulfieldによる「探求物語」である。彼は、自分をとりまく世界の“phony”さに嘔吐を感じている。そして、その嘔吐とは、この世のなかに道徳的な秩序と愛の可能性を見つけ出そうとする、彼の探求の出発点である。

彼が心から嫌悪する“phony”とは、どの場合をとっても、愛の欠如のことであり、また、しばしば、見せかけの愛のことである。

Pency校を訪れ、礼拝堂で演説し、常に神に祈るようにと説教する先輩の金持ちの葬儀屋には見せかけの愛しかない。
He told us we ought to think of Jesus as our buddy and all. He said he talked to Jesus all the time. Even when he was driving his car. That killed me. I can just see the big phony bastard shifting into first gear and asking Jesus to send him a few more stiff.(p. 14)
現代アメリカ文明は、変質し、倒錯し、飽くなき物質主義に根ざしているので、当然Holdenのような価値の探求者には不快な印象を与えずにはおかない。Holdenの嫌悪には意味がある。
Take cars,....Take most people, they're crazy about cars. They worry if they get a little scratch on them, and they're always talking about how many miles they get to a gallon, and if they get a brand-new car already they start thinking about trading it in for one that's even newer. I don't even like old cars. I mean they don't even interest me. I'd rather have a goddam horse. A horse is at least human, for God's sake.(p. 117)
Holdenが嫌悪をおぼえるのは、物質的価値観が、今日、この世にわずかながら残されている愛を、人間にではなく、物に消費するからである。

Holdenは「徳」よりもまず「愛」を目指している。彼は親切でありたいと望む。彼は名誉や勇気、または女性の愛を目指す方向へと駆り立てられはしない。Holdenが駆り立てられるのは、同胞である人間に対する愛、もしくは、情け深さを目指す方向に他ならない。

また彼は、子供の夢に全身をひたしている少年である。彼は、子供のうちにしか、純粋な愛を見出すことはできない。そして、純粋な愛という、その厳格な要求を満たし得るような仕事は、この世のなかでは何ひとつ彼には思いつくことができない。彼にできることといえば、なにかそんな仕事をあたまのなかで想像してみることでしかない。彼は小さなPhoebeに自分の夢を語る。
I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody's around −nobody big, I mean −except me. And I'm standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff −I mean if they're running and they don't look where they're going I have to come out from somewhere and catch them. That's all I'd do all day. I'd just be the catcher in the rye and all. I know it's crazy, but that's the only thing I'd really like to be. I know it's crazy.(p. 156)
Holdenは、絶対的に純粋で美しいものを守りたいという彼の望みが、実現不可能であり、またそんなことは、彼自身の失われた幼年時代へ戻ることと全く同様に幻想にすぎないことを知っている。Holdenはすでに16歳の青年であり、決してそれ以下ではありえない。幼い頃の彼には、今彼が得ようと努めているもの、つまり、phonyでない、純粋な、無邪気なものが備わっていた。今の彼にはかろうじてそれをPhoebeに、死んだ弟Allieの野球のミットに、赤いハンチングに、また、あの、やさしい尼さんたちに見出すことができるだけである。彼は子供の世界にありながら、大人の世界に片足突っ込んだ不安定な姿勢で立っているともいえるし、彼という一個の人間の中に、子供の夢と大人の現実とが混在しているともいえるだろう。それは、彼の頭の半分が白髪だらけだということや、彼がしょっちゅう何かに足をとられては転ぶ(fall downする)ことなどにも象徴的に示されている。それにもかかわらず、普通一般の人間とは違って、Holdenは成人した状態、および、それに付き物の不純な要素と妥協することを拒む。そのHoldenの危険な状態は、Antolini先生によって指摘されている。
This fall I think you're riding for−it's a special kind of fall, a horrible kind. The man falling isn't permitted to feel or hear himself hit bottom. He just keeps falling and falling.(p. 169)
つまり、ライ麦畑の崖から落ちる子供のつかまえ役でありたいと望む、彼自身が、まさにその崖から落ちようとしているのだ。Holdenは崖から足を滑らせたものの、何とか落ちまいと崖にしがみつき、もがいているのである。しかし、もがけばもがくほど、確実に底無しの谷間へと落下することになる。大人になることに何の抵抗も感じない者たち、または何も考えずに流れに従い大人になっていく者たちは、崖を落ち、大人の世界に無事着陸するに十分な助走ができているのだろう。しかしHoldenは失速しているどころか、まさに片手で崖にぶら下がっている状態にあり、その足下には、子供の世界と大人の世界の間に存在する、底無しの谷間が広がっているのだ。

己に失われた<無垢>を子供に求めること−それは一見、利他的であるが、他者の中の<無垢>に己の救済を求めることで利己的なものとなる。彼は自ら守護者たらんことを欲しながら、妹または子供の内に救済を求めることによる自己矛盾をはらんでいることになる。

Phoebeが回転木馬にまたがって回っているのを見つめているときに彼の精神は参ってしまう。彼は円い形、すなわち、境界が巡らされていて、心安まる形、ただし同時に、無力感を暗示する形に魅せられる。結局、円い形を前にした、あの、狂気じみた歓喜の高みをもって彼の旅は終わりを迎える。病院の椅子に座ってこの物語を語るHoldenは、とりあえず大人の世界に無事着陸したようだ。しかし、果たしてHoldenはこのまま普通の大人になれるのだろうか。世の中のphonyと渡り合っていけるのだろうか。恐らく、不可能だろう。結局、Holdenの探求の旅路は、彼を社会の外へと連れ出すのだ。しかし、彼が探し求める聖盃とは、取りも直さず、世の人々のことであり、その聖盃には愛が満ちている。それでもやはりHoldenは、世の放浪者であり、アウトサイダーなのである。なぜなら、Holdenは世の人々を、彼らとしては耐えられないほどに、愛しているからである。

Holdenにとっての悲劇は、彼が「適応できない人間」であることが避けられない事実であり、社会によって受け入れられることも、あるいは、こちらが社会を受け入れることも決してできないということである。ここには本物の青春の悲しみと孤独な絶望がある。彼はあまりにも多くの愛をもち、しかも、その愛をそそぐべき価値ある対象をもたない。要するに、Holdenは愛する力を持たないために心を痛めているのではなくて、愛を与えるべき所を見出すことができずに失望のふちに沈んでいるのである。彼の人間愛の深さは、この物語の最後の言葉に痛々しいほど表れている。
If you want to know the truth, I don't know what I think about it. I'm sorry I told so many people about it. About all I know is, I sort of miss everybody I told about. Even old Stradlater and Ackley, for instance. I think I even miss that goddam Maurice. It's funny. Don't ever tell anybody anything. If you do, you start missing everybody.(p. 192)
"It's funny"...なるほど、おかしなものだ。しかしこのおかしさは、すぐに胸につきささるものとしてかえってくる。つまり、ここで読者は、最終的な、皮肉な矛盾に気付かされるのだ。心の病のために診察を受けなければならないのは、Holdenではなくて、実はこの世の中のほうではないのか、と。

Salingerは、兄弟姉妹または青年と少女の愛と救済をさまざまな作品で描いている。やがて失われゆく少女の純粋で清らかな愛−それは、はかない<美>でもあるが、そうした<美>に眼をとめるSalingerは、感受性の鋭く研ぎ澄まされた青春のあやうい危機を審美的なまでにみごとに描き出してみせるのである。

また、Salingerの作品の主人公たちの求める愛に共通することは、孤立した、ロマンチックな愛、つまり性愛(エロス)に根ざしているがゆえに痛ましい愛ではなく、むしろ、聖者の胸に宿っているような、生きとし生けるものをことごとく包容し、肯定する愛、つまり、無我の愛(アガペー)に根ざしているがゆえに決して痛ましくない愛である。それがはばまれるとき、A Perfect Day for BananafishのSeymourのようにピストルで自殺するか、あるいはHoldenのように狂暴になったり、深い物思いに沈んだりする。一方、世の人々を愛する方法が見つかるとき、For Esmeの兵隊のように狂気と自滅のふちから救われるのだ。

これらの作品を通して、作者Salingerが言いたかったこと、それはすなわち、われわれ人間は、もしも愛することができなければ、生きることができないのだ、ということではないのだろうか。

 


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