Seminar Paper 98
Akihiko Murakami
First Created on January 9, 1999
Last revised on January 9, 1999
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「The Catcher in the Ryeにおける人生観」
Holdenが人生に求めていたもとはどのようなものであったか。Mr.SpencerとMr.Antoliniの人生観や作品の伝える人生のあるべき姿、彼がそれを理解するに至った経緯とはどのようなものか。そしてDucksとFishが象徴的に示唆しているものとは何か。作品から伝わってくる人生観を分析したい。
“The Navy guy and I told each other we were glad to've met each other. Which always kills me. I'm always saying 'Glad to've met you' to somebody I'm not all glad I met. If you want to stay alive, you have to say that stuff, though.”(p. 79)まだ若いHoldenの頭の半分が大人のように白髪でいっぱいなのも象徴的だが、ここで彼はPhonyなことを嫌いながらも会話の上での社交辞令を欠かさない自分自身に気がついている。自分が自分の最も忌み嫌うものへと変わっていってしまうことを受け入れられず、苦悩している彼の心情が端的に表れるのがSallyへの言葉“'Did you ever fed up?' I said. 'I mean did you ever scared that everything was going to lousy unless you did something?'”(p. 117)である。彼はその焦りに対する解決方法として逃避行を思い付くが、拒絶するSallyへの言葉に時間の経過と共に大人になっていく自分、Phonyになっていく自分をはっきりと自覚し、それを何とか避けようとしている姿勢が伺える。 'We'll have oodles of time to do those things - all those things. I mean after you go to college and all, and if we should get married and all. There'll be oodles of marvelous places to go to. You're just -' HoldenがMr.Spencerとの会話中の退屈凌ぎとして疑問を抱いたのが公園のDucksが冬に取る行動についてである。彼がその答えを得ることはないが、逆にTaxi DriverからはFishの存在を説かれる。このDucksとFishの生態は、後にMr.Antoliniが言及する人間の行動に通じるものがある。 Holdenにとっては自分を含め子供たちが大人のPhonyな世界に取り込まれること、学校がPhonyな人間ばかりであること、親と退学の事実に直面することなどの問題が見過ごすことのできないほどに切迫している状態にある。それは公園の生物にとって水が凍る冬の到来に喩えることができ、そこでHoldenが注目したのが「その場からいなくなる」Ducksであった。避けることのできない問題に直面した時の対処方法として解釈すれば、人間の場合にも置き換えることができる。 I was wondering if it would be frozen over when I got home, and if it was, where did the ducks go. I was wondering where the ducks went when the lagoon got all icy and frozen over. I wondered if some guy came in a truck and took them away to a zoo or something. Or if they just flew away.(p. 11)“it would be frozen over when I got home”という表現は学校を追い出され、今まで流してきた勉強や大人になるという問題を目の前に突きつけられ、家に帰る頃にはついに八方塞りになるという現実を象徴しているかのようだ。しかしHoldenには池の水が凍ってしまったらどこに行けばいいのかというDucksの発想(逃げ)しかなく、どう対処すればいいのか、どこかに行った後の対処はどうするかといった発想がない。このことを鋭く的確に指摘しているのがMr.Antoliniの言葉であり、彼がHoldenに与えた精神分析学者の言葉である。 'This fall I think you're riding for - it's a special kind of fall, a horrible kind. ...The whole arrangement's designed for men who at some time or other in their lives, were looking for something their own environment couldn't supply them with. Or they thought their own environment couldn't supply them with. So they gave it up looking. They gave it up before they ever really even got started.'(p. 169)Mr.AntoliniにとってHoldenは「Phonyなことのない世界」という理想のために、高貴な死としての「学校や社会からの逸脱」を選ぼうとしていることになるのではないだろうか。Mr.Antoliniにとって、成熟した人間が「社会的成功や幸福」という理想のために卑小な生としての「子供の持つ純粋さを捨て社会に適応すること」を選ぶとすれば、それが「成熟した人間」と表現されるように、人間として生き行くための賢い術となるのだろう。しかし彼自身も若い頃にそれを一度は認識し感覚的理解と共にその道を選んだのか、もしくは同じ悩みを持った生徒を過去に見たことがあったのかはわからないが、現在の彼がHoldenに理解を示せる人間であることは明確である。 “Among other things, you'll find that you're not the first person who was ever confused and frightened and even sickened by human behavior.”(p. 170)Holdenと同じ悩みを持った先駆者達が他にもいたこと、それは特異なものではなく一過性のものであること、問題の原因が未成熟であることなどとMr.Antoliniが考えている点は、Mr.Spencerの視点と大きく異なっている。彼は“Life is a game that one plays according to the rules.”(p. 7)と表現した。Mr.Antoliniの言う「成熟した人間の行動をすること」、つまり社会的成功や幸福のために社会に適応することがMr.Spencerにとって人生のRulesであると解釈することができ、その場合Holdenは一過性の悩みを持つ少年ではなくRulesに従わない問題児ということになる。前記の通りMr.AntoliniはHoldenに理解を示し、無駄にする時間など残っていないほど事態は切迫しているが、まだ手遅れとはしていない。 “'I think that one of these days,' he said, 'you're going to have to find out where you want to go. And then you've got to start going there. But immediately. You can't afford to lose a minute. Not you.'”(p. 170)それに対しMr.SpencerはHoldenの将来への考慮も“'You will, boy. You will when it's too late.'”(p. 12)などという辛辣なもので、“I'm just going through a phase right now. Everybody goes through phases and all, don't they?' 'I don't know, boy. I don't know.'”(p. 13)といった会話にも表れているように、Holdenの悩みを理解あるいは認めることすらしていない。人生はRulesに従うか従わないかの二者択一であり、悩む余地などないというのがMr.Spencerの見解だと言うことができる。 Holdenへの理解度の違いを除けば、Mr.AntoliniとMr.Spencerの共通した見解は全てを受け入れて大人になれということであった。それをDucksとFishという象徴的な関係を使って言い換えれば、人間はFishであるということだろう。(Holdenが半分凍った公園の池でDucksを探した後に“Boy, I was still shivering like a bastard, and the back of my hair, even though I had my hunting hat on, was sort of full of little hunks of ice.”(p. 139)といった状態なのは彼が半分凍った池にいるFishであることを象徴的に表しているようで、この時既にDucksがいないことも興味深い。)二人の教師によって提示されたこの人間のあるべき姿、問題を受け入れもしくは従うという姿勢をFishの生態を通して単純かつ端的に伝えているのがTaxi DriverのHorwitzである。 “'The fish don't go no place. They stay right where they are, the fish. Right in the goddam lake.'” (p. 75)もう一人のTaxi Driverと同様に彼はDucksのことなど全く眼中にない。辛辣な現実と生活を送る彼らにとってDucksの発想はただのキレイごとや現実逃避としてしか映らないのかもしれないが、それはまたMr.Spencerの観点にも通じるところである。逃げることを考えるHoldenと受け入れることを考える教師のこの関係は、そのままDucksとFishの関係に置き換えることができる。 ここに、大人のPhonyな世界に子供が入り込んでいない状態が、象徴的に描かれている部分がある。 “The cars zoomed by, brakes screeched all over the place, his parents paid no attention to him, and he kept walking next to the curb and singing ' if a body catch a body coming through the rye.'”(p. 104)Holdenにとっては非常に心晴れるものであり、それまでの落ち込んでいた気持ちがスッと消える場面だ。周囲のしがらみと全く関わらないその愛らしい姿は、子供をPhonyな世界から隔絶する彼の理想に通じるものがある。しかしHoldenの言う理想がここまで非現実的でないことは、現実を理解しつつも受け入れることができないことに苦悩している博物館の場面で明確に表現されている。 “The best thing, though, in that museum was that everything always stayed right where they was. Nobody's move.”(p. 109)この“Certain things they should stay the way they are.”(p. 110)こそが、Holdenの望むことであり彼の生きていく上での理想である。それは自分を含め子供達をPhonyな世界に染めたくない、完全隔離はできなくとも何とかして今のまま守りたいという願いだ。Holdenにとってそれが不可能であることを感覚として理解すればこその葛藤であり、苦悩だったのだろう。その理想を叶える方法を見つけられない彼が現実とのギャップに苦しんでいることは、自分の夢をあまりに非現実的な“the catcher in the rye”(p. 156)としてしか思い描けないことからも読み取れる。自分の理想が実現不可能であり、その方法もまた非現実的であると自覚したHoldenにはもはや自分の間違いと現実をそのまま認めざるを得ない。 All the kids trying to grab for the gold ring, and so was old Phoebe, and I was sort of afraid she'd fall off the goddam horse, but I didn't say anything or do anything. The thing with kids is, if they want to grab for the gold ring, you have to let them do it, and not to say anything. If they fall off, they fall off, but it's bad if you say anything to them.(p. 190)ここで彼が現実を認めたのはPhonyなことを受け入れた結果ではなく、ただPhonyな世界の存在を認めて否定はしないという妥協の結果である。しかしこの諦めにも似た妥協は彼を現実への過度な拒絶反応から解き放ち、理想に新たな一面をもたらす。 HoldenがCarrouselでまわり続けるPhoebeを見ながら“I felt so damn happy all of a sudden, the way old Phoebe kept going around and around.”(p. 191)と感じたのは、彼の理想“Certain things they should stay the way they are.”( p. 110)という世界がPhoebeの中に存在することを感じ取った、つまり「Certain things they're staying the way they are.」と感じ取ったからではなかったろうか。子供とはかくあるものであり大人とはかくあるものであるという現状はそのまま「Certain things they're staying the way they are.」ということであり、二人の教師とTaxi Driverが受け入れていた現実であるが、 それをHoldenが受け入れることによって彼のいう理想と現実が通じた、つまり現実それ自体を「Certain things they're staying the way they are.」であると理解できたのだ。 現実に妥協した理想を受け入れたこと、現実そのままを受け入れたことは彼が大人になってしまったことを示唆する。しかしそれによってPhonyなことを受け入れたわけではないことは、彼が最終章で“I mean how do you know what you're going to do till you do it? The answer is, you don't.”(p. 192)と、何でも簡単に口にするPhonyな態度を否定することにも見て取れる。この態度を彼が取り続けることもまた、「Certain things they're staying the way they are.」ということにもなろう。 思春期に大人への不信感や嫌悪感を覚えることがあるが、自分がその世界へ取り込まれていくことは、気が付かなければ通り過ぎることのできた大人への過渡期である。それに気づいてしまったことによるHoldenの孤独な戦いは、貴重なものを失ってしまうことへの焦燥感と純粋さを無くし精神が汚れていくことへの嫌悪感に満ちている。彼に理解を示すMr.Antoliniと彼を問題児として扱うMr.Spencerの共通の見解、大人になること・現実を受け入れることは人間が生まれ育っていく過程に欠かせない宿命である。しかしある事柄に対して問題意識を持つこと、直面して思い悩むことは人間の精神的成長に欠かせないのもまた事実だ。Holdenがその過程を経て大人になったこと、その後に尚もPhonyなことに嫌悪感を抱き続けることは、他のPhonyな大人たちとは異なった価値のあることではないだろうか。 |
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