Seminar Paper 98
Rie Murase
First Created on January 9, 1999
Last revised on January 9, 1999
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「The Catcher in the Ryeにおける“fall”の概念」 “‘I’d just be the catcher in the rye and all.’” (p. 156)と答える。この言葉は、この小説の核をなす言葉であるが、もう一つこの小説で重要な役割を果たす言葉が存在する。 ホールデンの三日三晩の「自己探求」ともいえる悪夢の旅は、まさに“fall”という言葉に始まり、“fall”という言葉で終わっていると言えるだろう。この“fall”こそが主人公ホールデンが三日三晩悩まされ続けたものであり、“fall”の先にあるものを見つけることに彼の旅の意味と私は思うのである。 ホールデンが物語りの中で最初に“fall”するのは、自分を退学にしたペンシー高校に別れを告げ、これからの“phony”な者と戦う決意をした直後に起こってしまうのである。 “ It was icy as hell and I damn near fell down .” (p. 4)とあり、その後、 “ I felt like I was sort of disappearing .” (p. 4)と感じてしまうのである。この最初の“fell down”は、ホールデンのこれからの苦難の旅の幕開けをを暗示している。 ホールデンは、人が社会の中で生きて行く上で、世の中を円滑に生きて行く上でどうしても身に付けなければならない部分を“phony”と称して嫌い、逆にそれらがまだ備わっていない子供たちを、「綺麗なもの」としてそれらにひどく執着する。 しかし、そんなホールデンを理解してくれる人はおらず、ただ、社会のはみ出し者として扱う。そこでホールデンは自分を理解してくれる人を求めて旅に出るのだが、その人はなかなか現れてくれない。 ホールデンはまず最初に歴史の教師であるスペンサーの家を訪れるのだが、スペンサーに、 “ ‘ Life is a game, boy. Life is a game that one plays according to the rules.’ ” (p. 7)と、ホールデンがもっとも嫌いな、大人の世界の言葉を言われてしまう。以下宿舎での友人で恐ろしく汚いアクリー、自信過剰なストラドレーター、ホテルで出会った人々、ガールフレンドの一人であるサリー・ヘイズ、友人の一人カール・ルースらと次々接触するのだが、みなことごとくホールデンを救ってはくれなかった。そして、ついにホールデンは彼にとって一番純粋な存在である妹フィービーに救いを求めに行くのである。 しかしこのときまでにホールデンは、自分も“phony”な大人の世界に足を踏み入れかけてしまっていることを認識しかけているのである。なぜなら、それは彼が妹フィービーを探しに博物館に行ったとき、昔と何ら変わりのない博物館内を見てこう告白するからである。 “ The best thing though, in that museum was that everything always stayed right where it was .…The only thing that would be different would be you. Not that you’d be so much older or anything. …You’d be different , that ’s all. ” (p. 109)この言葉から、もう自分が“phony”な大人の世界に入りかけていることを悟っていることが伺える。そしてこのことはフィービーと再会を果たした後にも現れている。例えばフィービーが、 “ ‘Feel my forehead,’ ” (p. 158) と言ったのに対してホールデンのほうは、 “ I felt it. I didn’t feel anything, ” (p. 158) と思うのだが、フィービーには、 “ ‘I think it’s starting to, now.’ ” (p. 158) と答える.。もしフィービーの感じた熱というものが、子供にだけ感じられるものだとしたなら、それを感じることが出来なかったホールデンは大人になりかけている証拠である。加えて言えば、フィービーの問いに対して適当に答えるというホールデンの態度は明らかに大人が子供に対して取る“phony”な態度と言えよう。 ホールデンはこのフィービーと再会する場面で、この物語の中で一番重要な告白をする。それは、フィービーに好きなものを一つ挙げてみろといわれ、ホールデンは考えに考えた結果、ライ麦畑の捕手になりたいという。ライ麦畑の捕手とはつまり、子供たちがイノセントな世界であるライ麦畑から、“phony”な大人の世界に落ちてしまいそうになったとき、自分が、子供たちが落ちて行くのを阻止したい、子供たちを永遠にライ麦畑にとどめておきたいと言うものである。 しかしこのホールデンの願いは、前述したとおりホールデン自身が“phony”な世界に入りかけてしまっているのでは叶えられないものである。そこでホールデンは、最後の砦的存在であるアントリー二のところへ行くのである。彼が自分を救ってくれる最後の人物であると信じて。 しかし、そのアントリーにホールデンはこう言われてしまうのである。 “ ‘I have a feeling that you’re riding for some kind of a terrible, terrible fall.’ ” (p. 168)このアントリーの言葉は明らかに今ホールデンが陥っている状態を示しており、それに対して忠告をしている。ホールデンは“phony”な大人の世界を嫌悪するあまり社会に適応できなくなっている。そしてそれはホールデン自身よくわかっている。そのうえで敢えてライ麦畑の捕手になり、子供たちを永遠に純粋なものとしてとどめておきたいという実現不可能な夢を描くのであるが、前述したとおりホールデン自身も“phony”な大人の世界に入りかけている。ということはつまり、ホールデンは、子供たちの聖なる楽園であるライ麦畑にも、一般的な大人の社会にも適応できない至極中途半端な状態にいることになる。大人と子供の世界の狭間で中ずりの状態である.。 アントリー二が言った言葉から考えると、普通の青年、つまりちょうどホールデンぐらいの年の不安定な時期にいる青年は、じぶんのいる社会、または大人に対して不満を持ち、多少実現不可能ともとれる理想を抱くものである。しかし大半の若者たちは自分の存在する社会では、もしくは自分の存在する現実では、それらを実現することは不可能であると自然に理解し、その理想を追求する前に社会に適応できるよう成長し巣立って行くのである。しかし現在のホールデンは、大人の世界を嫌悪する気持ちと、純粋なものに執着する気持ちと、それとは相対するように自分が“phony”な世界に入りかけてしまっているという現実に苦しんでおり、大人の世界にもライ麦畑に落ち着くことができず、その間にある穴に落ちそうになってしまっている。そして加えてアントリー二が言及しているのは、その穴というのが底がなく、どこまでも落ちていっていってしまうと言っている。このことから、ホールデンが落ちそうになっている穴がどれだけ危険なものかが想像できるだろう。ホールデンを二度と再起不能にしてしまうだけの力を持つ穴であろう。 そしてアントリー二は続けてこういう。 “ ‘I can very clearly see you dying nobly, one way or another, for some very highly unworthy cause.’ ” (p. 169)続けて次の詩ををホールデンに送るのである。 “ The mark of the immature man is that he wants to die nobly for a cause, while the mark of the mature man is that he wants to live humbly for one.” (p. 169)この詩の意味はアントリー二が言った言葉と同じである。今のホールデンは、ライ麦畑という理想のために自分の将来を暗いものにしてしまっている。理想を捨て社会に合わせて生きて行くことは何も恥ずかしいことではなく、それが自然な大人になる過程なのである。 しかしホールデンのほうはというと、アントリー二が懸命にいま彼が陥っている状態に対して忠告を施しているにもかかわらず、必死にあくびをこらえようとしている。これに対してホールデンはこう言っている。 “ I kept trying not to yawn. It wasn’t that I was bored or anything ? I wasn’t ? but I was so damn sleepy all of a sudden. “ (p. 171)これからホールデンが肉体的にも精神的にもかなり疲れた状態にありまさしく“fall”寸前にあることが伺える。 しかし、まだホールデンの“fall”は続くのである。信頼していたアントリー二が、ホールデンの頭をなでるという同性愛者的行為をしたのである。驚いたホールデンはアントリー二の家を飛び出してしまう。だが仮にアントリーニが同性愛者だったとしても、この時代に同性愛者を描いた作者は同性愛に対して寛容な考えを持っていたはずである。と言うことは、ホールデンに対してやさしく接してくれ、また心配してくれたアントリーニを裏切るような行為に出たホールデンは明らかに“phony”である。このことにきずいたほーるでんはあとでアントリーニに対して自分がとってしまった行動について失礼であったと後悔している。 アントリーニのもとを飛び出してしまったホールデンは、まさしく瀕死の状態になる。まさに崖に立たされたホールデンは、妹フィービーに救いを求めに行く。その途中学校の階段で“Fuck you”という言葉を見つけこうつぶやく。 “ If you had a million years to do it in, you couldn’t rub out even half the ‘ Fuck you ‘ signs in the world. “ (p. 182)ホールデンは完全にライ麦畑の捕手になることは無理だと認識してしまっている。 そしてホールデンは自分がキャッチャーである限界について悟り始め、フィービーが回転木馬に乗っているのを眺めながら結論とも言える考えにたどり着くのである。 “ All the kids kept trying to grab for the gold ring, …The thing with kids is , if they want to grab for the gold ring, you have to let them do it, and not say anything. If they fall off, they fall off , but it’s bad if you say anything to them. ” (p. 190)ホールデンは、子供たちが大人の世界に巣立っていくのは自然なことで周りが何か言ってはいけない。もしも間違った方向に落ちてしまったとしても、それはしょうがない事で自分で解決するしかない、と言う答えに達したのである。そしてこれが同時にホールデンのアントリーに対する答えであると私は思う。またこの後ホールデンが幸せそうに微笑んでいることから、ライ麦畑が決してなくなるものではないということわかる。なぜなら、回転木馬というものは円を描いており今乗っている子供たちがいなくなってしまっても、また新たな子供たちが乗りにきてその営みは永遠に続くのである。 思春期と言う人生の中でもっとも果敢な時期を、ホールデンという人一倍感受性の強い少年が自分の理想と現実の自分や社会の中で葛藤し、孤独と戦いながら、自分の手で自分の生き方を見つけようとするところに、魅力があるのだろう。 |
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