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Seminar Paper 98


Fumika Nakano

First Created on January 9, 1999
Last revised on January 9, 1999

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The Catcher in the Ryeにおけるfallの概念について」
−子供の視点と大人の視点との違い−

J.D.Salinjerによって書かれたThe Catcher in the Ryeは、1950年代のアメ リカを舞台に、二十歳前の青年の代表ともいえる主人公ホールデンが様々な人間とそ の考えかたとに接しながら精神的な成長を遂げていく物語である。彼はもう子供では なく、かといって完全に大人の考え方や社会の仕組みを受け止められない、非常に不 安定な立場に置かれている。大人が現実に上手く対処するためにとる言動に反発し、 彼の言うところの「インチキな」部分を全く持たない純粋な存在である(とホールデ ンは思っているが)子供を理想とする一方で、大人の世界に足を踏み入れてみたい、 背伸びしてみたい、という感情も持ちあわせている。本文中で彼が自分は映画のよう なインチキなものは嫌いだと言っておきながら、また映画の真似をするのは好きだ、 と言っていることからも分かるように、大人と子供の部分を同時に持っているホール デンの言っていることは必ずしも一貫していない。

嘘を嫌いながらも自分は大嘘をついているのもこういった微妙な精神状態の現われで あると思う。こうして大人と子供という二つの世界の中間地点で不安定な状態にある ホールデンは、両者の間のギャップに苦しむことになる。このような状況はたいてい の人間が子供から大人になる過程で経験するものであり、周りの大人達からすると反 抗期ともとれるだろう。彼らの大部分は周囲や社会に対して反発し、それがひと段落 すると次第に現実を受け入れるようになる。そして自分が傷つかずに生きていけるよ うな道を見つけるのである。

傷つかずに生きていくためには多少の妥協が必要であり、ホールデンにとってはこの 妥協がインチキなものとして映っているのではないだろうか。そこで彼は理想を追求 するため、社会に順応するための妥協を拒否してゆき、そのなかで彼のもつ純粋さゆ えに傷ついてしまう。ホールデンの大人の世界に対する反抗は、現実に生きる我々が 普段は理性の力で抑圧してしまっているものであり、本当はだれもが心の奥底に潜ま せているものなのではないだろうか。だからこそ、自分たちが望んでいるのに実行で きない社会に対する無謀な戦いを続けるホールデンの姿が多くの人々によって支持さ れているのではないだろうか。

このように、ホールデンが世の中を相手に無謀な戦いをしていく中で、何度かfallと いう言葉が使われている。日本語に直すと「堕落」となり、完全なマイナスイメージ を持つ言葉であるが、果たして本当にそうなのだろうか。物語の後半部分でホールデ ンが身も心も傷ついて闇の中を手探りで進んでいるような状態の時に、fallという言 葉が登場する。ホールデンはこのfallという言葉をどのように捉えているのだろうか 。また彼の理解者でありまた大人の世界の人間であるアントリーニ先生は、ホールデ ンがfallしそうになっていると言っているが、彼の言うfallとはどういったものなの だろうか。主に二人のfallに対する考え方を考察しながら、この作品におけるfallの 概念について探っていこうと思う。

まず、ホールデンの考えるfallについて見ていきたい。ホールデンは前に述べたよう に年齢的にも精神的にも大人の世界と子供の世界の間に位置しており、大人のやるこ となすことがとにかく気に入らず、インチキなものに見えてしまう難しい年頃である 。自分の兄が地味だが良い小説を書くのをやめ、ハリウッドに行って一般受けしそう な映画の脚本を書いたり、それによって得た収入で派手な車を買って乗り回したりす るのを見て、兄がインチキな存在になってしまったと感じている。また、ペンシーで 唯一自分を理解してくれる存在だと思っていたスペンサー先生の"good luck"という言 葉に対しても、大人が社交辞令として使うインチキで無責任な言葉として反発を覚え ている。いわば身内である二人に対してさえこのように感じているのだから、ニュー ヨークでであうピアニストのァーニーや歌手、役者のたぐいはもう完全に自分の才能 をひけらかすかんちがいな大人の代表だと思っている。ホールデンの反発は大人だけ でなく友達のストラドレ−タ−やアクリーといった癖のある友達にも向けられる。自 分の言しか考えず、外見と女の子をデートに誘うことばかり気にしているストラドレ ーターもインチキだし、暗くて自分勝手なアクリーも気に入らない。学校にやってく る成功した卒業生達がどのようにしたら自分のように成功できるのかを言って聞かせ るのも彼にとってはこのうえなく馬鹿げたことである。うわべや世間体を気にして社 会に上手く溶け込み、自分自身の考え方や感情をうまくコントロールできてしまって いることに自信を持っているような彼らを、ホールデンは「堕落している」と感じて いるようである。

一方ホールデンの理想とする純粋な子供達はどうだろうか。彼が子供の中でも認め ているのは妹のフィービーと死んでしまった弟のアリーである。フィービーは子供で ありながら自分の考えを一番理解してくれる、少なくとも無視しないで聞いてくれる 心のよりどころのような存在である。フィービーの行動がホールデンにとってはかわ いくて仕方が無いという感じで、汚れの無い子供の象徴として彼女を見ているが、そ のかたわら彼女によって助けられているというふうにも受け取れる。ホールデンが青 年として誰もが一度は感じる社会への反発を抱いているのだが、他の人達にとってみ れば彼の考えはあまりにも極端であり、気持ちは少しは分かっても完全に理解してや ることは難しい。でも子供であるフィービーにとっては大人の社会のルールなど関係 なく、兄を一人の人間として思いやってやることができている。弟のアリーの方はホ ールデン曰く天才であり、普通の子供とは異なった感性を持っていたことがわかる。 おそらくホールデンと一番感性が似ていたのがこのアリーであり、彼が成長せずに死 んでしまったことでホールデンの中ではアリーはいつまでも大人の世界に染まること の無い永遠の子供、理想の存在として神性化されているのだろう。アリーが成長して ホールデンと同じくらいの年齢に達していたらもしかしてホールデンと同じような壁 にぶつかっていたかもしれない。この二人の小さな理解者に対しては、ホールデンは 素直に自分の考えを見せている。フィービーに何になりたいのかと詰め寄られた時に 、彼はライ麦畑のキャッチャーになって、そこから落ちそうになる子供達を捕まえて やりたいといっている。フィービーでさえ、ホールデンにそんな非現実的なことを考 えないで、きちんと学校に行き、何かにならなければいけないという態度を示してい るが、ホールデンはとにかく誰かにこの考えを聞いて欲しかっただけであり、少なく とも耳を傾けてくれるフィービーの存在によって救われている。本文を引用し、この 部分について考えていきたい。
'Anyway, I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody's around -nobody big, I mean- except me. And I'm standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch anybody if they start to go over the cliff-I mean if they're running and they don't look where they're going I have to come out from some where and catch them. That's all I'd do all day. I'd just be the catcher in the rye and all. I know it's crazy, but that's the only thing I'd really like to be. I know it's crazy.' (p.158)
この部分から考えると、ホールデン自身もこの考えが気違いじめていると認めてい るようだが、やはり何だかんだと文句をつけて大人になり切れない子供の状態といっ た感じも否めない。ホールデンは子供の世界をライ麦畑に置き換えて言っていること がわかる。そしてそこにいる大人は自分だけ、つまり自分だけでも子供のことを理解 してやろうという気持ちが読み取れる。問題なのは、このライ麦畑の状態である。た くさんの子供達が遊び回っていて、その周りには恐ろしい断崖がある。彼らが遊ぶの に夢中になっているとうっかりその断崖から落ちてしまうことになる。ホールデンは そうならないように自分が落ちそうになる子供達を捕まえるキャッチャーになりたい と思っている。出は落ちる、"fall"するとはこの場合どういうことなのだろうか。ラ イ麦畑から落ちるということは、子供の世界からいなくなるということである。子供 の世界から次に行くところは大人の世界であると考えられる。それをホールデンは防 ぐためにキャッチャーになりたいと考えているのではないだろうか。大人の世界はホ ールデンにとって悪であり、インチキであり、そしてそういう世界に純粋な子供達を 落とさないように見張っている役目を果たしたいというのがホールデンの夢なのでは ないだろうか。そうすると、ホールデンにとってのfallとは子供の世界から出て大人 の世界に入る、前に述べたようなホールデンが嫌っているようなインチキ人間になる ことを意味していると考えられる。

しかし、もちろん大人からすると自分たちがfallした存在であるという自覚などな い。逆にライ麦畑にいようとするホールデンは彼らにとって理解に苦しむ存在である 。そこで大人の立場からfallについてふれている、アントリーニ先生の考えるfallに ついて見ていきたいと思う。アントリーニ先生のところにやって来た時のホールデン ノ状態は疲れ果て、精神的にも誰も理解してくれないことに対しての孤独感とこれか ら自分がどうなってしまうのかわからない不安感でぼろぼろになっている。また、課 程からも学校からも見放された状態で、自分ではどこか自分のことを誰も知らないよ うな田舎へ行って、他人との関係を絶つことによってライ麦畑から完全に落ちてしま うことから逃れようとしている。そういう彼に対してのアントリーニ先生の言葉から 、先生のいうfallとはどんなものかを考えてみたい。
T. 'I have a feeling that you're riding for some kind of a terrible, terrible fall. But I don' honestly know what kind...Are you listening to me?' (p.168)

U. 'This fall I think you're riding for - it's a special kind of fall, a horrible kind. The man falling isn't permitted to feel or hear himself hit bottom. He just keeps falling and falling. The whole arrengement's designed for men who, at some time or other in their lives, were looking for something their own environment couldn't supply them with. Or they thought their own environment couldn't supply them with. So they gave up looking. They gave it up before they ever really even got started. You follow me?' (p.169)
T.の部分を見てみると、アントリーニ先生はホールデンの今の状況が一種のfallの 状態にあると考えている事がわかる。ただfallにもいくつか種類があって、教養のな い人間になってしまうというものか、また成功している人に対してけちばかりつける ようになってしまうようなものか、あるいはもっとほかの何かなのかは先生もわかっ ていない。しかしホールデンの今の状態に対して、本人よりも先生の方が危機感を強 く感じていることは確かである。U.を見てみると、先生のいうホールデンのfallとい うのは「その環境においては与えられるはずのないものを捜し求めようとしたがあき らめてしまうこと」であると書かれている。これだとホールデン状況に当てはまるよ うな気がする。ホールデンが捜し求めているのは子供の世界のインチキのない純粋さ であり、この理想は現実の社会の中ではとうてい通用しないものである。その社会に 対して戦いを挑んでいたホールデンだが、先に述べたようにどこか自分のことを誰も 知らない田舎にいって暮らしたいと完全に逃げの体制に入っている。このfallとはこ うして高い理想のために世の中に順応して生きていくことを放棄し、普通の人間の取 るようなレールからはずれていってしまうことを意味しているのではないだろうか。 レールからはずれるということはホールデンのように隠居のような生活を送ることや 、ジェームス・キャスルという少年のように自分の主張を貫くために死を選ぶといっ たように、結局は自分を傷つけることである。落ちていく人間は自分が落ちていると いう感覚はなく、どこまで落ちるか底を感じることができないとあるが、ホールデン はまさに今落ちている状態、キャスルの方はすでに底まで落ちてしまったと考えるこ とができないだろうか。

ここまででホールデンとアントリーニ先生の二人の立場からfallについて考えてき たがこの二つを総合したものがこの作品のfallについての観念なのではないかと思う 。これを考えるには子供の世界であるライ麦畑と、大人の世界との位置関係が重要に なってくる。ライ麦畑は広場のような感じで、まわりは危険な断崖がある。その下に 大人の世界が存在しており、ライ麦畑との間には段差と深い溝がある。子供が大人に なる時、この溝と段差とをうまく飛び降りて大人の世界に着地しなければならない。 ホールデンもまさしくいまこの段差を飛び越えようとしているのではないかと思う。 ほとんどの人間は少し躊躇はするものの、無事にこの段差と溝を飛び越えて怪我する こともなく大人の世界に着地することができるが、ホールデンの場合は「ライ麦畑」 での理想を求め続けて積極的にこの溝を越えようとしていないうえ、年齢的にはもう 大人の世界の方に移らなければならないため、 どっちつかずの宙ぶらりんな状態にあるといえるのではないだろうか。一方、ジェー ムス・キャスルの方はかたくなに自分の考えを貫こうとしたためこの溝を越えること ができずにfallしてしまったのではないだろうか。こうしてみると、ライ麦畑から大 人の世界に飛び移るには段差を越えて多少のfallに耐えなければならないし、これを 拒否した場合には、二つの瀬かの間にある深い溝にfallしていってしまうと考えられ る。ホールデンが言うところのfallは二つの世界の段差を飛び降りること、すなはち 大人になるということで、彼にはこのfallが自分をインチキなものへと変えてしまう のではという嫌悪感がある。また アントリーニ先生のいうfallとは二つの世界の間の溝に落ちてしまうことで、結果的 にその人間にとって肉体的、あるいは精神的な死をもたらすことになるおそろしい堕 落のことである。これらのfallとは要するに、人間が子供から大人に成長する時に何 らかの形で経験しなければならない堕落のことであると思う。社会に対応して生きる ためにうそやお金の稼ぎ方を身につけることも、子供の純粋さを失うという点でfall であるし、そういった生きていくための妥協を一切受けつけずに理想を追求したまま 体だけ大人になろうとして傷つくこともまたfallである。人間はみなこのfallを経験 しなければ大人として生きていくことができないのではないだろうか。

最後のフィービーがメリーゴーランドに乗っているのをホールデンが見つめる場面 で、彼はこのことに気づいたのではないかと思う。金の輪を取ろうとする子供達をみ て、危なっかしいと思いながらも、「落ちるかもしれないが、口を出してはいけない 」と、今までのようにfallを完全な堕落のようにとらえ、何とか子供をfallから救い たいという考えを変えている。ライ麦畑からfallすることによって大人になるという こと、そのときに自分のようにうまく着地できずに怪我をし、痛い思いをする場合も あるかもしれないが、それは人間が成長していく上で仕方のないことなのだと考える ようになったのかもしれない。そしてこれが、The Catcher in the Ryeにおけ るfallの観念なのではないかと思う。

 


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