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Seminar Paper 98


Yukiko Nara

First Created on January 9, 1999
Last revised on January 9, 1999

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ホールデンと子供たちについて

The Catcher in the Rye( J.D.Salinger,1951)を読み終えて、私がもう一度考え直してみたいと思った事がある。それは、「子供」という存在であり、この話の主人公ホールデンの性格や彼自身の子供に対する考え方や実際にホールデンが出会う子供たちがどのように彼の心の中に入り込み、ホールデンの行動に影響を与えて行くのか、また、「子供」には「大人」と異なったどのような特徴があるのかを考えながら「子供」が「大人」へと成長することがこの作品中でいかなる意味をなしているかについて考えていこうと思う。

 まず、ホールデンの人物像を見ていく事にする。ホールデン・コールフィールドは17歳であり西部の病院で療養中であるが、文中では彼が16歳の時のクリスマスシーズン中に体験したほんの三日間の出来事をまるまる一冊にわたりホールデンが回想する形で告白している。その始まりは成績不良の為に校長から退学を言い渡された後、サクソン・ホールとのフットボールの試合の見物もせずに学校近くのトムセンヒルをさまようところからである。

 成績不良とはいえ、ホールデンは英語、つまり国語は得意である。四章では寮のルームメートのストラドレーターに作文を書くように頼まれたり、二十四章ではかつての恩師で英語教師のアントリーニ先生がホールデンを「若き作文の天才」と呼びかけている所からも彼の作文能力の高さを見てとることが出来る。それにもかかわらず、人と人との会話となると十代に多い語彙の貧弱さが見られる。ニ章で彼自身が「十六歳という年の割に時々十三歳位なことをやる」と述べている箇所からもそれに通じるところがある。大人からから見れば十六歳も十分子供であると言えるのだが、考えてみれば十三歳の中学生と十六歳の高校生とでは年齢の差は短いながらも大きな違いがあるだろう。単に十六歳で想像されるのはその身体的な若さと精神的な幼さと言えるとすれば、その想像に添うことなくホールデンの頭部の右側は白髪で一杯だったり、飲酒や喫煙の習慣が身についているので彼が幾分大人びた不良少年のように見えてしまう。その一方で感受性が人一倍強く、ニ章でスペンサー先生宅に別れの挨拶に立ち寄り、その別れ際に先生に言われた「幸運を祈るよ」という言葉に残忍性を感じたり,!"N@@8%9 トラドレーターやアクリーからサーマー校長、ペンシー校の卒業生で葬儀屋のオッセンバーガー、寮を去ってから行きつくホテルの宿泊客とラヴェンダールームにいた女三人組やアーニーというピアニストとその演奏を聴く観客達やその他のインチキ(“Phony”)な人々からなる「インチキ」な世界との葛藤に悩まされ、その結果として彼は日ごろ「気が滅入った」などと繰り返し言うのである。

 それらのインチキなものに抗議しつつも、それらに対抗しうる力や手段を十六歳のホールデンは持ち合わせていないので、「精神的危機に瀕するや直ぐ様、逞しい想像力を刺激してふざけちらし、繰り返しやってくる激しい絶望と憂鬱から巧みに脱出する」(曾根田憲三:『今日のアメリカ小説』(開文社出版, 1991),p. 71)ということになる。例を挙げると、十四章でエレベーターボーイのモーリスに騙され痛めつけられたホールデンは許しを請うモーリスの腹に容赦なく弾丸を撃ち込む自分の姿を想像したり、二十五章では小学校の壁に卑猥な落書きを発見すると次の ゛I kept picturig myself catching him at it, and how I'd smash his head on the stone steps till he was good and goddam dead and bloody."(p. 181)のように空想の中で「インチキ」なものや「いやらしいもの」に対して罰を下している。

 そのようにしながら、ホールデンは子供から大人への「ひとつの時期を通り過ぎようとしているんです」とスペンサー先生に言いつつも実際は将来の不安には打ち勝つことが出来ないでいる。度々彼が気にかけているセントラルパークにある池のアヒルにその不安が実に明確に現れている。このアヒルが冬になって池が凍ってしまったら何処へ行くのだろうかいうホールデンの心配の根底にある物こそがホールデン自身の行く末なのである。また、彼のさまざまな人に頻繁に電話をかけようとする行為は、人との意思疎通を図ることで彼の孤独を癒そうとするものである。それほど孤独である理由とは何であろうか。彼の家族は彼を除いて弟のアリーと妹のフィービー、兄のD.Bと父親と母親からなるが、これらははホールデンが日々コンタクトを取ろうとする頻度の多い順に挙げたものである。それにも関わらず弟のアリーはすでに白血病で亡くなっている。アリーは家で一番頭が良くて一番言い人間であった大好きな二つ年下の弟である。作品中で親との会話はなく会うこともない。父親は弁護士で裕福であるが、ホールデンにとってはそんな仕事もインチキのにおいの漂う魅力のないぁw)b$N$G$"$j!"Jl 親はアリーが死んでからというもの元気がなく神経質になっている状態で、息子ホールデンへの絆の深さや愛情といったものがあまりはっきりとは見えてこないし、寮住まいとは言え親子のコミュニケーションが乏しいように見受けられる。作家である兄のD.Bは好きなのだが彼はハリウッドにいて゛prostitute"になってしまったと残念がっている。そんな中、ホールデンの大好きな妹フィービーは小学四年生でとても無邪気であると同時に母親のようにホールデンの心を暖かく包み込んでくれる愛情深さをも兼ね備えた子供である。

 アリーやフィービーのようにホールデンの好きな人たちを見ていくと、他には幼なじみのジェーン・ギャラガーや小さなスナック・バーで出会った二人の尼さん達や自殺したジェームズ・キャッスルやロバート・バーンズの歌を歌う六歳位の男の子やスケートの金具をしめている女の子などがいる。これらの人々の共通点をひとつ挙げるとすればそれはホールデンが批判する「インチキ」から遠くにいて、イノセントに近いという事である。そして、その中でも最もイノセントな存在として直ぐにあげられるのが「子供」なのである。

 それではホールデンは子供をどのように見ているのだろうか。男の子がロバート・バーンズの歌を歌っている事や子供がいつも「友達に会わなきゃならない」と言う事、そしてフィービーが自分のミドルネームを新しく付け替えたり「何か熱いものを想像して集中すれば体温を上昇できる」と信じていることなどがホールデンは好きなわけであるが、これらは曖昧なものであると思われてしまうかもしれない。二十二章でフィービーに一つでも好きなものを言ってみろといわれて浮かんだのが「くたびれた古い麦わらの籠に金を集めて歩いていた二人の尼さん達だけ」であったり、「アリーと話をすること」とあるように一見すると聞き手には全く曖昧で何の意味もなさないようにも見える。しかし、一見何の意味も持たないような事柄も裏を返せば実に明確にホールデンの子供観を物語っている。つまり、ホールデンにとってはそれらは現実社会の何物よりもとても大切なことなのである。そしてどの子供たちも無邪気で純粋で、大人達の持つ既成の価値観や概念、無神経、偽善、欺瞞などの心と行動の矛盾から来るインチキなものやいやらしいものなどを持っていてはならないし、持たせては,$J$i$J いのであるという事なのである。

 ホールデンはそのように"phony"を批判しつつも一方で単にイノセントな少年とはいえない。というのは、彼自身が大人の世界に半ば入りかけているからである。従って彼の中には子供の夢と大人の現実の両方が存在している。前に彼の頭の右半分が白髪で一杯であると言ったがそれはホールデンが精神的に大人の部分を持つことを指し示しているのではなかろうか。その状態をホールデンは自分で理解しているところがある。三章で「僕は最もひどい嘘つきなんだ」とホールデンは言っている。そして十六章で子供達がシーソーにのって遊んでいる場面では、子供から見れば彼も大人同然だという事に気付かされ、彼も子供側ではなく大人側にいるという事を一層強く認めさせられることになる。それでも気が滅入りながらもホールデンの心は子供の夢の中に浸っている。気が滅入った時にやく彼はニューヨークで買った赤いハンチング帽を被っている。この帽子についてホールデンは三章で,゛This is a people hunting hat,I said. I shoot people in this hat."(p 19)と言っている。この「人撃ち帽」を被ることからインチキなことをする大人社会への宣戦布告の姿勢を読み取ることが出来る。また、この「赤いハンチング帽」の「赤」という色に注目してみると、アリーの真っ赤な髪(五章)、ジェーンの涙がこぼれ落ちたチェッカーの赤い桝目、彼女の着ていた赤と白のセーターなどが思い浮かぶが、赤が暗示するものは多いと思うがおそらく革命・反逆や危険信号、怒りなどがそれに当たるであろう。一方で、白は保守や純潔、無邪気さを、フィービーが着ていたパジャマやコートの青は平和や倫理的厳格さを表しているように思われる。十三章でまだあどけない子供のような売春婦サリーが身につけていたドレスの色である緑を見てホールデンは気が滅入っている。緑は自然色であり人を和ませる色でもあるがその象徴は「若さ」や「未熟さ」であるのでホールデンの気の滅入りもそれに関係がありそうである。

 このようにホールデンと彼をとりまく子供たちや仲間たちを見てきたが、ホールデンの良き理解者はやはりアントリーニ先生であろう。深夜の訪問にもかかわらず彼を快く迎え入れてくれた先生をホールデンは二十三章で「これまでに接した中で一番いい先生だった」と言っている。先生は窓から飛び降りた子(ジェームズ・キャッスル)を最後に抱き上げ、自分の上着を脱いでその子の身体にかけて診療所までずっと抱いて行き、上着が血だらけになったが気にもかけながったのである。アントリーニ先生のこの行為はホールデンに尊敬の念を抱かせるものであり、インチキではない大人として、先生がホールデン側にいるということを納得させるものでもある。アントリーニ先生はホールデンの精神的危機に気付き、「君は今、恐ろしい淵に向かって進んでいるような気がする」とか「未熟な人間の特徴は主義の為に高貴な死を選ぼうとする」というウイルヘルム・シュテーケルの言葉を引用してホールデンに言うが、その後にホールデンが眠っている間にアントリーニ先生がいつのまにか枕元に座りホールデンの髪を撫でているのに仰天したホールデンは口実を作り外へ出てしまう。一番信,Mj$7$F いる先生が性倒錯者ではないかと不安を抱く一方で、ひょっとしたら自分の方が誤解していたのではないかとまるで先生を弁護するかのように心配もしているホールデンではあるが、結局は先生から救いを得られず街を歩くと、通りを渡ろうとするたびに身体が下へ下へと沈んで行き、消えてしまいそうな気がしてアリーに助けを求めて救ってもらうような状態なのである。このような度重なる彼の危機は彼が心身ともに疲れ果て、自分の将来や社会の「不透明さ」というよりもむしろ「暗闇」の中で落下しつつあることを意味しているように思われる。はっきりとした道標を持っていないほうが多いのが十六歳という年齢かもしれないが、実際にフィービーに将来一体何がしたいのか聞かれても、ホールデンには将来どういう職業に就きたいという願望もなく、あるのは二十二章に出てくる次のような願望なのである。

 “Anyway, I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all . Thousands of little kids, and nobody's around − nobody big, I mean −except me. And I'm standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do , I have to catch everybody if they start to go over the cliff − I mean if they're running and they don't look where they're going I have to come out from somewhere and catch them. That's all I'd do all day. I'd just be the catcher in the rye and all. I know it's crazy, but that's the only thing I'd really like to be. I know it's crazy.”(p. 156)
「ライ麦畑の捕手かなんかになりたい」というホールデンの願いは強い。野球で言う「捕手」とは、ホームベースから全体を見渡すことの出来る唯一の守りの要である。また、ハンチング帽を後ろに被るという行為はおそらく野球帽を後ろに被るキャッチャーの姿と重なる。彼の夢は「ライ麦畑の捕手」で押さない子供たちを世間の悪から守る救済者になることであるが、本当に救われるべきなのはホールデン自身ではなかろうか。しかしながらスペンサー先生もアントリーニ先生も、さらにはホールデンの父親さえも彼の救済者とはなり得なかったのである。しかし逆に考えてみればこれまで子供たちこそがホールデンを救ってくれていたのではなかろうか。

 ライ麦畑と同じく十六章で博物館の展示品が同じ位置にあって何ひとつ変わらずあるように、いつまでも今のままにしておきたいものはガラスケースにいれてそっとしておきたいと思っているホールデンだが、それは残念ながら不可能であるということも理解している。つまり、ホールデンは子供が遊んでいて崖から落ちないように捕まえて見守ってやりたいという気持ちは強いが、子供が大人へと成長していきインチキな世界へと堕落していくことを知りつつもそれを止めてやることは出来ないとわかっている。それゆえ自分は“catcher”にはなれないという事も分かっている。それでも、フィービーが赤いハンチング帽をホールデンに返した後、彼女が回転木馬に乗り、青いオーバーをきてぐるぐる回っている姿を見てホールデンは突然幸福な気持ちに浸るというのはホールデンは相変わらず子供たちを見守り続けられるのだという安心感を彼が持ったからであろう。要するに、子供は子供のままでいることは出来ない。ホールデンもその一人である。しかし、そこにいる子供たちは子供のままでなくなっても、回転木馬がぐるぐる回り続けるように、「ライ麦畑」には再び新たな子供w)!$?$A$,F~$C$F 来て遊びの輪に加わってゆくのであるから「ライ麦畑」はなくならないでホールデンは捕手でいられるという事に彼は気付き、幸福感に浸るのである。

 このようにホールデンの夢はなくならずに済んだ訳であるが、「ライ麦畑」の「崖」から落ちるとはどのようなことを意味するかについて考えてみると、無邪気で純粋な子供たちが成長しインチキで歪められた世界へと堕ちてゆくということを意味し、この事をこのテーマでは「大人になる」と捉えており、身体的かつ精神的に大人へと成長することが純粋さや無邪気さや素朴さの喪失を指しているように思われる。



参考文献

曾根田憲三:『今日のアメリカ小説:暗澹たる社会のなかで』(開文社出版,1991)
刈田元司,渥美昭夫:『サリンジャー選集2:若者たち』(荒地出版社,1968)
繁尾久,武田勝彦共著:『サリンジャーの文学』(文建書房,1970)     
繁尾久,佐藤アヤ子共編:『J.D.サリンジャー文学の研究』(東京白川書院,1983)
Shogakukan Random House ENGLISH-JAPANESE Dictionary, 1973.

 


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