Seminar Paper 98
Kaori Okizono
First Created on January 9, 1999
Last revised on January 9, 1999
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「ホールデンと赤いハンチング帽」 まるでわたしたちが過去を回想し、人に話して聞かせるのと同じように、彼の話も個々のエピソ−ド間のつながりはそれほど強くない。しかし、全てのエピソ−ドに共通するあるスタイルがあり、自分の感情を第一に考え、世の中と妥協することはあっても、自分の誤りを決して認めることはないホ−ルデンが、はっきりと浮かび上がる。自分の意志が相手に伝わることをほとんど期待せず、真意とは全く反対のことも、時には言わなければならないことを理解しているホ−ルデンは、コミュニケ−ションの不可能性を当然のこととして受け入れている。 彼の反抗のスタイルについては、多くの批評の中で語られている。 この点に関してユニ−クな指摘を行なっている一人がイ−ハブ・ハッサンである。彼は<典型的なドン・キホ−テ的身振り>をホ−ルデンに当てはめている。ハッサンによれば、ホ−ルデンは真実を追究しているというより虚偽から逃避しているのであって、世の中のインチキなものを自分自身の中にあるそれと同様に嫌悪しているというのである。言い換えれば、ホ−ルデンは社会に対して反抗している訳ではなく、逃避しているにすぎない、アンチ・ヒ−ロ−というよりはユ−トピアを夢見る夢想家ということになる。(森川展男『サリンジャ−』(中公新書、1998), p. 81) 小説の始まりから、ホ−ルデンは丘の上に一人立って、フットボ−ルの試合を眺めている。自分以外はみんなそこにいるのに、彼一人だけがゲ−ムに参加していない。このことが何を意味しているか、それはスペンサ−先生の家を訪ね、先生と話をする、その内容からうかがい知ることができる。スペンサ−先生はホ−ルデンに尋ねていた。 'What'd he say to you?'校長先生とスペンサ−先生は、共に「人生はゲ−ムだ」と言い切っている。ここから、この物語のはじめから、ホ−ルデンは人生を放棄している、と考えられる。しかもホ−ルデンは、ゲ−ムなんかくそくらえ、という態度でいる。 サクソン・ヒル対ペンシ−のフットボ−ルの試合を丘の上の大砲の横に立って見下ろし(その大砲は"Revolutionary War"のころのものなので、 弾はでない)人生はゲ−ムである、ということは人生において人は勝者と敗者に分けられるのだ、とする大人たちにむかって弾丸のでない大砲で挑もうとしていたホ−ルデンは、ここでさらにはっきりとインチキな大人たちにむかって宣戦布告した、とも考えられる。 では、ホ−ルデンがこの三日間、共に旅を続けた赤いハンチング帽は、いったい何を象徴しているのだろう。第三章、ホ−ルデンが寮の部屋に戻ったところでこの帽子は登場する。 "I took off my coat and my tie and unbuttoned my shirt collar,and then I put on this hat that I'd bought in New York that morning.It was this red hunting hat,with one of those very,very long peaks.I saw it in the window of this sports store when we got out of the subway,just after I noticed I'd lost all the goddam foils.It only cost me a buck.The way I wore it,I swung the old peak way around to the back-very corny,I'll admit,but I liked it that way.I looked good in it that way."(p.15)とあるように、この物語のタイトル、"The Catcher"を彷彿とさせる帽子のかぶり方を好む、と言っている。これが自分に似合っているのだ、と。野球のキャッチャ−のことを考えてみると、ゲ−ム中、チ−ムのメンバ−のなかで唯一違った方向を向いている、ということから、ホ−ルデンが人とは違った物の見方をする人物である、ということも推察できる。また、フェンシングのチ−ムのマネ−ジャ−をしていた(マネ−ジャ−も、試合に参加しない存在である)ホ−ルデンがフェンシングの剣やらの道具をなくしてしまったすぐ後にキャッチャ−の帽子を手に入れた、ということはゲ−ム=人生を放棄したことを表している、「ライ麦畑のキャッチャ−」としてゲ−ム=人生の外側にたつことの目印であるとは言えないだろうか。 人生に参加しない人間、ということはつまり、死んだ人間である、ということになる。ホ−ルデンが死んだ弟アリ−のことをいちばん好きだ、という場面があるが、鹿射ち帽がなぜ赤い色なのだろうかと考えたときに、ホ−ルデンの弟アリ−の赤い髪が連想される。深い愛情と絆で結ばれていた、アリ−と一体化したい、または永遠に変わることなく子供のままでいられるアリ−にたいする憧れといったようなホ−ルデンの気持ちがあるのではないだろうかとも思える。 アリ−の赤毛は、本文では "I'll tell you what kind of red hair he had. I started playing golf when I was only ten years old. I remember once, the summer I was around twelve, teeing off and all,and having a hunch that if I turned around all of a sudden, I'd see Allie. So I did, and sure enough, he was sitting on his bike outside the fence-there was this fence that went all around the course-and he was sitting there, about a hundred and fifty yards behind me, watching me tee off. That's the kind of red hair he had." (p. 33)と紹介されている。ここからわかるのは、なにか神秘的なまでの兄弟の絆である。そして赤い毛とゴルフ場のフェンスの外、赤い頭とゲ−ムのフィ−ルドの外、赤い帽子とライ麦畑の崖・・・といったふうに、二人の姿が重なるような気がする。「ライ麦畑のキャッチャ−になる」というホ−ルデンの理想は、アリ−に成り代わることとイコ−ルになるような気さえしてくる。 そして、ホ−ルデンが大切に持っている、野球のミットには、ゲ−ムの最中にバッタ−のいない暇な時に読めるように、緑のインクでアリ−が詩を書いていた。ゲ−ムに積極的に参加していないという点で、ホ−ルデンとの共通性を、そしてアリ−と「キャッチャ−」とを結びつける役割をこのミットは果たしている。 ホ−ルデンが「ライ麦畑のキャッチャ−」になりたい、ということを話したのは、妹のフィ−ビ−との会話のなかで、である。 "Anyway,I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all.Thousands of little kids,and nobody's around -nobody big,I mean- except me.And I'm standing on the edge of some crazy cliff.What I have to do,I have to catch everybody if they start to go over the cliff -I mean if they're going I have to come out from somewhere and catch them.That's all I'd do all day.I'd just be the catcher in the rye and all.I know it's crazy,but that's the only thing I'd really like to be.I know it's crazy."(p. 156)ここでもやはりゲ−ムに参加せず、周りで見ているだけ。ホ−ルデンは崖から落ちる子供をつかまえる、というが、それは何を意味するのか。ライ麦畑は子供たちの世界、そしてその境界線である崖を落ちることは、大人になること。子供たちの純粋さ、イノセンスを守り、インチキな大人になるのを防ごうとホ−ルデンは考える。 私の印象に残っている出来事のなかのひとつに、十三、十四章に登場する売春婦サニ−のエピソ−ドがある。ホ−ルデンは彼女を部屋に呼ぶが何もせず、ホ−ルデンのイノセンス(というか童貞)は守られる。その後に無理矢理十ドル巻き上げられる。その次の十五章には二人の修道女が登場し、ホ−ルデンは彼女たちに強引に十ドル献金する。この二つは、ホ−ルデンの考えをはっきりと表している。一方で強制的に十ドル取られ、一方で十ドルを喜んで差し出す、これはホ−ルデンのイノセンスに対する姿勢であると思われる。 そして、イノセンスを守るためにホ−ルデンがすることといえば、「何もしない」ことだ。かつてのガ−ルフレンド、ジェ−ンにあいさつにいかない、電話もしない。きれいに雪の積もった車にも、消火栓にも、雪の玉を投げなかった。なぜか。車や消火栓が「すごく白くてナイス」だったからだ。同じように、ホ−ルデンにとってジェ−ンは「すごく白くてナイス」な、汚れを知らないものであった。イノセンスは、手出しをしないことによって守られる、とホ−ルデンは考え、手出しどころか接触することさえもしない。 博物館のように、いつも同じ状態でものが保存され、変化のない空間が好きだ、とホ−ルデンは言っているが、いちばん変化してほしくないものはものではなく、彼にとってとても大切なジェ−ンやフィ−ビ−、子供たちのイノセンスである。博物館の展示物のように、ガラスケ−スにいれて、誰の手にも触れないようにすること、それだけが永遠にイノセンスを保存する方法なのではないだろうか。 しかし、ホ−ルデンはメトロポリタン美術館でも、フィ−ビ−の小学校でも"Fuck you"という落書きを発見し、むきになって消そうとする。子供たちはホ−ルデンの予想以上に知識と経験がある、ということだ。そしてナイフで削った落書きはけして消えない、消すことのできない落書きもあるし、世界中の落書きを消してまわることなど不可能だ、とわかってくる。 赤い鹿射ち帽も、二十三章でフィ−ビ−にあげてしまう。そのときにホ−ルデンの「ライ麦畑のキャッチャ−になりたい」という気持ちは変わってきている、と考えられる。なぜなら彼は、 "It was a helluva lot easier getting out of the house than it was getting in,for some reason.For one thing,I didn't give much of a damn any more if they caught me.I really didn't.I figured if they caught me,they caught me.I almost wished they did,in a way."(p. 162)と言っているからだ。ここから彼は、「つかまえる者」から「つかまえられる者」へと変わっている。ということは、崖から落っこちる者でもある。だから、このようなことを言うホ−ルデンは、落下する感覚を味わい、つかまえてほしい、とまで考える。 では、帽子をもらったフィ−ビ−が、今度は「ライ麦畑のキャッチャ−」となるのだろうか。そうだとすれば、フィ−ビ−は落ちていこうとしているホ−ルデンをどのようにしてつまかえるのか。 フィ−ビ−は、西部に旅立とうとしているホ−ルデンについていこうと、ス−ツケ−スをもってやってくる。つれていってほしいと懇願する。しかしホ−ルデンは耳をかさないでいる。押問答のすえ、フィ−ビ−は自分も学校へはもう戻らない、と言い出すにいたりホ−ルデンは旅にでることをあきらめる。ここで、フィ−ビ−は、ホ−ルデンをニュ−ヨ−クに、人生に、この世界につなぎ止めることに成功したわけである。落ちていく相手に自分の姿を重ねあわせ、一体化することにより、つかまえる。というより二人は、お互いにつかまえあっているのであり、つかまえられあっている、と私は感じる。 ホ−ルデンは回転木馬で金の輪をつかもうとするフィ−ビ−が、馬から落ちやしないかと心配するが、何も言わないでいる。 "The thing with kids is,if they want to grab for the gold ring,you have to let them do it,and not say anything or do anything.If they fall off,they fall off,but it's bad if you say anything to them."(p. 190)ここでホ−ルデンが考えたのは、子供を守りたくても手出しをしてはいけない、大切なものは手出しをすれば壊れてしまうのだから。一見消極的に見えるが、なにもしないことはそれこそがイノセンスを守ることになる、ということだったのではないだろうか。 |
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