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Seminar Paper 98


Yukiko Satomi

First created on January 13, 1999
Last revised on January 13, 1999

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ホールデンと子供たち
ホールデンから見て大人と子供はどう違うのか。

The Catcher in the ryeには、ホールデンと子供たちと、多くのphonyなおとなたちと少しのいい大人たちがでてくる。特に前半では、ホールデンはphonyな人ばかりに会って、何度も気が滅いり、そんな人達のいる場所から、ホールデンのほうから離れて行く。逆に、ホールデンは子供たちにはとても共感しいて、守ってあげたいと思っている。そこで、ホールデンはどうして子供が好きなのかということをさぐり、つぎにphonyな大人たちをみていくことにより、ホールデンが思う大人と子供の違いをみていきたい。

この作品に最初に登場する子供というのは、ホールデンの兄のD.Bが書いた"The Secret Goldfish"という短編小説のなかにでてくる男の子である。自分のお金でかった金魚を誰にも見せたがらない男の子の話である。ホールデンはこの小説に対して"It killed me." (p. 1)と言って賞賛している。"The Secret Goldfish"の男の子は大人や世間の常識にお構いなく、自分の感情に価値を置き、それを守ろうとしている。それをホールデンは子供の特性であるinnocenceと考えているようである。ここでは、この男の子の判断が正しいか間違っているかが問題ではなく、子供のもつ無邪気な世界を、純粋なままの子供が保持し、世間や大人の常識や打算によって曲げられないことにホールデンは価値をみている。この世界を脅かすうそや不正、インチキは世界に満ちている。脅迫されても自分の考えを変えずに、窓から飛びおりて自殺するジェームズキャッスルをホールデンが好きだといったのは、そんなphonyな世界から、自分の世界を守ろうとする姿に対して、好意を持ったのではないかと思われる。ホールデンは自分の愛する十歳の妹、フィービーについて、いかにinnocenceで、また知的であるかを話している。

You'd like her. I mean if you tell old Phoebe something, she knows exactly what the hell you're talking about. I mean you can even take her anywhere with you. If you take her to a lousy movie, for instance, she knows it's a lousy movie. If you take her to a pretty good movie, she knows it's a pretty good movie. (pp. 60-61)
十歳のフィービーのこの能力は彼女がinnocenceだからこそ可能なのである。innocenceであるからこそ、一切の偏見や先入観から逃れてストレートも物事の本質を見ることができるのである。

では、ホールデン自身は自分のことをどう思っているのか見てみようと思う。ホールデンは自分のことを次のように言っている。
I was sixteen then, and I'm seventeen now, and sometimes I act like I'm about thirteen. It's really ironical, because I'm six foot two and a half and I have gray hair. I really do. The one side of my head - the right side - is full of millions of gray hair. I've had them ever since I was kid. (p. 8)
ホールデンが16歳だと言う年齢から、大人と子供の不安定な時期にあるということが分かる。しかも、頭の半分が白髪と言う事実は、片足だけ、ホールデンが大人の世界に入り込んでいるということを象徴している。ホールデンの夢はライ麦畑のキャッチャーになることである。ホールデンは自分の夢をフィービーに話している。
I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody's around - nobody big, I mean - except me. And I'm standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff...I'd just be a catcher in the rye. (p. 156)
ホールデンは崖から落ちることを大人になると考え、それを阻止したいと言っている。

それでは、そんなホールデンから見た大人というのはどういうものか見ていきたいと思う。 ホールデンは多くの人をphonyと呼んでいる。その中の1人で、黒人のピアニスト、アーニーは次のような状況でピアノを弾いていた。
He had a big damn mirror in front of the piano, with this big spotlight on him, so that everybody could watch his face while he played. You couldn't see his fingers while he played - just his big old face. Big deal. (p. 76)
ピアニストというのは、自分の演奏を聞いてもらうためひいているはずなのに、アーニーは鏡を置いて、自分の指の動きを見せるならまだ分かるけど、顔を見せている。お客さんも、演奏を聞きに来ているはずなのに、それをつま先立ちになってみている。しかも、アーニーは見せびらかすかのように、高音に余分な音を入れたり、聞いていていらいらするぐらいいろいろな業を入れて弾いたりする。ホールデンが"If I were a piano player, I'd play it in the goddam closet." (p. 77) と言っていることから、ホールデンは見せびらかすという行為をphonyと考えているようである。アーニーに似たような人はこの作品にたくさん登場する。ホールデンが通っていた学校のサーマー校長先生は、土曜日の夜にはきまって、生徒にステーキを食べさせた。なぜなら、日曜日に生徒の親たちが学校にやってくるから、その時に親が夕べは何を食べたのか聞くことを予想し、生徒が「ステーキ」と答えることを計算していたのだ。サーマー校長先生は、自分が生徒にステーキを食べさせるいい人物だと思わせたかったのだ。自分の行動が人の目を気にして決定されている。「The Secret Goldfish」の男の子と比べると、ホールデンはこういった部分をphonyと呼んでいるのだと考えられる。

この作品には、逆にホールデンがとてもほめている大人もいる。それは、15章にでてくる小さな店でホールデンの隣に座った二人の尼さんである。ホールデンは彼女たちとおしゃべりをして楽しい時間を過ごした後、もし、サリーのおふくろさんが慈善のしごとをしたとしたらと考える。
She'd get bored. She'd hand in her basket and then go someplace swanky for lunch. That's what I liked about those nuns. You could tell, for one thing, that they never went anywhere swanky for lunch. It made me so damn sad when I thought about it, their never going anywhere swanky for lunch or anything. I knew it wasn't too important, but it made me sad anyway. (p. 103)
ホールデンが尼さん達なら絶対にしゃれた店にいかないだろうと思ったのは、おそらく尼さんたちが店でトーストとコーヒーしか食べていなかったことや、ホールデンが尼さんたちの分の代金を払おうとしたら、"You've been more than generous." (p. 100) といって断っていたことや話した感じからそう思ったのだろう。phonyな人は、人前ではいいひとに見られたいと思って行動するので、人の目に左右される。それに対して尼さんは裏も表も無いいいひとだと感じたのだ。また、ホールデンが尼さんたちなら、しゃれた店には行かないだろうとい言ってから、それを考えると悲しくなるといっている。それは、世の中phony名人はいい暮らしができて、そうでないいい人が貧しい暮らしをしているという世の中の状況をどこかおかしいのではないかとやりきれなさをホールデンは感じている。他にもホールデンは世の中の人の行動に疑問を感じている場面がある。それはホールデンの死んだ弟アリーの墓参りにいって、雨が降ってきたときのみんなの行動である。
We were there when it started to rain.....All the visitors that were visiting the cemetery started running like hell over to their cars. That's what nearly drove me crazy. All the visitors could get in their cars and turn on their radio and all and then go someplace nice for dinner - everybody except Allie. I couldn't stand it. (p. 140)
この場面から、ホールデンの正義感がうかがえる。大人達というのは形だけはアリーのお墓参りに来ているけれど、雨が降ってくるとすぐに車に駆け込んでディナーのことなんかを考えている。ホールデンに、大人達は本当にアリーのことを考えているのか疑問に思って頭に来たのだ。また、ホールデンは人から別れ際に"Good luck" (p. 181)と言われると、気が滅入ると言っていた。その人の事を考えて祈りもしないに幸運を祈るといってしまう無責任さが気に入らないのであろう。しかし、そんなホールデンも大人が使う無責任な言葉を発する場面がある。
Then she left. The Navy guy and I told each other were glad to've met each other. Which always kills me. I'm always saying 'Glad to've met you' to somebody. I'm not at all glad I met. If you want to stay alive, you have to say that stuff though. (p. 79)
うれしくなくてもうれしいというのはうそをつくことである。でも、生きていくためにはうれしくなくてもおめにかかれてうれしいと言わなくてはいけないとあきらめてる姿は、ホールデンはinnocenceな子供ではなく、大人の世界に入りかけていることをあらわしている。ホールデンは大人の世界で生きていくためには、あきらめなくてはいけないことというのが頭のなかではわかりかけているのだろう。そして、ホールデン自身も自分が変わっていっていると認識する場面がある。ホールデンは久しぶりに子供の頃に行っていた博物館に行くが、そこをとても気に入っている。なぜなら、中のものがずっと変わらないでそのままだったからだ。それは、子供がずっと大人にならずに、innocenceな子供のままでいて欲しいと思うホールデンの考えと一致した場所だ。ホールデンは変わらないと言うことにすごく価値を置いている。でも、自分は変わっていっているのではないか、子供の頃の自分と今の自分は違うと言うことに博物館でホールデンは気がついている。そして、ホールデンの愛するinnocenceの象徴のようなフィービーでさえ、変わってきているとホールデンは感じている。
I kept walking and walking, and I kept thinking about old phoebe going to that museum on Saturdays the way I used to. I thought how she'd see the same stuff I used to see, and hou she'd be diggerent every time she sow it. It didn't exactly depress me to think about it, but it didn't make me feel gay as hell, either. Certain things the should stay the way they are. You ought to be able to stick them in one of those big glass cases and just leave them alone. I know that's impossible, but it's too bad anyway. (p. 110)
そして、ホールデンがライ麦畑のキャッチャーになる夢をあきらめている。フィービーが回転木馬に乗っているのをホールデンが眺めている場面である。危険を承知で金の輪をつかもうとする子供たちの姿は、ライ麦ばたけの危険な崖からおちそうになる子供と重なる。目の前で、危ない姿勢で金の輪をつかもうとする子供を見て、その無邪気なひたむきさにこそ子供の大切な部分ではないのかと言うことをホールデンは知る。危険な崖から落ちるこどもを防ぐということは、子供を子供のままに押しとめることではないかということを、ホールデンは博物館に行って気がついたのではないか。ホールデンがそうであるように子供は子供のままでいることはできない。

ホールデンは子供のinnocenceにとても価値を置いていた。そのinnocenceは、phonyは反対で、大人や世界の価値観や偏見に左右されないと言うものである。phonyな大人たちは人からどのように見られるかと言った世間の価値観に左右されてしまっている。そんな大人を見るとホールデンはきが滅入る。でも、ホールデン自身も変わっていくように、ホールデンは子供が成長していくこと妨げることはできない。

 


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