Seminar Paper 99

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Tae Ikeda

First Created on December 31, 1999
Last revised on January 17, 2000

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「人間観と自然観」
自由を求めて

    主人公であるHuckleberry Finnは、浮浪児であり社会のアウトローとして描かれている。 そんなHuckにとって教育や文明、宗教はわずらしいものでしかなく、そういった社会の抑圧から解放されたくて自由を求めて冒険するのだ。 この作品は、ただの冒険小説ではなく、Mark Twain自身を投影しているHuckの視点 から人間を観察し、さらに社会を観察して批判している。ここでは、HuckイコールTwainのみる人間観と自然観をみていこうとおもう。

   まず、Huckはどのような人間なのだろうか。彼は、ユーモアに溢れ想像力に富んでいるTom Sawyerと比較しても分かる通り、現実的でかつ純粋無垢な少年である。そして、最も顕著な面として快楽主義者である。そのために、難破船に潜りこもうとJimを誘い危険な目に遭わせそうになったり、Tomに加担してJimの小屋脱出計画を行ったりするのだ。Huckは自分のやりたいことを自分のために行うのだ。人を助け、人のためになにかすべきと3章でキリスト教の教えを説くMiss Watsonの考えは理解できるはずもないのだ。彼が快楽主義者であると決定付ける場面がある。Huckはジャクソン島で意気投合したにもかかわらず、一度自分の自由を選んだのだ。

“There was a yell at us, and a jingling of bells to stop the engines, a pow-wow of cussing, and whistling of steam――and as Jim went overbroad on one side and I on the other, she come smashing straight through the raft.”(p. 115)
彼らの飛び込んだ方向は、Jimは奴隷解放の道(on one side)、Tomは自分の求める自由の道(on the other)を示しているのではないか。それゆえ、JimとHuckが別の道を選んだといえよう。この後、Grengerford家で世話になっている間、Jimへのコメントが一切ないことからもわかる。人間は所詮自らのためにしか行動しない。この自分本位な面を肯定しつつも、悲観的にも捉え、両極面からTwainは認識している。

   小説のなかに登場する人物のなかにも、自らのために行動している者がいる。酒の金欲しさに息子や判事につめよるHuckの父親、自分の計画どおりに無茶をしてまで進めるTom、詐欺をして金を得るdukeとking。それぞれの欲求が押し出される。しかし、Huckは決して彼らを批判することはない。自らも彼らのひとりであるから。他人の行動は自分の行動を反映しているといっても過言ではないのだ。”Human beings can be awful cruel to one another.”(p. .239)と述べたHuckの見解はそのことを説明する。彼は他人を見てこう述べたにも関わらず、Tomと一緒にJimに悪事を働きながら救出する。人のことは目に付いても自分のこととなると棚に上げてしまい矛盾が生じてしまう、という人間の愚かさがつかれている。この人間の弱さを公然と口にしたのがSherburnである。

“Do I know you? I know you clear through. I was born and raised in the south, and I’ve lived in the north; so I know the average all around. The average man’s a coward.(中略) “So they always acquit; and then a man goes in the night, with a hundred masked cowards at his back, and lynches the rascal. Your mistake is, that you didn’t bring a man with you; that’s one mistake, and the other is that you didn’t come in the dark, and fetch your masks. You brought part of a man―Buck Harkness, there―and if you hadn’t had him to start you, you’d a taken it in blowing. “You didn’t want to come.(中略)Now leave―and take your half-a-man with you”(p. 162)
南部・西部のステレオタイプ的なSherburnは、小説においてHuck以外の口を借りたTwainの語り手ともいえる。Sherburnの演説を聞いた群衆はすぐさまその場を離れていく。Huckもその中のひとりだった。Sherburnの言うhalf-a-manが自分と重なり、それを恥じたのだ。また、彼らの姿こそ人間の真の姿であり、Twainは不信感を人間に抱いているとみてとれる。

   果たして、人間は臆病から脱することはできないのだろうか。勇気というのは、借り物でしかないのだろうか。Twainは、決して人間を見捨ててはいない。同じ「人間」として悲観的に捉え、不信感を抱きながらも期待している。その思いを14歳のHuckleberry Finnという幼い少年に託しているのだ。 Huckは逃亡奴隷のJimと共に「自由」を求めて筏で河を下るなかで幾度となくJimをかくまうことが悪いことだ、という社会通念と戦ってきた。そして前述の通り、一度はJimとはぐれて考えることから逃げることもあった。その挙句、少年は自分の良心と感情の狭間で答えを出したのだ。”All right, I’ll go to hell”(p. .223)と。奴隷社会において奴隷解放をしようと心に決めたHuck。彼のなかで勇気が生まれたのだ。誰かに奮い立たされたのではなく、自ら決心し、実行したのだ。ここに、Twainの人間の強さを示すメッセージがこめられているといえる。

   次に、文明についてみていこうと思う。 19世紀後半のアメリカでは、炭鉱・石油による工業時代の到来の時代である。文明が発展していくなかで、自然が破壊されていく時代だ。小説では、河を中心に人々の行き交う様子や嵐の様子など自然現象について述べられている。HuckとJimが星を眺める場面やkingとdukeの嘘を暴くために墓を掘り起こすときの嵐の様子は、映画のワンシーンのように読み手の頭のなかにイメージを膨らませるだけでなく、自然との共存を文明の発展しつつあるアメリカへ訴えたものといえる。 自然描写と対比して文明を表す象徴的なものが小説のなかでいくつか書かれている。 まず、ジャクソン島へたどり着いたHuckが島を探索する場面だ。

“the next day I went exploring around down through the island. I was boss of it; it all belonged to me, so to say ,and I wanted to know all about it; but mainly I wanted to put in the time. I found plenty strawberries, ripe and prime; and green summer-grapes, and green razberries; and the green blackberries was just beginning to show. (中略) I had my gun along, but I hadn’t shot nothing; it was for protection; thought I would kill some game nigh home. About this time I might near stepped on a good sized snake, and it went sliding off through the grass and flowers, and I after it, trying to get a shot at it. I clipped along, and all of a sudden I bounded right on to the ashes of a camp fire that was still smoking.”(p. 51)
ここで暗示しているものはなにか。ラズベリーや苺、蛇が登場することから、聖書で述べられているエデンの園を指しているとみられる。アダムとイブをそそのかし文明社会へと導く蛇をHuckは撃とうとしたのだ。そして社会を豊かにしていく火と遭遇する。ジャクソン島でボスだと思っていたHuckには、思いもよらない妨害であり邪悪なものといえよう。蛇を撃たず、焚き火に驚いた彼は文明を否定しなかったとみれる。

さらに、文明を象徴する描写がある。  HuckとJimが鯰を釣り上げた場面である。

“We found a brass button in his stomach, and a round ball and lots of rubbage. We split the ball open with the hatchet, and there was a spool in it. (中略) Jim said he hadn’t ever seen a bigger one. He would a been worth a good deal over at the village. They peddle out such a fish as that by the pound in the market house there; everybody buys some of him; his meat’s as white as snow and makes a good fry.”(p. 65)
his meat’s as white as snowからは、鯰を白人に例えているとみられる。真鍮のボタンや糸などがそこから発見されたことから洋服、繊維業といった文明を連想させる。これは、文明を手中にした白人に鯰を見立て、HuckとJimの手で裁くという皮肉のこめた場面といえる。

Huckを悩ます文明の産物のひとつに酒があげられる。Huckの父親は、酒の力に任せて暴力をふるうようになった。さらには、酒代ほしさにTomとみつけた金をほしがる始末だ。

このように、Huckの生活のなかでいくらか文明が浸透していることがわかる。しかし、彼は決して否定しているわけではない。例えば、Grangerford家の居間に感心している場面がある。

“It was a mighty nice family, and a mighty nice house, too. I hadn’t seen no house in the country before that was so nice and had so much style.”(p. 120)
Huckは自然と文明の間を往復しながら自らの快楽主義を貫いているのだ。文明社会を否定するのでなく、しかし全てを受け入れるわけでもない。彼は、自分の快楽主義を中心に自らの感覚で物事を判断するのだ。  そういう意味でも、前述したHuckの述べる”Ill go to hell”(p. 223)はもうひとつの解釈がなされる。こう決めたことで、彼は社会の抑圧から開放されたのだ。そして、抑圧からの自由を求める第一歩へ進むこととなる。 アメリカは1776年の独立戦争以来、自由を求める精神が始まった。それから約100年の歳月を経て南北戦争でもその精神を糧に自由を求めていた。それゆえ、「自由」を得ることこそアメリカの夢といっても過言ではない。その夢を目指す作品”ADVENTURES of HUCKLEBERRY FINN”が、アメリカの読者と合致したのだ。それゆえ、cannonと称され、へミングウェイの言及するようにアメリカ文学の基礎をいわれるゆえんとなったのだろう。  Huckはアメリカの夢を背負って非抑圧的な社会の実現を目指したのだ。Twainはそういった自分の考え、思いをHuckに注いで”ADVENTURES of HUCKLEBERRY FINN”を作品にしたのだろう。


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