Seminar Paper 99

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Yuko Kudo

First Created on December 31, 1999
Last revised on January 17, 2000

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Adventures of Huckleberry Finnの自然観・人間観」
ハックの目から見たcivilization

 

主人公であるハックは現実主義者である。そのことは、"because it would only make trouble,and would'nt do no good.(P16)"や"I learnt that the best way to get along with his kind of people is to let them have their own way."といったハックの言葉にしばしば表れている。ハックは、何かを変えようと革命を起こしたりはしない。そっと紛れこみ、居られなくなるとその場をすぐ後にする。常に傍観者のスタンスをとっているからこそ、そのままの人間模様を私たちは知ることができる。 ハックの目(よりまっさらな子供の目であり、現実主義者の目)から見た当時の状況、特にcivilizationを分析することで、The Adventure of Huckelberry Finnに見られる作者の人間観・自然観を考察していきたい。

そもそも筏で(最初はカヌーだけであったが)漂流することになったのは" keep pap and the widow from trying to follow me,"(P44)するためである。未亡人とハックの父親は全く違うタイプの人間であり、お互いにハックから遠ざけようとする。ハックは3,4ヶ月かかって、未亡人の下での生活を"I was getting so I liked the new ones, too,a little bit.(P27) と受け入れ始めたが、父親に連れ戻されることによって"I didn't want to back to the widow's any more and be so cramped up and sivilized,as they called it."(p38)と振り返る。ただ、注意したいのは、連れ戻されるまでその窮屈さを感じなくなっていたことである。このまま、civilizedされた生活に染まっていったことも考えられるし、少なくともこの期間にハックがcivilizedされたことは、後の言動によって知ることができる。

一方、父親の下での生活は、civilizationとは無縁なものであるが、酒乱によりエスカレートする暴力や、拘束によってハックは苦しむ。父親にとって、ハックは"property"(P39)であるから、自由を与えないし、信用もしない。 "he locked me in and was gone three days.Pap was pretty careful not to leave a knife or anything in the cabin when he was away.(P39)"という様子から、父親がハックをどう見ているかがわかる。両者とも共通しているのは、ハックに愛情をもっているのではなく、自分の欲求のために行動していることである。未亡人は、ハックをcivilizeする対象として、父親はmy propertyとして拘束する。"They'll soon get tired of that,and won't bother no more about me."(P46)とハックが思うのも、誰一人として自分を心から思ってくれる人がいないと感じていたからではないだろうか。 ハックにとっては両者とも苦痛でありながら、人々の見方は両者を善と悪とにはっきり区別している。未亡人はもちろん善であり、父親は有害な悪である。当時の社会は、未亡人のふるまいを善と信じて疑わないが、ハックは苦痛を感じる、そのギャップとはどこからくるものなのか。 未亡人のハックをcivilizeしようとするおせっかいともとれる姿勢は、「信仰体系をもっていたインディアン」に対して改宗させようとしたキリスト教徒の姿によく似ている。

「キリスト教徒にとって、インディアンは罪の意識をもたない、したがって素朴で原始的な存在であった。それはまた、迷信に翻弄されながら、ほとんど動物と同じ状態で生きている野蛮な存在でもあった。キリスト教徒たちは、できるかぎり早く彼らに教育を施さなければならないと考えた。」(アメリカインディアン・奪われた大地より)

ハックが未亡人に対して、"That is just way with some people.They get down on a thing when they don't kone nothing about it. And she took snuff too;of corse that was all right,because she done it herself."と不満を抱く気持ちは、未知のものに対する恐怖を抱き、時には相手を弾圧することで自分を正当化する人間を非難しているのではないだろうか。

この正当化する行為は、自然観に至ってはcivilizedされた人間に特有のものといえる。 ここからは当時のcivilizedされた人間=キリスト教信者として考えたい。まず、キリスト教の考え方は、神がこの世の全てを創造し、その地上の支配者を人間と定めたとする。よって、キリスト教は「人が自分のために自然を搾取することが神の意志であると主張した」(現在の生態学的危機の歴史的根元より・リンホワイト著 みすず書房)のである。次のマークトゥエインの文章からは、その傲慢に正当化するcivilizedされた人間を非難しているのがうかがえる。

「その後、未開の人々が感嘆して見守るなか、ラ=サールはフランスの紋章をつけた十字架を押し立てて、この地全土を国王の領土であると宣言した一この時代の厚かましいやり口だ一そして司祭は聖歌とともに、この強奪をうやうやしくも聖別したのである。」(ミシシッピの生活第2章ミシシッピ川の探検者より)

このように、神の名のもとに自然を征服できるcivilizedされた人間にとって、自然は人間の利益のために開発されるべき対象であり、いずれ西部の自然が破壊されていくことも作者にとって予想できることだったと思われる。civilizationによって侵されていくnatureは"We found a brass button in his stomach ,and a round ball,and lots of rubbage."(P65)という、自然の川が、文明の産物の象徴ともいえる真鍮によって汚染されている文に暗示されている。

では、ハックにとって自然とはどういった存在といえるだろうか。ハックの目を通して、自然は様々な姿を見せる。穏やかに見える川も嵐になれば、殺人を犯そうとする人間もされる人間も、一緒に沈めてしまう力を持っている。そうなれば、人間は何も為す術はない。自然とは実際にそういうものであり、ハックは特に疑問も驚きも感じていない。また、ハックの五感は自然を敏感に感じ取る。自然の風景から時間を判断し、食べる物も自分で手に入れることができる。服にも執着心がない(I didn't go much on clothes,nohow.(P136)ハックには、物への執着心がないので、サイラスおじさん"he had a noble,,,,not on account of being any account ,because they warn't(P263)"のような人が理解できないのである。ハックを楽しませるものは、なぞなぞやサーカスではなく、めったにみられない自然界の"storm"(P144)であり、"I used to slide out and sleep in the woods, sometimes, and so that was rest to me"と安らぎを感じさせる場にもなる。そして、"It was kind of solemn, drifting down the big still river ,laying on our backs looking up at stars,"(P75)という場面は、ハックが自然に対して畏怖の念を抱いていることが読み取れる。ハックの、自然を神聖化する見方は、キリスト教的発想ではなく、むしろ土着の神がいた古代の発想だ。両者の関係は次のようなものである。

古代にあっては、すべての木、すべての泉、すべての流れ、すべての丘はそれ自身の、<守護神>をもっていた。木を伐り、山を掘り、小川をせき止める前に、その場所をとくに守っている神をなだめ、なだめたままにしておくことが重要であった。このような異教の物活論を破壊することで、キリスト教は自然物の感情を気にしないような仕方で自然を搾取することができるようにしたのであった。(現在の生態学的危機の歴史的根源より・リンホワイト著 みすず書房)
ハックの自然観というのは、civilizedされた人間がもつ、自然を支配する対象と見るキリスト教的発想ではないといえる。

 では、ハックが川(nature)から上がって見た、civilizedされた生活とはどんな姿であったか。グレンジャーズフォード家の人は、未亡人が"that's worth as much in a man as iti is in a horse"というところのcivilizedされた家である。シェファードソン家も同様、"high-toned,and well-born,and rich and grand"(P126)である。ハックは、豪華な時計の刻む音色や瀬戸物でできた犬や猫、白墨で作られた本物より美しくみえる果物など、文明の産物に目を引かれる。家の人も良い人達だったため、"Nothing coudn't be better"(P124)とまで思うようになる。  しかし、feud(宿怨)のために両家が殺し合いを続けていることを知る。理由もわからないまま殺し合っている一方で、日曜日には家族揃って教会に牧師の説教を聞きにいく。"everybody said it was a good sermon ,and they all talked it over going home,and had such a powerful lot to say about faith,and good works,and free grace,and preordestination."いう矛盾した光景は、ハックに嫌悪感を抱かせる。  それは、まるで「本物より本物らしくみえる果物」のようであり、外観だけでは判断できないことを暗示している。極悪の詐欺師を立派に見せて" how clothes could change a body before.(P172)"とハックを驚かせた服の力と同じだ。また、civilizationの象徴ともいうべき宗教は、説教師とその信者の異常な信仰ぶりによって嘲笑されている。"The people woke up more and more, and sung louder and louder;and towards the end,some begun to groan,and some begun to shout."(P148)という光景を、ハックは "just crazy and wild"と評する。異常なまでに興奮した人達は、説教師もろとも詐欺師にまんまと騙されてしまうのだ。

群衆に対する人間観というのも、トゥエインは特別に抱いていたようだ。群衆になることで、リンチにかけようとする臆病な人々や、何が正しいのかも見分けられないほど狂気と化して墓を暴く人々。そして、実際にリンチにかけてしまう人間を見て、"Human beings can be awful cruel to one another."(P239)とハックは漏らす。様々な人間を見ることで、ハックの目はますます鋭くなっていく。今まで、トムに憧れ、" I wanted him and me to together(p16,10)とトムといることを望んでいたハックだが、ジムを救出する馬鹿げた作戦の数々に嫌気をさしている。トムの作戦は、あくまでもregularにこだわり、トムが参考にする本はいずれもヨーロッパのものである。つまり、トムにとってregular =Europeである。ここでは、当時のヨーロッパかぶれを風刺していると思われる。"authority"に弱く、物事の本質を見ることができないのは、トムもまたcivilizedされた子供であることを示している。ハックのみたcivilizationはどれも魅力的ではなかった。立派なのは外側だけで内面は軽薄な、まさにトゥエイン自身が生きた「金メッキ」時代の人々である。

トゥエインは、ミシシッピやミズーリのような大河のことを「岸は堆積性でたえず崩れ、形を変えているし、沈み木はしじゅう新しい落ち着き場所を求めて移動しているし、砂州は一刻もじっとしていない。」(ミシシッピー上の生活より)と描いている。ハックもまた、この沈み木のような存在であり、川の一部として流されるまま、落ち着く場所を探して移動してきた。しかし、川(nature)から上がって見たcivilizedされた人間の生活は、どれも人間の醜さを露呈していた。ハックがジムの逃亡を助けていたのは事実だが、その一方で自分の居場所を探していたのだ。

この話は、ハックがジムを助けたり、黒人に対する偏見を払拭した話とはいえない。なぜなら、ハックの差別的発言は、"I knowed he was white inside",(P279)という話の最後の方まで引きずっている。ただ単に、ハックはジムという友人を理解しただけにすぎない。実際、偏見・差別を取り払うには時間がかかり、この一連の旅で、黒人に対する見方が変わるほうが現実的ではないのかもしれない。当時、黒人がどれほど蔑まれていたのかということを、"Killed a nigger."に対して、"Well,it's lucky;because sometimes people do get hurt."(P230)というサリーおばさんの発言からうかがえる。しかし、ハックが黒人問題に対して無力であったのは、何よりもハック自身が逃亡の身であり、悩みを抱えていたからではないだろうか。2人が"We said there warn't no home like a raft ,after all"(P134)通り、raftの上が逃亡奴隷のジムにとって安全な場所であると同時に、ハックにとってもcivilizationの奴隷にならずにすむ束の間の安全な場所であったといえる。最終的に、ジムは解放されたことを知り、自由の身となる。よって、ジムはもう安全な場所を求めて、逃亡する必要はなくなった。しかし、ハックの居場所は依然として見つからないままである。"But I reckon I got to light out for the Territory ahead of the rest,"(P296)とハックは最後に言う。これは、実際にcivilized された生活・人間を自分の目で見てきた結果、改めて自分には魅力を感じないと確認した上で下した最終的な結論だったのだろう。

マークトゥエインはリアリズムの作家であり、当時の状況をできるだけ忠実に表していると思われる。よってこの作品に書かれてること全てが作者の自然観や人間観に通じるものではない。ただ、トゥエイン自身も、蒸気船の操舵手としてミシシッピ川を行き来し、ハックと同じように様々な人間を見てきたのである。初めて出会ったものに対する、ストレートなハックの自然観や人間観が、トゥエイン自身の目から見たものでもあり、知らないうちに当時の社会通念や未亡人にcivilizedされているハックも、トゥエインの人間観の一つといえるのではないか。


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