Seminar Paper 99
Yukiko Nara
First Created on December 31, 1999
Last revised on January 17, 2000
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「Adventures of Huckleberry Finnの自然観・人間観」
ー英雄は歴史に準ずるかー
代表作The Adventures of Tom Sawyer(1876)と並び、マーク・トウェイン(Mark Twain,1835-1910)の作品でいち早くその名を挙げられるのが彼の傑作Adventures of Huckleberry Finn(1885)である。この中に多くのものを発見するかしないかは読者次第である。しかし、すくなくとも読者に考えさせる材料がふんだんに散りばめられていることは間違いないだろう。そこで私はその材料のなかでも作者の自然観と人間観について考えてゆこうと思う。トウェインの考えが主人公ハックや周囲の出来事にどのように反映しているのか、そしてその考えと当時の時代背景との関係を絡めながら時代の兆児と言われたトウェインについても見てゆくことにする。 「アメリカ近代文学の散文のスタイルは、ハックルベリー・フィンという一冊の書に源を発した」とかつてヘミングウェイが述べたように、この作品は後の近代文学に大きな影響をもたらしたと言われている。それゆえに、マーク・トウェインが「アメリカ近代文学の父」と言われるのももっともである。あるときはいちユーモア作家として活躍し、あるときは海外公演旅行などに出かける外交官なみの存在感を持つ、この一種の英雄とも言うべき存在はどのようにして現れたのか。 1835年11月30日にミズーリ州モンロー郡フロリダにてトウェイン(本名サミュエル・ラングホーン・クレメンズ)は生まれた。そこは彼の作品『自伝』の中でも「私が生まれるというだけで村の人口を1パーセントふやすことになった。」と述べられているほどの牧歌的な小村であったようだ。その四年後の1839年には一家でミシシッピ―河畔の田舎町ハンニバルに移った。彼は南西部のその豊かでまだ人の手に触れられていない大自然のなかで育ったが、そこは一方でフロンティア最前線の町でもあったためそこで起こるさまざまな暴力や事件などを彼は目の当たりにした。この少年時代の生活は彼の後の物の見方に大いに影響を与えたようである。しかし父親の死や印刷工見習などを経験した後でかねてからの夢であったミシシッピー川の蒸気船の水先案内人となったことが何より『ハック・フィンの冒険』の執筆に際して中核をなす大変有効な経験であったことは確かであろう。作品の中でしばしばミシシッピー川での様子が登場し実に見事に描写されているのはまさにこの経験に負うところが大きいように思われる。またそれだけでなく、作品中,$G%_%7%7%C%T!]@n$H$$$&Bg<+A3$N まっただなかに流れる筏での生活はハックに様々な事柄について気付かせている。" The sky looks ever so deep when you lay down on your back in the moonshine; I never knowed it before. and how far a body can hear on the water such nights!"(p. 47) このように筏の上で世間や未亡人や父親から離れて、ハックの言う "sivilize"された身体を洗い流し自分自身になると、それまで見えてこなかったものがふと見えてくるようになるのである。 1885年にこの作品が出版されるまでには、1849年のゴールド・ラッシュや1861年から四年にわたって続いた南北戦争や69年の大陸横断鉄道の開通、79年の太平洋戦争などの多くの事件が起こり刻々と時代は変化していった。牧歌的でさえあった彼の故郷ハンニバルも同様に変化していた。周囲の環境が変わってゆくからこそ、人々は昔を懐かしく思うのである。トウェインにとっての懐かしく良き時代とは蒸気船の水先案内人として働いたあの時代だったのではないだろうか?しかしながら南北戦争でミシシッピー川の交通が途絶え、蒸気船の存在感が薄れ、後の大陸横断鉄道の出現や工業の発達に伴い、人々の豊かさの概念も変化してゆくと、文明と自然との関係について考える必要が出てきた。 そもそも自然と文明は共存できるのであろうか?これがトウェインの問題とするところのように思われる。インディアンから土地を奪う西部開拓が1845年の「明白な天命」により正当化され人々がますますフロンティア熱にうかされるようになると、自然と人間が対等な関係ではなくなり、人間優位の考えに基づいた文明がつくられるようになっていった。 特に作品中では、" a desperate gang of cutthroats from over in the Ingean Territory"(p. 274)とあるようにインディアンは強暴だという当時の人々の彼らに対するイメージに反映された言葉が出てくる。しかし、その彼らの土地を奪い " Territory"に押し込めたのはよりにもよってそういう彼ら白人達だったのではないのか?文明つまり人間社会と自然が共存する事は出来ないという考えはもちろんトウェインの中にもあったであろう。しかしながら、もし両者のバランスが保てるとしたら、人類はまだ真の文明にたどり着いていないのではないかとも彼が考えていたのではなかろうか?それゆえ人類にはその余地がないと考えるのではなく、まだまだその余地があると考えていたように思われる。自分の苦労と汗とで富を築き、自然に親しみ、自由を何よりも重んじるトウェインを仮に大陸のアダムとすれば、ハックが窮屈で魅力的ではない文明社会から離れて " Territory"へと向かおうとする事は、単に荒野へ冒険しに行く事ではなくひょっとしたら本当に自由で豊かな文明エデンへと向かうことになるのかもしれないと思えてくる。 1852年に出版されたストー夫人の『アンクル・トムの小屋』が奴隷解放のバイブルと言われ、夫人自身も「南北戦争の火付け役」と称されたのとは異なり、トウェインが『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885)の中で、「既に自由な黒人を自由にする」というとうに解決済みのテーマを試みたのはなぜだろうか? その理由はその時代の法廷判決にも如実に現れているように思われる。 " Separate but equal"という1896年の最高裁判所の判決は奴隷解放後の言葉とは信じがたいものがあるが、「別々だが平等」という概念が人々に付きまとい、実際には真の解放はなされていなかったのである。南北戦争後の再建末期に、白人による黒人への脅迫やリンチが公然と行われていたということは事実であったようだ。 南北戦争後の1865年から90年ごろまでは文学史上、歴史上ともに、マーク・トウェインのベストセラー小説のタイトルを借りて「金めっき時代」などと呼ばれている。これは金めっきを施したように外側は良いが中身が伴っていないというような意味合いで使われているが、まさにこのような「金めっき」の状態に対しての批判も含め、トウェインは、「人間は自由で皆平等」というごく当たり前のことを読者に気付かせる為にあらためてその問題に触れる必要を感じたのではなかろうか。そしてまた、人間の持つ "conscience"とは何かについて人々に問題提起する為に、作品の中でそれについてハックを悩ませたのではないだろうか。 So we poked along back home, and I warn't feeling so brash as I was before, but kind of ornery, and humble, and to blame, somehow―though I hadn't done nothing. But that's always the way: it don't make no difference whether you do right or wrong, a person's conscience ain't got no sense, and just goes for him anyway. If I had a yaller dog that didn't know no more than a person's conscience does, I would pison him. It takes up more room than all the rest of a person's insides, and yet ain't no good, nohow. Tom Sawyer he says the same. (p. 240) これは王様と公爵がリンチで連れ去られるのを見たハックが良心の呵責に苛まれるシーンである。彼の良心には二つの面がある。社会の人々によってつくられた "conscience"とハック自身の中に存在するそれである。前者の側に立てば、詐欺師である王様と公爵が捕まるということは当然であるが、後者の側としては、どんな形であれそれまで仲間として共に生活してきた彼らに対して行われる暴力を見て見ぬ振りをすることはハックにとっては苦痛なのである。 どちらにせよ「良心」なんてない方がマシだという投げやりな態度をハックがとるのは、そのような彼のやっかいな二面性が彼を悩ましているからではないだろうか。そして二人の詐欺師に対して行われる暴力に対してハックは" Human beings can be awful cruel to the one another."(p. 239)と述べているが、この言葉遣いは今までのハックの言葉遣いと比べると随分と大人びているような気がしてならない。まるでハックの言葉を借りてトウェイン自身が述べているようである。南部の人の特徴として人の良さが挙げられるが、本来は一人では弱く人も良いが、そういう彼らでさえ集団になるととても残酷になってしまうという人間の集団意識をここでトウェインは指摘し嘆いているように思われる。 ハックは自然の世界と文明の世界の狭間にいる。だからこそ両方の面を見ることが出きるのである。文明社会から逃れてきたのに退屈になると町へ行ってサーカスを見たり様子を見に行ったりする。しかし、グレンジャーフォード家とシェパードソン家の長年の醜い殺し合いなどを目の当たりにすると彼はうんざりしてまた川に戻り、筏での自由気ままな生活を楽しんでいる。作者いわく、文明とは良いが中身を見るとガッカリさせられてしまうような「金めっき」のようなものなのかもしれない。実際は文明人の世界の方が野蛮人の自然の世界よりずっと野蛮なのではないかという疑問を我々読者に投げかけている。或いはまたこの宿根は戦争への諷刺として作者が登場させたものなのかもしれない。 作品の中においては、少なくとも「文明」と「自然」のどちらが優れているとははっきり述べられていない。しかしながら、ハックとジムの次のような場面を見ると文明社会に生きる読者側としては、ないものねだりではないが筏での生活に幾分かのあこがれもあり、どちらかと言うと「文明」より「自然」を優先したいところである。 It's lovely to live on a raft. We had the sky, up there, all speckled with stars, and we used to lay on our backs and look up at them, and discuss about whether they was made, but I allowed they happened; I judged it would have took too long to make so many. Jim said the moon could a laid them; well, that looked kind of reasonable, so I didn't say nothing against it, because I've seen a frog lay most as many, so of course it could be done. We used to watch the stars that fell, too, and see them streak down. Jim allowed they'd got spoiled and was hove out of the nest. (p. 136) 雄大なミシシッピの川の流れと共に、これほど時がゆったりと流れ、二人がくつろぎ対等に話し合い、夜空や会話を楽しんでいる自由な雰囲気の場所は筏の上ならではであろう。川幅だけで2キロ余りもある川の上は時として孤独の場所でもあるが、そんな中にあって筏はハックにとってあらゆる束縛から解放されるエデン的存在なのかもしれない。 牧歌的な町の風景や、存在感の強い大河ミシシッピのこれらの描写は、作者自身が自然に囲まれていなければ表現する事の出来ない自然観の現れであり、自然の傍にいる者として持ち得る自然観である。そして文明もまた彼の隣にあり、文明が変化していくのと同様に、人間もまた良い方へと変わっていけると信ずるべき人間観をも作者は持っているのではないだろうか。 " I do believe he cared just as much for his people as white folks does for theirn. I don't seem natural, but I reckon it's so." (p. 170) このようにハックは、黒人ジムの子を思う気持ちは白人と同じと言い、それは実際においても "natural"ではないという概念が通った時代がかつてあったが、現在のように人間も変わって人々が「人類が皆平等」ということを堂々と当たり前のように"natural"だといえる時代が歴史の流れと共にやってきたのである。 「私の本は水だ。偉大な天才の本はぶどう酒だ。しかしみんな水を飲む。」という有名な言葉をトウェインは残している。彼が一般大衆の一人であり、彼ら大衆の代弁者であったがゆえの言葉であろう。ところが今日は人がお金を払って水を買うような時代である。 これは昔の人々にとっては信じがたいことであろうが、そんな時代だからこそ人々はその「水」の価値に気付き、この作品はトウェインの生きた時代以上に渇いた現代人にとっての一滴の雫となるのではないだろうか。 参考文献 渡辺利雄訳・解説 『アメリカ古典文庫6:マーク・トウェイン 自伝』(研究社 , 1975) 今津明 『世界の歴史17:アメリカ大陸の明暗』(河出書房新社 , 1992) 猿谷要 『地域からの世界史:北アメリカ』(朝日新聞社 , 1992) 紀平栄作,亀井俊介 『世界の歴史23:アメリカ合衆国の膨張』(中央公論社 ,1998) |
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