Seminar Paper 99

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Kaori Okizono

First Created on December 31, 1999
Last revised on January 17, 2000

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Adventures of Huckleberry Finnの自然観・人間観」
川の流れのように

ミシシッピ‐がわ(‥がは)【ミシシッピ川】 アメリカ合衆国中央部を縦断して流れる大河。ミネソタ州のイタスカ湖付近に源を発して南流し、最下流部に広大な鳥趾(ちょうし)状三角州を形成してメキシコ湾に注ぐ。支流は一〇万と称され、本流の全長三七七九キロメートル。

 "Adventures of Huckleberry Finn゛を読んでいて感じるのは、ミシシッピ川を含む自然の描写の見事さである。ハックとジムの筏をのせ流れていく川は、一体何を表しているのだろうか。そしてその旅の途中で現れる町で出会う人間たちのことも言及したいと思う。

アメリカは独立当時から領地購入や戦争により国家の領土を広め、フロンティア消滅の1890年まで領土拡大を展開した。マーク・トゥェインが生まれた頃、そのフロンティアの最前線は西部ミズーリ州にあった。彼の父親ジョン・M・クレメンズは当時夢を抱いてこのフロンティアの地に移り住んだのだった。彼は4歳の時、生誕の地ミズーリ州フロリダからアメリカ最大のミシシッピ川に面した町ハンニバルへ移り、その川を中心とする大自然の中で育った。
"Adventures of Huckleberry Finn゛の出版は1885年であるが、その初版のタイトルページには、"TIME:FORTY TO FIFTY YEARS AGO"とあって、つまりトゥェインが生まれた年から10歳になる年くらいまでの時代の雰囲気がそこには現れている。

Civilizeされるということは、教育その他いろいろなものを通して他人の考えを知ることであり、それを自分のものとし、目に映るもの、体験することを考えること、そして行動することであると思う。社会通念とはそのように受け入れられ、受け継がれたものである、と私は考える。人間自身が人間自身を閉じ込めるために作った檻のようなものともとれる、とも。

 ある社会に生きる者は、その社会にある「あたりまえのこと」から逃げることはできない。生まれた瞬間から人間はその社会通念を学び、それを「そうあるべきもの」と感じてしまったりもする。

 ハックはグレンジャーフォードとシェパードソンの間のいさかいから起こる惨劇の後、ジムの元(筏)に戻ってこう思う。

We said there warn't no home like a raft, after all. Other places seem so cramped up and smothery, but a raft don't. You feel and easy and comfortable on a raft. (P.134 l.48 -l.50)

この両家のfeudは、文明が成り立つ上で必要な教育によって受け継がれている。毎週日曜日には教会へ通い、兄弟愛を説く説教を聞きながらも銃を離さないような彼らをハックは理解できない。同年代の子供たちが受けてきている教育を受けていないハックは、その教育から何かインチキくさいものを感じる。
そして起こるべくして起こった惨劇を目の当たりにし、ハックにとってそれは、Sivilize、インチキな文明であり、受け入れることのできないものだと感じたのではないだろうか。

そして人間の世界と切り離された筏に戻り、ハックは安らぎを感じる 筏は、ハックとジムの二人だけをのせて流れを下ってゆく。筏はミシシッピ川の上に流れる一つの世界とも思える。
人間のcivilizeされた世界のすぐ傍にあり、しかしそれと交わることのない世界で、ハックは魚釣りをし、泳ぎ、その穏やかな景観を満喫する。ミシシッピ川の自然はハックにとって文明社会の煩わしさを逃れ、心を癒してくれる聖なる空間なのである。また自然は、筏というハックとジムの世界を包む宇宙のような存在である。

"…the structural use of the river as control and chaos…"とトニ・モリスンが言っているように、この川を含む自然は、まさに秩序と混沌の二つを併せ持ったものとして描かれている。そこでハックはジムから多くのことを学びとっている。それはハックとジム独自の世界においてのcivilizationのように私には思える。

ハックの言葉からは大自然ミシシッピ川の様子が伝わってくると同時に、ハックとジムがいかにその自然に親しんでいるかが想像できる。トゥェインの描く自然は優しく、静かで、美しい。ハックはジャクソン島やミシシッピ河上での嵐の時のように自然が猛威をふるう時でさえ、その自然の美しく、激しい表情に魅了される。
反面、そうした恵み深い、美しい自然は時として人間に対立するものとなる。嵐はハックの乗る筏を押し流し、彼を筏から振り落とす。ジムが自由州に上陸するのを妨げるのも川の流れの仕業である。

ジャクソン島でもハックは一人ぼっちの夜(自然)の孤独感や恐怖感にさいなまれる。ダグラス未亡人宅にいる時でさえ、夜という暗闇の神秘に、孤独感や恐怖感、死のイメージを覚えずにはいられない。"I felt so lonesome I most wished I was dead….I got so down-hearted and scared, I did wish I had a company."(P.16 l.15 - l.25) と感じるほどに深い闇に包まれた不気味な空間はハックにとって脅威にほかならない  
しかしジムをジャクソン島で見つけてから、夜に怯えるハックは登場しない。"company" を欲していたハックがジムという仲間を見つけたからではないかと思われる。

ジムと共に旅を続けるうち、ハックの中でジムは大切な存在になっていく。15章で二人が濃い霧の中ではぐれた時、必死にジムを探し、叫び疲れたハックはこう思っている。

I reckoned Jim had fetched up on a snag, maybe, and it was all up with him. (P.93 l.18) …I wouldn't bother no more. I didn't want to go to sleep, of course; but I was so sleepy I couldn't help it…(P.93 l.20)

この後霧が晴れ、ハックはジムの筏を見つけることができるのだが、ここでハックはジムにひどい冗談を言う。からかわれたことに気づいたジムは、自分がいかにハックを心配し、やっと会えて涙が出るくらい嬉しかった、足にキスしたいくらいだったのに、と怒られ、いたく反省する。

It made me feel so mean I could almost kissed his foot to get him to take it back. It was fifteen minutes before I could work myself up to go and humble myself to a nigger -----but I done it, and I warn't ever sorry for it afterwards, neither. I didn't do him no more tricks, and I wouldn't done that one if I'd a knowed it would make him feel that way. (P.95 l.43 - l.48)
ジムはハックをとても大切に思っている、ということを理解し、その気持ちを踏みにじったと感じたハックは、15分もかかってはいるが、奴隷であり自分より下の存在である黒人に謝る、ということをやってのける。この事件からハックのジムに対する気持ちがただの"company"から変わってきたように思える。

 その後、グレンジャーフォード家とシェパードソン家のfeudから命からがら逃げてきたハックは、

Jim warn't on his island, so I tramped off in a hurry for the crick, and crowded through the willows, red-hot to jump aboard and get out of that awful country---the raft was gone! My souls, but I was scared! I couldn't get my breath for most a minute. Then I raised a yell. A voice not twenty-five foot from me, says----- "Good lan'! is dat you, honey? Doan' make no noise." It was Jim's voice-----nothing ever sounded so good before. (P.134 l.21- l.27)
と思っている。

31章でハックはKingとDukeから逃げ出そうと

"Set her loose, Jim, we're all right, now!" But there warn't no answer, and nobody come out of the wigwam. Jim was gone! I set up a shout, -----and then another-----and then another one; and run this way and that in the woods, whooging and screeching; but it warn't no use -----old Jim was gone. Then I set down and cried; I couldn't help it. But I couldn't set still long.(P.220 l.25)
とこの物語で初めて涙を流す。

今までこれほど必死にジムを探したことがあっただろうか。神に禁じられていることをしてきた、故郷に帰っても恥ずかしさで顔も上げられない生活をするのだろうと考え、良心に苦しむハックはここで初めて自発的に「神」のことを考える。そして祈ってみようと思い立つができない。

It was because my heart warn't right; it was because I warn't square; it was because I was praying double.(P.222 l.25)
と考え、嘘を祈ることはできないとここで気づく。
アウトサイダ−ともとれる、教育を受けていないハックでさえ、奴隷制度に便利な考え(黒人を逃がすことは罪であるとすること)を本当に正しいことであるとしているのだ。

手紙を書こうと決め、心が軽くなり"I felt good and all washed clean of sin for the first time I had ever felt so in my life, and I knowed I could play, now…. "(P.222 l.42)と感じるハックだが自分とジムの今までの旅を思い返し、ジムの言った言葉、"he …said I was a best friend old Jim ever had in the world, and the only one he's got now" (P.223 l.9)を思い出す。
ハックは"…because I'd got to decide, forever, betwixt two things, and I knowed it." (P.223 l.13)""All right, then, I'll go to hell"-----and tore it up." (P.223 l.16) と心に決めるのである。

これは絶対的な存在である神さえも認めていることを否定することになる。Everlasting fireに放りこまれることを恐れるがしかし彼は自分の感情に従おうとする。そしてその考えを変えようとは思わなかった、とある。

ジムを失ったハックは、"When I got a little ways…I wished I was dead…the lonesomest sound in the whole world."(P.228 l.38)と感じている。 これは今まで共に旅を続けて来た仲間を失った、という以上にもっと大切な存在を失い、途方にくれている子供のように見える。
一章で夜の闇に怯え、"I wished I was dead"と感じていたハックとは明らかに違い、大切なジムという存在に気づいてしまった後にそれを失った空虚感が出ているように思える。

この二人は時として二人だけの世界(筏の上)における教師と生徒の関係にあるようだ。ジムからハックは黒人が人間であり白人と同じ感情を持つ存在であることを知る。またジムはハックにとって父親のような存在でもある。ミシシッピ川を下る筏の上で、ハックはジムから父性を学びなおし、それを失えば声をあげて泣くこともできる子供になっている。

ハックが逃げ出してくるのはいつでも人間のcivilizeされた世界からであり、逃げ込むのはミシシッピ川に浮かぶ筏の上である。

ハックが二つの考えに引き裂かれる場面、そして地獄へ行くことを決心する場面は、feelingとconscienceのせめぎあいである。ただ感じるままに考え、行動したいと感じる心(natureと言えるのだろうか?)と社会の教える(civilizeされた)道徳の間での激しい戦いであった、と私は考える。そしてその二つはどちらをも選ぶことができるものだ。ハックはあの場面でnatureを選び、civilizeされた世界と決別した、と思える。

自然は、人間に自分の考えを教える存在ではない。ただそこにあり、そこから人間は自分なりの考えのもとに見たいと望むものを見て、何かを教えられるのだ。

自分たちの考えをはるかに超える存在である自然について考える時、ジムは言う。「星は月が産み落としたかけらだ、流れ星は星の卵の腐ったものである」と。私たちはそれを聞いて、そうではない、と思う。でも、本当にそうではないと言い切れるのだろうか。もしかしたらジムは正しく、私たちの知識の方が間違っているのかもしれない。
彼の言葉の説得力は、彼が自分を信じきっていることから生まれるように思う。私たちはそのような確信をもって私たちの知識について語れるだろうか。人から教えられた知識は人の考えでしかない。時にはある特定の人々の利益のために教えられる知識もある。

そこにあるものをあるがまま受け入れ、自分なりに考えること。そしてその考えを人に伝えることは、文明の中においては非常に難しいことのように思える。あたり前に定義されていることの多すぎる世界においては。


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