Seminar Paper 99

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Yukiwo Sakamoto

First Created on December 31, 1999
Last revised on January 17, 2000

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「Adventures of Huckleberry Finnにおける黒人問題」
「トウェインの理由なき反抗」

    はじめに、次のような文章がある。"マーク・トウェインはアメリカ人の独立記念日は、奴隷解放宣言が公布された1863年1月1日だ、と言ったことがある。それは、奴隷解放宣言が、「黒人奴隷を解放しただけでなく、白人も解放した」からだと述べている。"(池上日出夫『アメリカ文学の源流〜マーク・トウェイン』(新日本出版社, 1994p95)私はこのトウェインの言葉に強い衝撃を受けました。白人も何かに束縛され続け、黒人と同様に解放されたというのか。一体、何が白人を束縛し続けたのだろうか。人種問題が黒人と白人の問題だけでなく、当時の矛盾した社会と人間の問題でもあったとは、言えないだろうか。トウェインのこの作品での人種差別問題に関する主張は、登場人物であるハックの行為とけっして無関係なものではないと考えられる。したがって、この作品の中の登場人物からトウェインの主張を探っていきたいと考える。

    第一に、ハックとジムと人種差別について本文中のエピソードをふまえて述べてみたい まず、ジムへのハックの思いとはどのようなものなのかについて。11章でハックが女装をしてロフタス夫人の家から出て、ジムの元へと戻り、ジムに以下のように言った。"Git up and hump yourself, Jim! There ain't a minute to lose. They're after us!" (p.72) この言葉から、急いでいる中でのハックの本心が分かる。ここから分かるのは、追われているジムをかくまっているという犯罪意識や、自分も見つかると困り、元の生活に戻りたくないという自我だけではない。ここでは、genderやrace, classを超えて社会の制約やfictionに対抗しようとするハックの本能が表われていると感じる。ハックは同じ苦難を共にするジムを無意識に同じ人間として受け入れたのではないだろうか。 次にハックの白人優越感について述べてみたい。14章で、ハックが聖書にでてくるソロモン王が子供を2つに切って半分ずつ分け与えたという話をジムと話した時、ジムはこんな風に言った。

It's down deeper. It lays in de way Sollermun was raised. You take a man dat's got on'y one er two chillen: is dat man gwyne to be waseful o' chillen ? No, he ain't; he can't 'ford it . He know how to value 'em. But you take a man dat's got 'bout five million chillen runnin' roun'de house, en it's diffunt. He as soon chop a chile in two as a cat. Dey's plenty mo'. A chile er two, mo'er less, warn't no consekens to Sollermun, dad fetchhim! (p.88)
このようなジムの判断に対してハックは「的が外れている。ソロモンをこんなに攻撃する黒人は初めてだ。」と思う。このギャップは単に、白人と黒人の意識の違いではなく教育の違いから生じたと言える。ハックはnature的な考えを好むとはいえ、ソロモン王のエピソードについては、信心深いダグラス未亡人の話を無批判に受け入れていることが分かる。一方ジムは、自分の子供や妻を奴隷として売られてしまっている奴隷ゆえに、人間の子供の大切さを知っているのである。ここでは、ハックが潜在意識に白人優越の偏見にとらわれている様子もうかがえる。トウェインは、このようなハックの白人優越の愚かさを人々に伝えたかったと考えられる。

    また、ジムの人種感とは、どのようなものなのだろうか。 同じく14章でハックとジムがフランス人の話す言葉について議論している時、「フランス人は自分たちと同じ言葉を話さない」ことを説明するのに猫と牛と人間を比べて、自分たちがフランス人とは違う話し方をする、とハックが主張した。それに対してジムは、「人間と他の動物は話し方が違うのは当然だけど、フランス人はなぜ人間の話し方と違うのか」と主張した。ハックは「黒人に議論の仕方を教えることはできない」として終わりにした。ここではジムが「人種」という概念を理解していない、もしくは理解しようとしていないことが分かる。「人間は動物と違うし、白人に動物扱いされている奴隷も人間の言葉を話しているから人間だ。」というジムの中に秘められた社会への不満と批判がうかがえる。トウェインはこの場面をあえてユーモアとして描写しているが、そこには当時の社会に当たり前のように存在した人種差別を鋭く批判していると考えられる。 次に、ジムとハックを通して分かる、当時のアメリカ社会について述べてみたい。 15章でハックとジムが深い霧に囲まれてハックの筏とジムとが離れ離れになり、お互いが相手を探し、霧が晴れて再会する、というエピソードがある。再会できてジムはハックが溺れ死んだのではないかと心配したと伝えたのに対して、ハックはジムの側にずっと座っていた、とジムを騙すつもりで言う。騙されたと分かったジムは、ハックにこのように言った。"―En all you wuz thinking 'bout wuz how you could make a fool uv ole Jim wid a lie. Dt truck dah is trash; en trash is what people is dat puts dirt on de head er dey fren's en makes 'em ashamed."(p.95) ここでジムはハックのことを友達と言っており、白人と黒人の関係ではなく、人と人の関係を持ちたいと考えるが故に、ハックが自分をばかにし、騙そうとしたことが許せなかったのではないか。私はこのジムの静かな怒りの言葉に、彼が同じ人間として社会に認められたいという意思を感じた。 ジムのこのような反応にハックは次のように言っている。

 It made me feel so mean I could almost kissed his foot to get him to take it back. It was fifteen minutes before I could work myself up to go and humble myself to a nigger - but I done it, and I warn't ever sorry for it afterwards, neither. I didn't do him no more mean tricks, and I wouldn't done that one if I'd a knowed it would make him feel that way. (p.99)
ハックはジムにひどいことをしたと、とても後悔しており、二度とジムにそんな思いをさせたくないと言っている。ハックは次第にジムの人間的な誠実さ、暖かさを知り、「親友」に対するような感情をジムに持つようになったと言える。しかし、ここで気になるのが、謝りに行くのに15分かかっているという点である。私はこの「15分」に当時のアメリカ社会の現実が表われていると考える。その15分のハックの躊躇は、当時のアメリカ社会がハックを止めたとも言えるが、ハックも知らず知らずのうちにそんな社会の一員となっているという現実をトウェインはハックを通して示したかったのではないだろうか。

    もうひとつ、当時のアメリカ社会がうかがえる場面がある。23章でハックがジムについて、次のように述べている。

He was thinking about his wife and his children, away up yonder, and he was low and homesick; because he hadn't ever been away from home before in his life; and I do believe he cared just as much for his people as white folks does for theirn. It don't seem natural, bit I reckon it's so.(p.170) 
当時はやはり、黒人奴隷が白人と同じように家族を思うとは、普通には考えられていなかったであろう。しかしながら、ハックはジムと2人で逃亡する過程で、ジムの人間的な優しさや愛情に触れ、今までの黒人への偏見や、古い白人優越的な物の見方を少しずつ取り去っていったのではないだろうか。ハックのジムへの理解力は、当時のアメリカ社会に対抗するものであり、トウェイン自身の反抗だと捉えることができる。

         第2に、ハックの周りに登場した白人から分かる人種問題について述べてみたい。

    まず、白人トムについて述べてみたい。33章以降、再びトムとハックがジムを盗むために協力することになる。ハックにとって、日曜学校的な行動に縛られているはずのトムが自分に協力して黒人盗みに参加することはとても衝撃的であった。しかし、それゆえにハックはトムを全面的に信用し、服従しようとしたのだろう。ところが、実際にトムがやろうとしたのはただの遊び目的の「冒険」であった。つまり、トムが作戦を練って、その筋書き通りに遊びたかっただけなのである。それがよく表われている場面がある。

 "So in they come, but couldn't see us in the dark, and most trod on us whilst we was hustling to get under the bed. But we got under, all right, and out through the hole, swift but soft ― Jim first, me next, and Tom last, which was according to Tom's orders."(p.277)。
ここにトムがいかに計画を失敗なく上手くやりたかったかがうかがえる。ジムを最初に行かせ、自分が最後に行くという、いわばトムの考える社会的に弱いものの順番とは考えられないだろうか。もちろん、当時の社会を背景とすれば、誰もがこの弱い者順が正しいと考えるだろう。しかしながら、ジムを救う立場であるはずのトムまでもが、こうした白人優越、黒人差別の考えを無意識に実行している点に、ジムを含む当時の人々の矛盾した思想が垣間見える。トウェインは、こういった、人々の心の底に無意識に存在する偏見や優越を鋭く批判していると考えられる。

    次に、白人であるハックの父親の黒人観について述べてみたい。6章で、ハックの父親が政府に批判する場面がある。その中で、オハイオから来た白い肌の混血の黒人で市民権を持っている人物について、彼が自由や選挙権を認められていることにとても腹を立てている。おまけに、その黒人を競売に出して売ってしまえばいい、と考えている。彼は白人文明社会を自ら棄て、自制心を失って堕落した人間であるにもかかわらず、格好よくしている黒人が自分よりも立場が上になることに嫉妬しているのだ。この矛盾に満ちた人種的偏見を持つ情けない人間に、当時のアメリカ社会の屈折した考え方の反映を見ることができる。

    第3に、ハックと彼の良心から分かる人種差別について述べてみたい。

    ハックは文明化された社会や父親の暴力から逃れ、やっと自由を手に入れたようだったが、ジムと行動を共にすることで、より一層の抑圧を受けることとなる。ハックが最大の心理的な抑圧を受けたのは社会によってではないだろうか。それは31章で、王様と公爵がジムを売り飛ばそうとした時、ハックは葛藤の末、

"All right, then, I'll go to hell "(p223)
と言い、ジムを助けることを決意する発言に象徴されている。ジムが黒人奴隷であるが為に、ハックは自分が悪い行いをしていて公正でないことで、良心に苦しめられるのである。しかしながら、この良心という矛盾したものは日曜学校的な倫理がはびこる文明化された社会が作り出した、白人の良心と言える。当時の社会で培われた人種差別と白人優越の偏見や白人の良心がハックを苦しめたのである。

    もう1つ、 ハックと良心との葛藤がよく表われている場面がある。33章で、詐欺を見破られ、住民によってリンチをされる王様と公爵を見て、ハックが心を痛めている場面である。ハックはこの2人を憎む気持ちになれず、リンチという残酷なことを平気でやろうとする人間を見て恐ろしさを感じているのである。

 "a person's conscience ain't got no sense, and just goes for him anyway. If I had a yaller dog that didn't know no more than a person's conscience does, I would pison him. It takes up more room than all the rest of a person's insides, and yet ain't no good, nohow."(p.240)
ここで問題とされている person's conscience とは、王様と公爵をリンチしようとする白人の良心であり、ハックはその良心をもしそれが野良犬だったら、毒殺したいと考えている。ハックはジムと2人で逃亡する過程で、このような白人の良心に心を痛めるようになり、自分もそういう良心を心の奥で持っていることに苦しむのである。

    終わりに、トウェインはこの作品でハックに何を代弁させたかったのだろうか。 私は、ハックについてのトウェインの描写がとても客観的であり、現実的である事にとても興味を持った。というのも、ハックという人物は一方ではジムを同じ人間として受け入れ、「親友」に対するような感情をジムに持ったり、憎いはずである王様や公爵が暴力を加えられている時でも、彼らを気の毒に思ったりしている反面、もう一方では、ジムに対して、当時の大半の人々と同じような白人優位的な偏見を持っていたりするのである。後者の白人優位的な考えが当時の社会では当然だったこと、また、そのような社会では、前者のような考えを心の中で持つ人間的なハックでさえ、立ち向かうのが困難であったことを、トウェインは冷静に描写することで、アメリカ文化・社会の性格を批判していると考えられる。王様と公爵に対するような人々の暴力を許す社会や、一個の人間を人間と認めない差別的な社会そのものが、ハックやジムに心理的暴力を加えたのは明白である。ハックの良心との葛藤も、そうした暴力的に文明化された社会の前にひるむ姿とも映る。つまり、こういった暴力的な文明化された世界にあっては、ハックの人道的な人間性はほとんど成立しなくなってしまうので,$"$k!# ならば、トウェインは人類に失望して当時の社会をありのままに描いたと言うのか。私は、むしろその反対に、ハックや当時の人々の卑しさや醜さを描く中でも、決して人間愛をあきらめようとはしなかった、と考える。それはハックが地獄行きを決心してジムを助けようとする場面に表われている。トウェインは、ハックの心の底に眠っている本来の人間性を強調することで、当時の醜い社会や人々の姿に救いを見出したといえる。彼が社会を批判するのは、そこに人間愛というものが存在する、という前提があるからではないだろうか。


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