言語文化概論

7) 民族と宗教

「イギリスの三枚舌」

  アラブ人の支援のもと、イギリスは191718年にオスマン帝国からパレスティナを獲得した。戦後パレスティナの独立をみとめるというイギリスの約束があったからこそ、アラブ人は反トルコ運動をおこしたのだが、イギリスはほかの国ともそれに矛盾するような協定をむすんでいた。16年にフランス、ロシアと内密にむすんだサイクス・ピコ協定で、イギリスは3カ国でパレスティナを分割統治することを約束したほか、17年のバルフォア宣言では、パレスティナにユダヤ人の地を建設することをユダヤ人に約束していた。これらの矛盾の解決は、22年に国際連盟によってイギリスにみとめられた委任統治にもちこされた。

宗教とは?

  世界には、科学的には証明不可能な秩序が存在し、人間は神や仏などの象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系 

宗教の機能

  合理的には解決できない問題から生じる知的、情的な緊張を解消し、人間に生きがい、幸福を与える役割を果たすものとして期待される。

宗教の道徳的機能

  フランスの社会学者デュルケームは、宗教の「信仰と行事とは、これに帰依するものをすべて教会とよばれるひとつの道徳的共同社会に結合する」と言い、人々を共同体に結合させるその社会性に宗教の本質的機能をみた。

教団(教会)

  信念を同じくする人々が、教会、教団とよばれる共同体を形成する。

   僧侶のような、教義を教え・広める役割を負うとする職業的集団を含む場合がある。

民俗宗教と世界宗教

  民族宗教:特定の地域や民族に根ざした宗教(ゾロアスター教,古代ユダヤ教,ヒンドゥー教,道教,神道など)

  世界宗教:地域や民族の違いを超えてひろがった宗教(仏教,キリスト教,イスラム教など)

宗教の分類

  ほかの二分法:多神教および汎神教と一神教,原始宗教および部族宗教と高等宗教

  二分法的な類型化には,〈キリスト教〉対〈非キリスト教〉あるいは〈文明の宗教〉対〈未開の宗教〉といった対立の観念が前提とされ,西欧中心の価値観が横たわっていた。

比較宗教学による類型化

  F. M. ミュラーによって創始され、M.ウェーバーにより継承・発展された。

  ウェーバーは,宗教の生成発展を社会の階層や政治・経済的な利害に連関させて考えた点でマルクスと共通していたが、広く世界の諸宗教をその内面から比較しつつ類型化を試みた点ではミュラーの方法を継承した。

カリスマ

  世俗外宗教と世俗内宗教,神秘主義と禁欲主義,達人(カリスマ)宗教と大衆宗教などのように二分法的な理論枠組みが目だつが、中でも重要なのは宗教を〈使命預言型〉(キリスト教)と〈模範預言型〉(仏教)の二つに分ける考え方である。

宗教心理

  個人の内側から把握しようとする流れ

   C. G. ユング(S.フロイト門下):宗教経験を普遍的(集合的)無意識に関連づけて,むしろ積極的に評価、原始以来の民族的な経験が心の深層に集積されて宗教意識の母胎をなし,それが精神の成熟にも深く関与していると考えた。

宗教心理学

   E. H. エリクソンなどは、神学者の R. オットー、文化人類学者の B. マリノフスキーや A. R. ラドクリフ・ブラウン、アメリカにおける宗教心理学の基礎を築いた E. D. スターバックや W. ジェームズ、フロイトの流れとアメリカ心理学の伝統を統合した形で,宗教に対する新しい見方を打ち出した。

.  デュルケーム

   一定の地域や民族のうちに観察される宗教的な諸現象(社会的な行為および表象を社会の全体のなかでとらえようとした。

  デュルケームによると、トーテミズムとは,ある社会集団と特定の動・植物との間に血縁関係に酷似する関係をみとめる社会制度

儀礼・祭祀・象徴・神話

   デュルケームは、社会的な生活を聖の領域と俗の領域に分け,聖領域との間に交わされる共同体の諸関係を至上命令として自己に課するところに宗教行為の源泉があり、宗教儀礼は共同体や社会の連帯を強化し,かつその成員を統合するのに役だつと考えた。

マリノフスキー、ラドクリフ・ブラウン、C.レビ・ストロースなど

  社会人類学や文化人類学の分野で、デュルケームの考え方は継承され,一般化された

  万物に霊的存在(アニマ)を認めるアニミズム(E. B. タイラー)

  万物に呪力(マナ)を認めるアニマティズム(R. R.マレット)

  憑霊と脱魂によって他界との交流を重視するシャマニズム(M. エリアーデ)

世界の三大宗教

仏教とキリスト教とイスラム教

  開祖:釈迦、イエス、ムハンマド(マホメット)

 仏教:紀元前5世紀にヒンドゥー教から出た

 キリスト教:1世紀にユダヤ教から分かれた

 イスラム教:7世紀にアラビアの民族宗教からユダヤ教とキリスト教に刺激されて生まれた。

仏教の特徴(1)

(1)ゴータマ・ブッダの教えに基づく阿含(あごん)経典のほかに、それの数倍もの大乗諸経典が、ブッダの滅後数百年を経て出現した大乗諸仏により創作されて、聖典の数は膨大となる。

(2)ブッダと大乗諸仏とに対する敬慕―崇拝は、心情においては同一であっても、形式や内容がかなり異なる。

(3)いずれもいわゆる「神」を立てない。覚りと救済のよりどころとして仏を無限に理想化するけれども、創造者・征服者の性格は仏にはない。とりわけ大乗の仏とその候補者ともいうべき菩薩は、その数がしだいに増大し、汎神論的(そして逆に無神論的)な傾向を帯びる。

仏教の特徴(2)

(4)覚り―智慧(ちえ)が最初期の仏教には強く、やがて仏教徒の救済祈願が反映して、慈悲が強調される。その慈悲は、しばしば愛に付随する憎しみや恨(うら)みを払拭(ふっしょく)しており、無償に終始する。

(5)現実(の苦)に即した教えをさまざまに説き、それは現実そのものの多様に応じて、教説も多種多彩に展開し、これを「対機説法」「人を見て法を説く」「八万四千の法門」などとよぶ。逆にいえば、教条的なドグマは存在せず、異端もありえない。

(6)寛容宥和(ゆうわ)がみなぎり、一般的に狂信的態度は薄い。ただしときに放恣(ほうし)に流れやすい。

仏教の特徴(3)

(7)その人自らの行い(心、ことば、身体的行為)をことに重視する。その際、すべてに欲望や執着を離れたあり方が「無我」として強調される。

(8)いっさいを時間的に切る「無常」と、また空間的に結ぶ「縁起」とが軸となり、やがては実体的思考を廃する「無我」説と相まって、「空(くう)」の思想を完成する。

(9)あくまで平安であり、乱されることのない覚りを得て、解脱(げだつ)が達成され、寂静(じゃくじょう)そのもののニルバーナ(涅槃(ねはん))を理想とする。

キリスト教

  イエスの教えの中心は愛(アガペー)である。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神を愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」(「マタイ伝福音書」223739。「ルカ伝福音書」1027)。この二つの愛に、イエスの神観、人間観のすべてが要約されている。

イスラム教

  西暦7世紀の初めにムハンマド(マホメット)が、アラビア半島のメッカで唯一神アッラーの預言者として創唱した宗教。ユダヤ教、キリスト教の流れをくむ一神教である。わが国ではマホメット教、回教(かいきよう)、中国では清真教、フィフィ教ともよばれてきたが、これらの呼称は今日ではあまり用いられない。

ムスリム

  聖典コーランには「わたし(神)はイスラムを汝(なんじ)らのための宗教として認承した」(標準エジプト版、53節)と述べられている。元来、アラビア語の「イスラム」(より厳密には「イスラーム」とは、「(神の意志や命令に)絶対帰依(きえ)・服従すること」を意味した。のちには、広くそのような帰依の仕方を制度化した文化的社会的複合体をさすことばとなった。ちなみに、イスラム教徒を表す「ムスリム」とは、元来そのように「帰依した者」を意味したのである。

その他の宗教

儒教、道教、ヒンドゥー教、ユダヤ教: 民族宗教的色彩を脱しきれなかった。

ゾロアスター教、マニ教:他宗教との 抗争に敗れた。

日本人の宗教観(1)

  仏教、儒教、キリスト教という外来の世界宗教を受け入れながらも、民族宗教としての神道もまた絶えなかった(信仰の共同体が家族とか村という集団と合致)。

  

日本人の宗教観(2)

  仏教は家の宗教となることにより、超越的原理を失い、家の存続の象徴である祖先崇拝にかわってしまった。

  神道は、宗教自体の目的よりは集団の目標が優先する価値体系として機能している。個人の信仰を強調するキリスト教は、量のうえでは大きな発展は遂げなかった

神仏習合

  神道(しんとう)信仰と仏教信仰とを融合調和すること。習合とは、本来相異なる教義・教理を結合また折衷することであり、本地垂迹(ほんじすいじやく)説がそれにあたる。よって、厳密な意味でのわが国での神仏習合は、10世紀初期よりのち1868年(明治1)までに存したものであり、それ以前は単に神仏調和とでもいうべきであろう。

神仏分離令

  1868年、王政復古の実現とともに、復古神道(ふつこしんとう)を基礎理念とした明治維新政府が発令したいわゆる神仏判然令(神仏分離令)によって神仏が分離されるまで、神仏習合した信仰や思想は、国民の間に広く浸透していたのである。

国家神道

  近代天皇制国家がつくりだした一種の国教制度。国家神道の思想的源流は、仏教と民俗信仰を抑圧し、記紀神話と皇室崇拝にかかわる神々を崇敬することで宗教生活の統合をはかろうとした。

廃仏毀釈

  1868年(明治1)3月には神仏分離に関する一連の法令がだされ、それ以後全国的に神仏分離と廃仏毀釈が行われた。69年には宣教使がおかれ、翌年には大教宣布の詔が下され、祭政一致のイデオロギーによる国民教化の方針がいっそう明確にされた。

天長節

   東京招魂社(のちの靖国神社),楠社(のちの湊川神社)など新しい神社がつくられ、天長節、神武天皇祭などの祝祭日を定めて、全国的に遥拝式が行われたりした。

 

仏教の抵抗

  仏教の完全な排除には執拗な抵抗があり,仏教の国民生活への定着は度外視できなかったから,72年には教部省と大教院を設け,教導職の制度を定めて僧侶も教導職に任命し,仏教や民俗信仰から生まれた講社なども組みいれた宣教体制がとられた。

神道の体系

  全国の神社は伊勢神宮と宮中三殿を頂点として整然とした位階制に編成されており、神社においては国家の定めた祭祀が行われ、祭祀の様式も国家によって統一的に定められていた。神職は国家の官吏ないしその待遇をうける存在であり、すべての国民は特定の神社の氏子であった。

国教分離指令

  1945年12月15日,連合国総司令部は,いわゆる神道指令(国教分離指令)によって,神社に対する特別の保護の停止,神道施設の公的機関からの撤去などを指示し,国家と神道との完全な分離を命じた。翌年の元日には天皇の〈人間宣言〉がなされ,つづいて神道関係法令が廃止されて,国家神道は完全に解体した。

靖国神社

  1853以来の国事殉難者、戊辰戦争の戦没者に加え、西南戦争の戦死者をはじめ、以後日本の対外戦争における戦死者を〈靖国の神〉となして国家がまつった。

  靖国神社は日清・日露戦争を経て戦死者が増大するにつれ、広く一般に浸透した。氏子をもたない靖国神社は、国家が戦争による死を〈国家隆昌〉をになったものとして意義づけて〈靖国の神〉となし、死者によせる遺族の心情を国家に収斂(しゆうれん)する場であったといえる。その意味で、日本の軍国主義と密接な関係をもった神社と見られるのである。

靖国参拝問題 (1)

 靖国参拝問題(2)

1978年、A級戦犯を合祀。

1985年 中曽根首相公式参拝。翌年から断念。

1992年 大阪高裁で違憲の疑い指摘。

2004・05年 小泉首相の公式参拝違憲判決。(福岡地裁・大阪高裁)

2006年 昭和天皇の「A級戦犯合祀不満」発言のメモ公表。小泉首相8月15日参拝。

2007年 安倍晋三首相、大祭に供物。

おわり

学んだことをレポートに!また来週!!!