言語文化概論
( 8)民族
と国家
民族と国家
民族:言語・文化を共有する集団
国家:政治的単位
民族の形成
民族の形成には、主な構成要素がそろい、文化的共同体ができるだけでなく、意識共同体としても成立することが必要な要件である。
日本民族
日本民族の場合、この観点から、奈良時代の初めごろが重要な時期だと考えられる。その理由は二つあり、第一は、古墳時代以来の政治的統合の進行に伴い、日本列島の大部分の住民が単一の国家に属するようになったことである。第二は、異民族との対決である。
民族 Ethnos
民族とは、地球上の人間集団を弁別するカテゴリーのひとつである。混同されることの多い人種が生物学的概念であるのに対し、民族は文化にもとづく概念であり、一般に、共通の出自観、言語、生活様式、宗教などの文化的属性を共有し、「われわれ意識」にささえられた集団のことをいう。
民族意識
〈われわれ何人(なにじん)〉という意識は、われわれ以外の他民族と接触することによって生じ、成長する。特にその接触が摩擦、ことに武力による対決を含んでいるような場合に、共属意識は尖鋭となり高揚するからである。
民族国家
民族を基盤として成立した近代国家。資本主義が成長し始めると、統一された市場の存在が必要となり、政治的には、絶対君主のもとでの国家統一が行われた。しかし、こうして成立した絶対主義国家ではまだ民族的統一が不十分であり、資本主義の発展に伴って民族的統一が確立し、民族国家が成立する。
国民と民族
日本では、明治以来、国家としての統一体をなす人間集団をさす用語として導入された民族、民種、種族、国民などのうち、「国民」とともに生きのこった言葉が「民族」で、長いあいだ「国民」と同じ意味につかわれてきた。また、「民族」と「種族」の混同もみられた。ヨーロッパやアメリカにおいても同様で、人々が国家の枠組みにはめこまれていった近代国家形成期や単一民族国家の幻想が横行していた時代には、英語でも国民と民族は、nationやpeople、さらにはrace(人種にあたる)とよばれ区別しなかった。
近代国家の成立
一般には、17、18世紀のイギリス革命やフランス革命以後の近代社会・近代世界に登場した民族国家をいう。その意味では、現代資本主義国家、社会主義国家、発展途上国なども広くその範疇に含められる。
都市国家・近代国家・封建国家
近代国家は、ギリシアの都市国家、中世の封建国家、あるいは市民革命前の絶対主義国家とは、政治原理や政治運営の方法においてその性格を大きく異にする。
近代国家の政治原理
近代国家の政治原理としては、主権は国民にある(国民主権主義)、政治は国民が選出した代表者からなる会議体(議会)の制定した法律によって運営される(法の支配)、国民の権利・自由は最大限に保障され(人権保障)、そのためには民主的政治制度(代議制・権力分立)の確立を必要とするなどがあげられる。
近代国家の政治思想
近代国家の論理や政治思想は、ホッブズ、ハリントン、ロック、モンテスキュー、ルソーなどによって体系化されたものである。
他民族支配
歴史上、政治的な支配・被支配の構造が成立すると、被支配民族の言語が抹殺され、支配民族の言語に統合されていくことが起こった(戦前の日本の朝鮮人に対する日本語強制=皇民化政策、イングランドのスコットランドやアイルランドに対する支配の中でのゲール語の抹消政策、今日のアイルランド共和国ではゲール語を日常的に話す住民の数は、人口比2%弱というありさま)。
ある民族が支配・被支配の関係のなかで、別の言語を受け入れ、統合されていった場合、民族が消滅したといい得るのか?
エスニシティ(民族集団)
エスニック集団
「民族国家」内での紛争の顕在化
民族の客観的条件:
文化・言語・人種・祖先などの同一性
民族の主観的条件:
客観的条件のいくつかの共有のほかに
「われわれ」意識
多民族国家
複数の民族を基盤にして国家が成立する場合も多く、これを多民族国家といい、そのなかでの支配的民族と被支配民族の対立が民族問題として登場した。
エスノクラシー(民族支配)
一般に,多数派 majority ないし支配的なエスニック集団は,自己を民族(ネーション)と同一化するか,逆に民族を自己と同一化する。エスニック的に異種混合的な社会(現実には世界の過半数にみられる)にあっては,あるエスニック集団による他の一つないしそれ以上の集団の支配をもたらす。この場合,従属集団は少数民族であり,このようなエスニック集団間の支配体制を〈エスノクラシー
ethnocracy〉と呼ぶ。
多数派による支配
支配的エスニック集団が数的にも優勢な社会では,エスニック集団間の関係は〈少数派問題minority problems〉としてあらわれる。たとえば,アメリカ合衆国では,ワスプ多数派(WASP=白人,アングロ・サクソン,プロテスタント)は支配的な文化的イデオロギーの鋳型を規定し,それ以外の者(黒人,ラテン系ないしスペイン語系,東洋系)は,すべて少数民族であると同時に少数派集団である。
少数派による支配
支配的エスニック集団が数的に劣勢なエスノクラシーもみられる。以前の南アフリカ共和国の白人はその典型であり,ボリビア,グアテマラでは,メスティソかスペイン人の末裔(まつえい)が数的に劣勢な支配的エスニック集団であって,数的に優勢なのは先住インディオである。この場合,多数派集団はインディオであり,メスティソとスペイン人は少数民族となる。少数民族は,かならずしも支配の対象になるとは限らない。
少数民族
民族国家 nation‐state を形成していない,人口比率において少数派
minority のエスニック集団(ある民族=nation に所属し,共通の言語,共通の慣習や信仰,さらには文化的伝統をもった,他と異なる成員)をいう。
民族問題の発生
民族問題の発生は、民族というものを意識し始めた18世紀後半以後ということができる。
民族問題の条件と形態(1)
(1)政治的イデオロギーや宗教的対立によって、同一民族(あるいは同一エスニック集団,以下同様)が2つの国家を形成する場合
(2)多民族国家内での多数派・支配派民族による少数派民族の支配・抑圧による場合
民族問題の条件と形態(2)
(3)多民族国家内での、少数派民族の多数被支配集団支配・抑圧から生ずる場合
(4)植民地・従属国の先住被支配民族と宗主国支配集団との間に生ずる場合など
ナショナリズムの多義性
その多義性は,それぞれのネーションや、ナショナリズムの担い手がおかれている歴史的位置の多様性を反映している。あえて一般的な定義をすれば,自己の独立,統一、発展をめざすネーションの思想と行動を指す。こうしたナショナリズムは,政治的であるだけにとどまらないが,政治的であることなしには成り立たない。
ナショナリズムの三つの型(1)
第1は政治・経済的先発先進国の場合で,イギリスがその代表例である。ここでは絶対王政を軸とした主権国家形成が先行し,それから文化的民族統一がなされた。英語の
nation は国家と同意義であり,現実には国家は帝国を意味していた。
ナショナリズムの三つの型(2)
第2の型は政治・経済的後発先進国で,ドイツ,イタリアなどがその例である。ここでは文化的民族の形成統一が先行し,それが統一国家形成を追求する主体となった。ここに,第1の型を追い上げる運動としてのナショナリズムが生まれる。その意味ではナショナリズムは後発国のイデオロギーであるといってよい。
ナショナリズムの三つの型(3)
第3の型は、近代において植民地化された社会である。この場合には、宗主国によって刻印された非主権的な統治機構が先行し、それに抵抗して文化的民族の形成や復権が主張されることになった。上からの統治機構の設定が先行し、政治の単位と文化の単位が一致しないという点で,第1と第3の型には共通性がある。
植民地とナショナリズム
ただ第1の場合には土着の支配的民族が国家形成を推進して統治機構を支えたのに対して、第3の場合には統治の枠組みは外来のものである。したがって、この枠組みに対して国境が画定された新興独立国家には、その国家に対応する土着民族が必ずしも存在せず,国家独立後,誰が支配的民族となるかをめぐって伝統的文化共同体や部族間の激しい対立・闘争が展開され、〈民族なき国家〉の様相を呈することが少なくない。
近代以前の植民地
近代以前には,植民地という言葉はおもに,ある集団か,その一部が従来の土地を離れて新たな地域に移住し,そこで形成する社会を意味した。
19世紀以降の植民地
19世紀になるとヨーロッパ国家によって政治的・経済的に支配された地域をも意味するようになり,19世紀末以降は属領や移住植民地のみならず列強の帝国主義的な進出をうけた地域は,保護国,保護地,租借地,特殊会社領(帝国イギリス東アフリカ会社など),委任統治領などの法的な形態を問わず植民地と考えられるようになった。
第一次世界大戦
第一次世界大戦は、1914年から18年まで、計25か国が参加してヨーロッパを主戦場として戦われた戦争である。
第一次世界大戦の原因
19世紀末〜20世紀初め、ヨーロッパ諸大国が三国協商(イギリス、フランス、ロシア)と三国同盟(ドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリア)の敵対する2大陣営に分裂し、この2大陣営間で植民地獲得をめぐる対立がおき、イギリス、ドイツ間の建艦競争に代表される軍備拡張競争が激化したこと、オスマン帝国の衰退にともなってパン・ゲルマン主義とパン・スラブ主義とのはげしい民族主義的対立がバルカン半島を舞台に出現し、それぞれの盟主であるドイツとロシアの衝突による2大陣営間の大紛争が生じる危険が高まっていたこと、などがあげられる。
第一次世界大戦の契機
国際緊張が高まるなか、1914年6月28日にボスニアの首都サラエボでセルビア人青年プリンツィプがオーストリア・ハンガリー帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺するという、いわゆるサラエボ事件が突発した。オーストリア・ハンガリー政府は事件をセルビアの陰謀と断定し、自国をおびやかすセルビアをうちたおす決意をかため、ヨーロッパ戦争の危険が急浮上した。オーストリア・ハンガリーのセルビア攻撃はセルビアを支援するロシアの介入を、ロシアの介入はドイツのオーストリア・ハンガリー支援をまねき、その結果、ヨーロッパ諸国は2大陣営にわかれて対決する恐れが現実のものとなった。
第一次世界大戦の終結
ドイツ軍の敗北は、厭戦気分が高まり反戦平和をもとめていたドイツ国内で革命をよびおこした。1918年11月3日のキール軍港での水兵反乱を契機に革命の嵐はドイツ全土をおおい、11月9日に皇帝ウィルヘルム2世は退位してオランダに亡命、帝政は瞬時に崩壊した。この混乱の中で社会民主党の党首エーベルトを首班とする共和国政府が樹立された。戦争をおわらせ、国内秩序を回復するため、共和国政府は連合国との休戦をもとめ、休戦使節団を派遣した。11月11日、ドイツ使節団代表エルツベルガーはパリ北方のコンピエーニュの森で連合国との休戦協定に調印し、4年3カ月余りにわたった西部戦線での戦闘は終結した。
国境と独立
第一次世界大戦後、民族自決主義が国際政治の原則として掲げられ、東ヨーロッパにおいて新しい独立国が生まれ、国境も改定された。
しかし、それらが戦勝国の利害に左右されたので、多くの少数民族問題を生じ、とくにドイツ民族をチェコスロバキアやポーランドにおいて少数民族にとどめたことは第二次大戦発生の口実を与えた。
第二次世界大戦
第二次世界大戦とは、一般には、1939年9月の英独戦争に始まり、41年6月の独ソ戦争、同年12月の太平洋戦争を経て、45年5月ドイツの、同年8月日本の降伏で終わる戦争をいう。
第三世界
第二次大戦後、それまでの植民地諸地域は独立して新興諸国となり、いわゆる第三世界を形成した。第三世界は、その歴史的沿革と独立の様態から、実に多種多様な民族問題を抱えている。
第三世界の民族問題(1)
まず、国境の画定がエスニシティの分布と一致していないところが多いことである。旧植民地から独立した第三世界の諸国は、その地域住民の意志とは無関係な旧宗主国の領域を継承しており、このことが紛争の原因となっている。
第三世界の民族問題(2)
次に、民族という意識が成熟していない地域が多いことである。部族性や宗教・言語など、どれをとってもヨーロッパの民族国家というパターンでは割り切れないところが多いのである。またインドのような多民族国家の統合がはたして可能かどうかも問題である。
エスニック集団と国家
〈さまざまな国に住み,さまざまな環境にかこまれている人々が,それぞれの集団の特異性とアイデンティティの意義を主張し,さらにこの集団の性格から派生する新しい権利を主張する傾向が,明確な形をとり,また急速に増大する状況が存在している〉(グレーザー,モイニハン)。定義の規準しだいでは,300〜600のエスニック集団が存在する。国連加盟の独立国は150を超えるにすぎない。
民族自決権
植民地として支配されたアジア・アフリカでは民族国家の成立が暴力的に妨げられていたが、第二次世界大戦のあと次々に政治的独立を達成した。しかし、ここで成立した国家は、植民地時代に人為的に引かれた境界をそのまま国境とするなど、植民地時代の遺産によって不合理な要素を含んでおり、民族自決権の確立、民族国家の形成がまだ課題として残されている。
おわり
学んだことをレポートに!また来週!