忽滑谷愛紀(2006年英語学科卒業)
留学場所: Shawnee State University(アメリカ)留学期間: 2003年8月~2004年6月
留学形式: 長期交換留学
<志望動機>
今回、私はアメリカのオハイオ州立大学のうちの1つ、Shawnee State Universityで1年間勉強をしてきました。 以前、高校時にも2年間アメリカでの留学を経験しましたが、英語への更なる向上心、また今度は英語力だけではなく英語を手段として何か別のものを学びたいという想いが募り、もう一度大学への長期留学を希望しました。前回の経験により、海外留学をするための経済的負担が大きいのも理解していましたし、また自分がどこまで沢山のことにチャレンジできるかを試してもみたく、今回の留学は必ず奨学金を得て行くと決めていました。大学1年の夏から奨学制度のリサーチを始め、帰国後就職活動に支障が無いように2年次での留学を目指しました。そして運良く、埼玉県が支援してくださっている、埼玉県オハイオ州姉妹提携記念スカラーシップを頂くことが出来ました。
<大学の様子>
シャウニー州立大学は、埼玉県の姉妹州であるオハイオ州の一番新しい州立大学で、とてもきれいな大学です。10年ほど前まではコミュニティーカレッジだったこともあり、まだまだ小さな大学ですが、その分クラスは少人数制で、生徒と教授の交流も深く、みな親切です。また場所としては小さな田舎町にあり、娯楽が多くある場所ではありませんが、自然が沢山あふれ、また日本人も少ないです。私が行った時には、自分を含め日本人生徒は3人しかいませんでした。日本人生徒がいると必要以上に仲良くなってしまい英語の勉強への妨げになる傾向があるので1人もいない方がいい、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、誰も知らない、何も知らないという新しい土地に来て、親身に色々力になってくれる日本人の方が少しいることは、決して悪くない、むしろ大変心強い事だと私は思いました。そして、大学全体で留学生は十数名おり、私たち日本人の他に、ベトナム、韓国、ブラジル、チリ、スペイン、ケニアなどから学生たちが来ていました。シャウニー大学はまだ新しく、留学生の生活を全面的にサポートしてくださる専属の方はいらっしゃいましたが、留学生同士のコミュニティーというようなものは、まだあまり充実していませんでした。けれども十数名という留学生の数ですから、自然と皆とても仲良くなり、一緒に遊ぶことも多かったです。
<普段の生活(秋学期)>
9月から秋学期が始まってすぐ、私は無謀にも300番台のクラスを1つ取りました。Geography in Middle Eastです。もともと“英語を読む”という事は苦手だった私には分厚い教科書を読まなくてはならない事がとても大変でした。そこで紹介されたのがチューターサポートです。すでに授業を取った事があり、なおかつ成績がB以上だった生徒がチューターとして、そのクラスで苦戦している生徒(まさに私!)のために個人的に勉強を教えてくれるのです。これは大学内でのアルバイトになっています。しかし結局、私はそのサポートを受けませんでした。それは、もちろん授業についていける自信があったからではなく、単に教科書や資料を読むのがとても遅かったので、マイペースにこつこつと期末テストまでに皆に追いつくよう頑張ったのです。そして、大胆にも逆に私が数学のチューターをやることになりました。日本人は高等学校教育までに習う数学の範囲がアメリカより断然広く、レベルも高かったので、そこの大学で数学のクラスは1つも取っていませんでしたが、Algebra(関数など日本の高校2年生程までのレベルです)程度のクラスでしたら、チューターをさせてもらっていました。私はケニアから来た留学生の数学を教えていました。おかげで彼女とはとっても仲良くなりました。けれどもさすがケニア人、お酒が強いのです。いつも飲んでいるのはビールかヴォッカかテキーラで、勉強よりもバーに行って飲まないかとよく誘われました。
<冬休み>
冬休みはあっという間にやってきて、そして思った以上に長かったです。他の留学生の方々の体験談でも、お休みの間は友達に誘われてそこのお家にスティしていたとか、旅行に出掛けた、などのお話を良く聞きますが、私は冬休みの予定を全く考えていなかった上に、当初人見知りで友達が余り作れなかったので、誰にも誘われませんでした。ベトナムから来た留学生は同じ寮の部屋の子のお家に行くと聞いて、すごく羨ましかったのを覚えています。実際冬休みは1ヶ月半ほどあり、寮の生徒はみな追い出されてしまうので、どうしようか迷った末に、以前高校の時にホームステイをしていたミシガンの家族のところへ行く事にしました。
私の元ホームステイ先もとてもゆったりとした田舎町にあり、特に宿題もなかったのでのんびりと過ごしました。時間が沢山あり、日中は本をいっぱい読んで、家の掃除をし、犬や猫と遊んだりしていました。夕方ホストシスター達が学校やアルバイトから帰ってくると、買い物や映画、ボーリングに行ったり、または親戚や高校の時の友達を訪ねたりしました。夜は庭(と言ってもただっ広い草原ですが・・)でキャンプファイヤーをしてお酒を飲んで、マシュマロを焚き火で焼いて、世間話をして・・・と、とにかくのんびりと過ごしました。また、冬休みでしたのでクリスマスもあります。これは毎回の事ですが、クリスマスショッピングには燃えました。アメリカのクリスマスシーズンは1年で最大のセールをするのです。どこもかしこも大セールで、私はこの時期が大好きです!私は日本での買い物は余り好きではないのですが、アメリカではどんどん買ってしまいます。その理由の1つに、クリスマスセールでは日本と比べ物にならない程、値段が下がるからなのです。また家族の1人1人に合ったプレゼントを用意するので、それもまた楽しみの1つです。のちのち自分がいくら使ったかを計算してびっくりして毎回反省するのですが・・・、次の年には忘れてしまうのですね。
<大学に戻って(冬学期)>
冬学期には、EnglishやSociology、Speechのクラスの他に、気晴らしにピアノのクラスを取りました。ピアノは小さい頃習った事があったのですが、中途半端に辞めてしまったので、常にいつかまた時間を作って習い始めたいと思っていました。1番仲の良かったブラジルからの留学生(モニカ) は、ピアノが上手で一緒に授業を取りました。彼女は私よりも3つも年下なのですが、しっかりしていて誰よりも思いやりがあり、それでいてブラジル特有の明るくさばさばした性格の持ち主で大好きでした。私達はお互い留学生で、思うこと悩むこと、共通するものが多く、沢山話し合いました。私達のつたない英語でもお互いに最後まで聞きあい、理解しあうよう思いやることが出来たので、彼女はオハイオでもっとも信頼できる友達の1人でした。モニカは寮に住んでいなかったので、学校内で会うのがほとんどだったのですが、授業後図書館で落ち合って、彼女のバスが来るまで何時間もおしゃべりをするのが日課でした。
その後、私は中古車を買いました。やはり田舎の地域では車がないとどこに行くにも不便なのです。いつもは日本人留学生の1人が車を持っていて、彼に送り迎えを頼んでいましたが、彼は3月に大学を卒業する予定だったので、交通の便がなくなってしまうと思い自分で中古車を買ってしまいました。その後は、モニカのお家にも自分で行けるようになったため、授業後も良く一緒に遊ぶようになりました。また行動範囲が広くなり、学校外でのアルバイトやインターンも始めました。(それは後ほど書きます。) それから、車で片道2時間かかるのですが、州都のコロンバスへも良く出掛けました。コロンバスには日本食品店があり、お米などちょっとした日本食や、日本のテレビ番組のビデオなどを借りに行きました。またミシガンのホストファミリーのお家へは、その後2回、今度は自分の車を運転して訪ねました。たまたまミシガン州とトオハイオ州は隣りあわせだったので、1年のうち合計3回も遊びに行ってしまいましたが、あそこの家族とは今まで以上に交流が深まり良かったです。それから中古車を買う時は、日本車を買う事をお勧めします。私はどうせ6ヶ月だけだと思い、安いアメリカ製の中古車を買ったのですが、結局あちこちが壊れ始め、修理代がとてもかさみました。ブレーキが古くて変な音がしたり、車の底からオイルが漏れていたこともありました。今思い返すと恐ろしい車に乗っていたと思います。
<課外活動(春学期)>
最終学期に力を入れたのは、アルバイトとインターンシップでした。アルバイトはイタリアンレストランと大学内の幼稚園のアシスタント、そしてインターンシップは老人ホームで行ないました。以前日本でホテルのアルバイトをしていたため、接待業は割とすぐに慣れました。そこのレストランは、ファーストフードとファミリーレストランの中間で、基本的にチップの制度はありません。しかし、何度かお客様が直接私のところまでいらしてチップをくださったことがあり、その時は本当に嬉しかったです。そのチップはまだ使えずに取っておいてあります。一生の思い出です。
また、幼稚園でのアルバイトもとても楽しかったです。仕事は基本的には、子供達の安全を守りながら一緒に遊んで、また団体生活の上でのルールや躾を教える、といったようなことでした。全体で3歳から5歳までの子供達が通っていました。私は末っ子で、下の子の面倒を見るという経験がなかったため、初めはどぎまぎしていたのですが、母親になる前にいい勉強をさせてもらったと思います。子供達とは沢山おしゃべりをしました。たまに、私の英語の発音を4、5歳の子供達に直されたりすることもありましたけど・・。なかなか珍しい体験をしてきました。 最後に、老人ホームでOmbudsmanとう苦情調査官の仕事もしてきました。これは初めに2週間ほどの講義とテストを受け、その後自宅近くの老人ホームを訪れ、個人的に調査をするものでした。仕事の目的は、老人ホームの患者さんが適切な環境の中で、適切な権利を与えられているかを調査することです。この仕事は精神的にとても大変でした。患者さんからの要望があって老人ホーム側にお話をしても、患者全員の要望は聞き入れるのは無理だと跳ね除けられてしまうこともありました。また患者さんとのお話しする時に、軍人と話すような返事をされ警戒されてしまったり、いつもいつも何かしら違う文句を言ってくる患者さんもいたりと、本当に大変な仕事でした。けれども、これもとても良い経験になったと思います。
春学期は、これら3つの仕事をしていたうえに学校の授業もあったので、精神的にいっぱいいっぱいで、かなりストレスがたまり不機嫌になってしまうことも多々あったと思います。私にとっては精一杯だったのですが・・。しかしモニカを含め、仲の良い友達は私の忙しい環境を理解し、いつも優しく接してくれました。とても嬉しかったし心強かったです。この時私は、いつでも、どこにいても人は助けられながら生きているのだと、痛感しました。
<最後に>
以上のように、今回の留学では大学での勉強以外にも沢山の経験をしてきました。友達も、今後お互いどこの地にいようとも交流を続けていきたいと思える大切な人たちと出会うことが出来ました。そして色々な経験を通し、社会へ出る若者として少し成長できたのではないかと思います。大学での生活や授業などについてはあまり触れませんでしたが、今回私は1年間という限られた時間の中で、自分から手を伸ばせば色々な事が出来るのだということを伝えたかったのです。もちろん大学の勉強にも力を入れましたし、大変な時も多々ありました。しかし、今回はあえて私の珍しい体験や楽しかったことを中心に書きました。これから留学なさる方は、もうすでに日本を離れ外国の地まで自らの手を伸ばしているのです。そこの新しい地でも、さらに挑戦できることは沢山あると思います。是非色々なことを体験してきて欲しいと思います。また、埼玉県庁の方々には貴重な経験をさせていただき心から感謝しております。これからもこの留学で学んだ事を忘れずに、色々な事に挑戦していきたいと思います。本当にありがとうございました。