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バーナード・マラマッドの処女作: "Benefit Performance"と "The First Seven Years" 島田啓一 序
1943年にThreshold誌の2月号に掲載された「慈善公演」("Benefit Performance")はアメリカのユダヤ系作家バーナード・マラマッド(Bernard Malamud, 1914-1986)の活字になって雑誌に掲載された彼の最初の短編小説であり、その意味ではマラマッドの処女作と言える。しかし、この作品はマラマッドがその後発表する短編集のいずれにも所収されることはなく、マラマッドの死後、彼の編集者を長年に渡って務めたRobert Girouxが1989年に遺族の承諾のもとに編集し出版したThe People and Uncollected Storiesに初めて所収されたのだった。1943年にマラマッドは 「慈善公演」以外に3編の短編小説、 "The Place is Different Now"、 "Steady Customer"、 "The Literary Life of Laban Goldman"を発表しているが 1)、「慈善公演」と同様、この3編の短編もいわゆるリトル・マガジンに投稿、掲載されたもので、「最初の七年」("The First Seven Years")と違って、マラマッドの生前に出版された4つの短編集のいずれにも転載されることはなかった。マラマッド自身がこの年に発表された作品は未熟な作品群と位置づけていたのであろう。
1943年に4編の短編を発表してから、7年間の沈黙期間を経て、マラマッドが短編小説作家としてデビューするのは1950年になってからである。この年、一般商業誌Harper's Bazaarの3月号に "Cost of Living"、Partisan Reviewの9-10月号に 「最初の七年」("The First Seven Years")、そしてCommentaryの9月号に "The Prison"が立て続けに掲載される。1943年に発表された作品群はいずれも投稿したものであり、その7年後にマラマッドは初めて原稿料をもらえる作家となったのである。2) そしてこの3編とも彼の生前に出版された短編集にあとで収録されることになる。マラマッドがこれらの作品を職業作家として納得できる作品と考えていたことが窺われる。
その7年後の1957年にマラマッドは彼の代表的長編小説『アシスタント』(The Assistant)を発表し、Daroff Memorial Awardを受賞、翌年この作品によりRosenthal Foundation Award of the National Institute of Arts and Lettersを受賞する。またこの年に 「最初の七年」が巻頭ストーリーとして載せられている最初の短編小説集『魔法の樽』(The Magic Barrel)が出版され、翌1959年に全米図書賞(National Book Award)を受賞し、職業作家として完全に認知されるのである。
本稿ではマラマッドの1943年に発表された文字通りの処女作 「慈善公演」と、7年後の1950年に発表された作品群の中で最も純文学的な作品で、娘の結婚相手をめぐっての父親の葛藤という処女作との共通のモチーフをもち、職業作家マラマッドの実質的な処女作とも言うべき「最初の七年」を論じる。この二つの作品を比較、分析して、両者の共通性、差異を明らかにすることにより、この1943年から1950年の「最初の7年間」でマラマッドが作家としていかに成長したか、 そして「最初の七年」が 「慈善公演」とは比較にならないくらい完成度の高い作品であり、またこの作品に当時のこの作家の創作姿勢も提示されていることを明らかにしたい。 "Benefit Performance"
「慈善公演」("Benefit Performance")はおそらく「最初の七年」の原型となった作品である。主人公のモーリス・ローゼンフェルド(Maurice Rosenfeld)はイディッシュ演劇の男優であり、著名なイディッシュ演劇の演劇人達と親交を結び、南米、英国を含む各地で公演したこと、アメリカ人の批評家も観に来た「ベニスの商人」のシャイロックを演じたことを誇りにしている。しかし、今は第二次世界大戦中で、戦争に怯えるユダヤ人達のイディッシュ演劇熱は冷めてしまい、仕事は慈善公演(benefit performance)しかない状態で、家計を助けるために妻は職に就いている。一方、彼の28歳になる娘ソフィー(Sophie)は、高校時代の同級生で今は配管工をしているイフレイム(Ephraim 3))とつき合っているが、ローゼンフェルドは高校を卒業していない娘の恋人を無学と考え、彼との結婚に反対している。娘には、幼い頃から、海外公演にも同行させ、有名な演劇人達とも引き合わせ、教養を積ませてきたと考えているローゼンフェルドにとって、無学なイフレイムは結婚相手として不釣り合いなのである。
物語はローゼンフェルドが、妻が仕事で外出中の安アパートに帰宅するところから始まる。夕食を済ませていない彼は、生理痛でベッドに横になっているソフィーから、気分が悪くて食べられなかったハンバーグを温めて食べるよう言われるが、挽肉は胸焼けがすると言い("...it burns me my stomach when I eat chopmeat." 4))、自分で野菜の料理を作り始める。そこにイフレイムが訪れ、ソフィーと会話を始めるが、彼女の質問に対して短い返事しかできない娘の恋人に業を煮やしたローゼンフェルドは口を挟まずにはいられなくなる。
この場面でのローゼンフェルドとイフレイムの敵対関係は、後述する「最初の七年」の靴屋のフェルドと彼の娘に恋心を抱いている靴職人のソベルが彼の下宿で敵対する場面を思い起こさせるが、ソベルと同様、イフレイムには "with dignity" という言葉が示すようにある種の尊厳があることを窺わせる。
イフレイムにとっての誇りは、役者として虚名や虚構の世界に生きるローゼンフェルドと違い、手に職を持ち堅実で安定した生活を営めることであり、そのことをローゼンフェルドに向かって口にする。 "At least a plumber can support a wife and don't have to send her out to work for him." 6) しかし、家計を自分一人で支えられないということはローゼンフェルドが最も引け目に感じていることであり、彼の怒りは爆発する。自分を聖書のヨブになぞらえ、流暢なイディッシュ語を用い舞台俳優の口調でイフレイムとソフィーを侮辱する演技(performance)を始めるのである。
そして、イフレイムに向かって"Plum-ber"と苦々しく罵る。イフレイムは "You cheap actor...You can go straight to hell!"と罵り返し、部屋から激昂して出ていく。ここには 「最初の七年」の最後に見られるような父と娘の結婚相手との和解はない。ローゼンフェルドが自分をヨブになぞらえてする演技は、彼の本心でもあるが、28歳になった娘にもまだもっとよい結婚相手がいると信じている("Don't be so much in the hurry...You can get better."8) )父親の娘に対して幸福、利益(benefit)を願う親心の現れでもある。その意味では、この演技(performance)はイフレイムを怒らせて、二人の関係を壊そうとする企てであり、もっとよい結婚相手を見つけることを願って娘に対してなされた "benefit performance" と考えられ、題名の "Benefit Performance" で連想する「慈善興行」、「慈善公演」のアイロニカルな懸詞になっている。
物語は、イフレイムが部屋を飛び出した後、ソフィーが父親ともめ事があったときいつもするように、ついたて(screen)をリビングルームに置いてある自分のベッドのまわりに並べてその中に引きこもり、ローゼンフェルドが、自分が料理していた野菜料理の代わりに、胸焼けがするから食べないと言っていたハンバーグをグリルにのせて火をつけ、「今夜は挽肉を食べるぞ」("Tonight I will eat chopmeat." 9) )とつぶやいて終わる。娘の幸福を願う親心からとは言え、怒りのために感情に流されて "benefit performance" を演じてしまった自分を恥じ、娘に対する贖罪の気持ちから食べたくないハンバーグを食べようとするのであろう。しかし、ローゼンフェルドはかっては名声を博したイディッシュ演劇の舞台俳優としての虚飾にとらわれたままであり、イフレイムの堅実さや彼の価値観を認めて受け入れる余裕があるようには、この短編からは窺われない。娘がなぜイフレイムを愛しているのか、彼には理解できないままのように見受けられる。そこにあるのはソフィーが自分のベッドを囲ったついたてに象徴される父親と娘の断絶だけである。
不自然さ、稚拙さを感じてしまうが、技巧的には、ソフィーがベッドのまわりに張り巡らすscreenなどの象徴的な小道具が登場したり、題名にアイロニーを含ませたり、見栄っ張りで虚飾に満ちた性格をもつ主人公の役者にRosenfeld (英語でRosefieldの意)という名前をつけるなど、後述する 「最初の七年」で用いる共通の手法が使われてはいる。テーマもソフィーとイフレイムのラブ・ストーリーに潜在的な物語性は感じるが、主人公のローゼンフェルドの性格描写には例えばアーサー・ミラーの『セールスマンの死』のウィリー・ローマンの悪い模造(と言ってもこの戯曲が発表されたのは1949年だが)を感じてしまい、人物描写、スケッチの域を出ていない。やはり、習作時代の作品と言えよう。 "The First Seven Years"
1949年8月マラマッドはオレゴン州コーバリスにあるオレゴン州立カレッジ(現在のOregon State University)に英作文の講師としてニューヨークから赴任する。「最初の七年」("The First Seven Years")はその赴任直後に書かれた作品と思われる。1961年にマラマッドはオレゴンを離れ、東部に戻るが、1967年6月、オレゴン州立大学に招かれ、6月19日にキャンパス内で開かれた作品の朗読会でマラマッドは「最初の七年」と「ユダヤ鳥」("The Jewbird")の二つの作品を朗読した。その冒頭、マラマッドは朗読会が行われたホールのすぐそばのキャンパス内で「最初の七年」を書いたと説明している。10)
序で述べたが、「慈善公演」などの習作時代の作品が発表されたのは1943年で、マラマッドはその前年の1942年2月にトーマス・ハーディーに関する修士論文(Thomas Hardy's Reputation as a Poet in American Periodicals)を完成させ、コロンビア大学の修士の学位を得ている。つまり、1942年に学位をとり、人生の節目をひとつ刻んだ翌年にリトル・マガジンに習作群を投稿し、主として夜学などの代用教員などを務めた7年後の1949年にオレゴン州立大学に赴任、翌年に 「最初の七年」他2編の作品群が商業紙に掲載されたわけで、7年という期間が職歴でも作家としても節目になっており、その彼が「最初の七年」という題名の短編を書いたことは伝記的には興味深い。マラマッドは1914年4月26日生まれなので、冒頭に述べたマラマッドの言葉とオレゴンとニューヨーク間の当時の郵便事情を考えると、多分1950年の誕生日以前にこの作品は書かれたであろう。すると、この作品を書いていたときマラマッドはその中に登場する靴職人のソベル(Sobel)と同じ35歳だったはずである。オレゴン州立大学では自分の英作文(Composition)の授業日だった月水金以外は来客を許さず、土曜日も研究室に閉じこもって朝から晩まで執筆活動をしていた という11)、まだ無名の作家マラマッドに、「最初の七年」に登場する靴屋の仕事場で黙々と皮をなめして靴を作り修理するソベルの姿を重ねたくなる。
「最初の七年」はポーランドからアメリカに移住した靴屋のフェルド(Feld)が、降りしきる雪を見ながら、19歳の娘ミリアム(Miriam)の結婚相手として毎日店の前を通って大学に通うマックス(Max)という行商人の息子の苦学生の青年に思いをめぐらしているときに、アシスタントのソベルのハンマーを狂信的に打つ音(fanatic pounding 12))で、その夢想を邪魔される場面から始まる。ミリアムは独立心の強い娘で、父親の勧めにもかかわらず、大学進学を拒んで就職してしまったのだ。マックスとつき合うことにより、娘が大学に行く気になること、そして何よりも、彼のような高学歴の青年と結婚すれば、娘がよりよい生活(better life)を手に入れられるとフェルドは信じているのである。
そんなことを考えているときに、当のマックスが靴を修理してもらうためにフェルドの前に現れる。マックスにかねてより娘をデートに誘ってもらうことを考えていたフェルドは、その好機が到来したことで動揺したのだろうか、マックスが靴のどこを修理したいか説明するが、上の空である。
フェルドは靴底(sole)の穴と、かかと部分の薄くなった箇所に○×の印をつけ間違えたのではないかと不安なのである。そして、意を決して、マックスを店から住居部分の玄関に呼び、やや類型的過ぎる描写とも思えるが、ハゲタカのような、痩せこけた猛禽類を思わせる容貌のマックスに娘を誘ってもらうよう頼む。彼はミリアムの年齢を訊ね、彼女の写真を持ってこさせ、写真を見てから、ミリアムをデートに誘うことに同意し、フェルドは家の電話番号を書いた紙を渡す。マックスは靴の修理代がいくらになるか知りたがり、フェルドは1ドル50セントと答えて後悔する。本当は2ドル50セントの修理代だったからだ。通常の修理代を言うか、無料にすると言うべきだったと思うのである。マックスが立ち去り、店に戻ったフェルドは驚愕する。ソベルがむき出しの鉄の靴型を壊れるまで叩き、壁に投げつけた後、店を飛び出してしまったからだ。
ソベルがいなくなってしまい、フェルドは途方に暮れる。フェルドと同郷人(landsman 14))のソベルは、ナチから逃れて30歳のポーランド難民として5年前に彼の店にやってきて、ちょうどフェルドが持病の心臓発作で倒れたときだったこともあり、救い主のような存在だった。15) それ以来、フェルドのアシスタントとして働き、フェルドはソベルに全く頼りきりで店をやってきたのだ。このポーランド難民は靴職人の経験は全くなかったが、すぐに仕事を覚え、働き始めて6週間後にはフェルドと同じくらいよい靴を作れるようになっていた。ソベルは『アシスタント』のフランク・アルパインと同じように "a young man but old"と形容されているが、フランクと違って、レジの金をくすねることもなく信頼できた。実際、彼はお金にはいっさい執着心がないようだった。
彼は熱心な古典の読書家で、読んだ本を自分で書いた注釈付きでミリアムに彼女が14歳のときから貸し与えていたのだ。毎晩、下宿でミリアムに読ませるために分厚い読書メモを孤独に書くソベルの姿は、東部から赴任したばかりで友人もまだできず孤独だったはずのマラマッドが研究室で禁欲的に創作を続ける姿を連想させる。フェルドはその注釈を見ても、ソベルを変人扱いするだけだが、ミリアムはそれをまるで神の言葉のように熱心に読むのである。
フェルドは、妻とミリアムにせかされて、いったんはソベルの下宿に行き、彼を呼び戻そうとするが、居留守を使われて、新しいアシスタントを雇う。そして、フェルドが待ちに待ったマックスから電話があり、ミリアムは金曜日の晩に彼とデートする約束をする。その金曜日、フェルドは具合が悪く(おそらく持病の心臓だろう)、マックスがミリアムを迎えに来たときはベッドに寝ていた。しかし、デートの結果が気になり、夜中に起き出して、デートから帰ったミリアムが読書しているのを発見し、デートの模様を訊ねる。娘は多くを語らないが、次の週の土曜日に2回目のデートの約束をしたと聞き、一安心する。また、後からマックスはフェルドが期待していたように弁護士か医者になるための勉強をしているのではなく会計士の勉強をしていると聞き、いったんは落胆するが、公認会計士は人から尊敬される仕事と聞き満足する。
次の土曜日、デートから戻ったミリアムの疲れた様子を見て、フェルドは不安に駆られる。「退屈だったわ」( "I was bored.")と娘は言い、その理由を尋ねると、彼女は次のように宣言する。
フェルドはミリアムが考え直すことを期待するが、彼女の考えは変わらず、マックスからの電話もない。それどころか彼は通学路を変え、店の前を通るのを避けるようにさえなった。しかし、修理を頼んだ靴のため店を再び訪れ、磨き上げられて新品より良く見えるようになった靴を受け取る。(The shoes had been highly polished and somehow looked better than brand new.18) ) そして、しわくちゃの1ドル札2枚を渡し、フェルドから真新しい50セント硬貨を受け取るのである。(Max handed him two crumpled bills and received in return a newly-minted silver half dollar.19) )その晩、フェルドはソベルの代わりに雇った新しい使用人がお金をずっとくすねていたことを発見し、心臓発作(heart attack)に襲われる。
幸い、発作は軽く、1週間の静養の後、ミリアムに言われて、心ならずもソベルの下宿に行き、店に戻ってくるよう頼まざるを得なくなる。彼の部屋は小さく粗末だが、床には所狭しと本が積み上げられている。その部屋でフェルドは店に戻るようソベルに頼むが、拒否される。給料を上げると言っても駄目で、 "I always treated you like you was my own son." 20)と懇願するのである。それを聞いたソベルは激しく反発し、フェルドがマックスにミリアムとデートさせたことをなじり、ミリアムを愛していて結婚したいと思っていることを告白する。思いがけない告白に、しかし、意識のどこかではそのことに気づいていたことを認識しながら、フェルドは "I pay wages in cash, Sobel."21) とユダヤ的ジョークともとれる言葉を口にするのである。
フェルドがミリアムにソベルの気持ちを伝えたのかと訊ねると、ソベルは、言ってはいないが彼女は知っていると答える。なぜ知っているのか、と訊ねるフェルドにソベルは次のように答えるのだ。 "How does she know?" Sobel said, "because she knows. She knows who I am and what is in my heart." 22)この言葉を聞いて、フェルドはソベルがミリアムに貸し与え続けた本とその注釈メモを通じて、自分の気持ちを伝えていたことに気づき憤慨する。"Sobel, you are crazy...She will never marry a man so old and ugly like you." 23)と彼は苦々しく言い、「慈善公演」のローゼンフェルドとイフレイムの敵対場面と似たシーンになるのである。しかし、フェルドを呪った後、すぐ泣き崩れるソベルを見て、フェルドの心は和む。ヒットラーから逃れアメリカに渡ったソベルが自分の年齢より半分以上も下の14歳の少女ミリアムに恋をして、以来5年間も安い給料にもかかわらず店で働き続けた彼の哀れな運命、境遇に思いをはせたからだ。
「慈善公演」とは異なり、二人の間に和解が訪れ、「最初の七年」は次のように終わる。
フェルドとソベルが敵対した直後、ソベルが窓辺で読書しているのは、少し唐突な印象を与えるが、この作品では本を読むこと(reading)が明らかに象徴的な意味を持っているからである。ソベルとミリアムは読書を好むが、これは彼らの精神性を重視する傾向を表現するためだ。フェルドはソベルにミリアムへのプロポーズをもう2年待ち、今までの5年間と合計して7年間たてば求愛することを許すが、これは旧約聖書の創世記29章15節以降に語られているヤコブ(Jacob)の求愛のエピソードの引喩であろう。彼の親戚ラバン(Laban)には二人の娘、不器量で目の悪い姉のレア(Leah)と美人の妹ラケル(Rachel)がいたが、ヤコブは美人の方のラケルに恋をして、ラバンから7年間無償で働けば、娘をやると言われるのである。もちろん、この作品の題名もこの逸話から命名されたに違いない。
心臓発作に襲われて間もないフェルドであるが、2年後にソベルがミリアムに求愛することを許したフェルドの足取りは、降りしきる冷たい雪にもかかわらず力強い。ソベルを娘の結婚相手として認知したことで、つまりはソベルが象徴する精神的なもの、ミリアムがマックスを称して宣言した「彼には魂がない」("He has no soul.")という意味合いでの「魂」の意義を認めたことで、フェルドの心が浄化されたのであろう。「慈善公演」のローゼンフェルド(Rosenfeld)は自分の "benefit performance"の贖罪としてハンバーガーを食べるしかなかったが、Rosen(バラと言うよりは、ここではバラの棘であろうか)のとれたフェルド(Feld)は一種の再生を経験するのだ。そして物語は翌朝、戦争直後で兵舎だったバラックを "Composition Room"としてまだ使っていたオレゴン州立大学の英文科の粗末な研究室に閉じこもり、禁欲的に執筆活動をしているマラマッド自身を連想させるソベルの姿をフェルドが見つけるところで終わるのである。
この作品のテーマは何であろうか。岩本巌氏はマラマッドの文体と関連させて、著書で次のようにこの作品について触れている。
マラマッドは外面的な事実描写をほとんど起伏がないといってよいほどに淡々とした調子で並べながら、明らかに物語を述べていくという意欲を見せる文体を作り出している。物語を述べていくという作者の精神的態度からは作者自身の主観性が生じていき、また一方では、外面的な事実だけを連記するいわば描写文からは、冷静な客観性が生まれてくる。マラマッドの文体は、その二つの特性を奇妙に融合させ、彼の小説の一つの魅力を構成している。(中略)
だが、もちろん、彼がいつもそのような文体によって成功しているわけではない。事実だけを淡々と述べていく比較的に単純な文章構造を持つ文体は、読者の意識の中で何らかの増殖作業をおこさせない場合には、出来事だけを物語る単調なものとなってしまう危険性がある。すでに述べた「変わってしまった場所」がその好例であるし、また、『アシスタント』の原型である「最初の七年」などもその典型的な例であるように思える。この短編はナチス・ドイツからやっとの思いでアメリカへ逃げてきたソベルと、彼を雇った靴屋のフェルド、その一人娘ミリアム、フェルドが娘の婿にしたいとひそかに思う学生のマックスという四人を描いているが、貧しい中年男のソベルがミリアムに思いを寄せていて、ただその恋の成就だけを期待して、靴屋の助手として働いている一途さだけが読後に残る。フェルドの思惑とミリアムやマックスなどの感情が一致しないという皮肉はあっても、ソベルにとっての愛の意味という内心の問題を読者に深く考えさせるものがない。したがって、「助手はすでに靴台に向かって、自らの愛のために皮を叩きつけていた」という結末の文章も、メロドラマチックな印象を与えるだけにとどまってしまう。 25)
岩本氏のマラマッドの文体に関する優れた考察は的確だと考えるが、この作品の評価に関しては異論がある。岩本氏が「最初の七年」はソベルとミリアムのラブ・ストーリーと考えているところに、彼の誤解があると思われる。この作品はソベルとミリアムの奇妙なラブ・ストーリーではなく、一貫してフェルドの視点から語られるように、彼自身の話であり、従ってテーマは次のようなものと言えるのではないか。移民としてアメリカに渡ったユダヤ人のフェルドが一応は靴屋として娘が望めば大学にも進学させることができる程度に経済的、物質的な豊かさの面では成功した。しかし、ささやかな「アメリカの夢」を達成しアメリカ社会に同化する過程で、経済的、物質的な成功の価値観の対極にある精神的なもの、つまり「心(heart)」や「魂(soul)」を重視する(本来ユダヤ人が共有していた)価値観を喪失しようとしていた。しかし、娘の結婚問題を通じて、その民族の伝統である慈悲や慈善に代表される価値観の重要性を再認識し、それをフェルドがとり戻す再生の物語であると。岩本氏は上記の引用の後、読者の意識の中で「増殖作用」を起こさせるかどうかは、「これは、短編小説がただ習作としてのスケッチに終わってしまっているか、あるいは自立して、短いながらもジョイスがかって述べた「顕現」を主人公に、そして同時に読者に与えることができるかという問題にかかわってくる。」26) と述べているが、フェルドがこの作品の主人公と考えれば、この作品にも一種のエピファニーはあると考えられる。先に引用したソベルが窓辺で読書する姿を見て、読書しているソベルは若く見えると不思議に思う箇所である。先に述べたように、その読書する若いソベルの姿を見て、フェルドは読書が象徴する精神的なものの重要性(ソベルを若く見せる力)を再認識し、条件付きではあるが、娘への求愛を許すのである。
テーマをこのように考えると、「最初の七年」は当時、全盛期を迎えようとしていた新批評の模範とも言えるほど "Well Wrought Urn" 的技巧に富んだ作品であることが分かる。27) 先に述べたように、フェルドが心臓病の持病を抱えている設定は彼の心=心臓(heart)がハゲタカを思わせるマックスが代表する実利主義("materialist")的価値観に侵されて病んでいるからであり、マックスがミリアムを紹介されて、まず年齢を訊ね、写真を見たいというのは女性を商品化する物質主義者の典型的行動なのである。さらにマックスは人の身体や心を癒す医者や弁護士ではなく、お金を扱う公認会計士を目指す学生であることもこのテーマの設定通りである。マックスはミリアムが指摘したように「物質主義者そのもの」で「まったく魂を持たず、モノにだけしか関心がない」のである。一方、マックスの対極に位置するソベルは読書家であり、醜男であるがやさしい目をしており(...a severely plain face and soft blue eyes prone to tears over the sad books he read... 28))、5年前、心臓=心の病でフェルドが苦境に陥ったとき、フェルドの前に救い主として現れたのであり、前述したように物質主義者の最大の関心事である金銭にはまったく関心がないのである。
フェルドは物語の最初では現実主義者(realist)と表現されており、おそらく、まだ完全に物質主義者にはなってはいないで、マックスの側に極めて近いけれど、彼とソベルの中間に位置しているのだろう。だから、物質主義者あるいは商売人としてマックスの靴の修理代に正規の2ドル50セントを要求できず、かといってソベルでもないので無料にはできず、1ドル50セントという中途半端な額を言って後悔したのだ。マックスが修理された靴を取りに来たとき、靴が新品よりよく見えたのは、まだフェルドには「心と魂」の部分が残っており、真心を込めて靴を修理し磨き上げたからである。マックスが代金として渡したお札がしわくちゃなのは、物質主義者にとってお金はそれで買えるモノが何かが重要なのであり、彼の価値基準ではしわくちゃなお札も新札も全く同じ価値であるからである。一方、フェルドが用意したお釣りの50セント硬貨は鋳造されたばかりの真新しいコインなのである。そして、おそらく、このフェルドに残っている「心と魂」の部分が、物質主義者のマックスにミリアムを引き渡す最初のデートのとき、彼の良心をとがめさせ、彼は心=心臓の具合が悪くなり寝込んだのだろう。
そして、極めつきは、フェルドが靴屋(shoemaker)という設定である。マックスが最初にやってきたとき、靴底の修理箇所のチョークの印をつけ間違えてはいないかとフェルドが不安に思う箇所を先に引用したが、彼の仕事はsole(靴底)を直す仕事なのである。sole(靴底)とsoul(魂)を読み替えれば、フェルドが靴屋という設定は非常にアイロニカルなものであることが分かる。彼の「心と魂」は物質主義者的価値観に毒されて、自分の仕事(靴底=魂を直す仕事)に自信を持てなくなっているのである。ソベルがすぐにこの仕事を修得し、フェルドに代わって店を支えていたことがうなずける。マックスの靴のsole=soulには大きな穴が開いていて修理が必要なのも当然なのだ。さらに言えば、「慈善公演」のローゼンフェルドと同じように、この作品にも登場人物の名前に仕掛けがあると考えられる。MaxのMはMaterialistもしくはMoneyを表し、SobelのSはSoulを表しているのではないだろうか。そしてマックスとソベルの中間に位置していたフェルドは娘のMiriamの仲介、媒介(medium)と、「アシスタント」のソベルの援助で、ソベル自身が代表する精神性を重視する価値観の方に引き戻されるのである。
また、「最初の七年」という題名の由来について先に述べたが、この題名にもテーマと絡む重要なアイロニーが潜んでいる。創世記29章20節以降を読むと、ラケルのために7年間働いたヤコブが、ラバンのところに行き、ラケルを要求すると、ラバンは彼のために祝宴を開き、その晩、ヤコブは娘と結ばれる。ところが、翌朝、目が覚めると、ラケルと結ばれたと思っていたヤコブの隣に寝ていたのは、姉のレアだったことが分かる。ラバンがヤコブを騙したのだ。そのため、ヤコブはラケルと結ばれるために、さらにもう7年間働かなければならなかったのである。つまり、「最初の七年」の最後で、力強い足取りで家路につくフェルドは「心と魂」をとり戻したかのようだが、2年後、最初の7年間の奉仕を終えたソベルがミリアムに求愛しようとしたとき、それを邪魔する可能性があることをこの題名は示唆しているのである。『アシスタント』のフランクがモリスの感化を受け自分を変えようとしたが、それには長い年月がかかったように、一瞬のエピファニーで人はそう簡単には自分を良い方向には変えることができないかも知れないというマラマッドの考えが、すでにこの作品に表れていると言える。そう考えると心変わりをするかも知れないフェルドの言葉を信じてソベルが愛するミリアムのために一心に皮を叩き続ける "...his assistant was already seated at the last, pounding leather for his love."というこの話の結末は重層性を帯びてくる。ソベルがフェルドに騙されることを承知で皮を叩き続けているなら、それは『アシスタント』でフランクにモリスが言ったあの有名な言葉 "I suffer for you." を予感さえさせる。「結末の文章も、メロドラマチックな印象を与えるだけにとどまってしまう。」という前述の岩本氏の指摘が的外れであることは明白であろう。
そして、結末の文章は、物語の冒頭の "fanatic pounding"と呼応して、ソベルの一種狂信的な妥協を許さない頑固な性格をも暗示している。このソベルの姿にマラマッド自身の姿を重ねようとしてきたが、このソベルの妥協を許さず自分に厳しい頑固さが、当時のマラマッドの禁欲的な創作態度ではなかったろうか。1954年9月12日、マラマッドはコロンビア大学のライオネル・トリリングにオレゴンから手紙を書き、グッゲンハイム財団のフェローシップのための推薦状を彼に依頼していたが申請を見合わせたいと連絡する。Partisan Reviewに載った「魔法の樽」を読んだトリリングは、遅れてしまった11月16日付けの返事の手紙に、その感想を述べているが、以下の引用の"creative innocence" の源泉はマラマッドのソベルのような創作態度にあったのではないだろうか。そして、「最初の七年」は7年前に発表された「慈善公演」とは比較にならないくらい完成度の高い作品と考える。35歳の靴職人ソベルが作る靴のように、まだ無名の35歳の短編小説の職人マラマッドの「心と魂」が込められた作品なのである。以下に引用するトリリングの手紙の最後の文章を「最初の七年」にも贈りたい。 |
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