Seminar Paper 97


Junko Komatsu

First created on December 22, 1997
Last revised on January 8, 1998

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The Sound and the Fury: 3人の兄弟
−tree, honeysuckle, bitchに象徴される3人の個性−

 The Sound and the Furyは大まかに、コンプソン家の次男ベンジーの語りの章、長男クエンティンの語りの章、三男ジェイソンの語りの章、コンプソン家の召し使いディルシーの章に分かれて物語りが設定されている。

 特に3人の兄弟の章では、長女キャディーについて語っているとされており、三者三様の語り口と、またその語り口からそれぞれの性格や個性といったものがはっきりと読み取れる書き方となっている。それぞれの章で、どのような語りの手法がとられ、また、それがどの様な効果があり、人物のどの様な個性を描き出しているのか分析したい。

 まず、ベンジーの章全体を通して分析すると、ベンジーには、過去・現在といった時間の観念というものがなく、ストーリーが語られていく中でも、ベンジーの思考に基づき、時間を飛び越えたような語りの構成となっている。現在起こっていることとある過去の出来事と何らかの状況が一致したとき、ベンジーのある記憶の断片が呼び起こされ、まるで今そのことが起こっているかのように次々と過去が語られて行く。

“You snagged on that nail again. Cant you never crawl through here without snagging on that nail.”
 Caddy uncaught me and we crawled through...Uncle Maury said to not let anybody see us, so we better stoop over, Caddy said. ( William Faulkner, The Sound and the Fury (New York: Vintage International, 1990) p. 4. 以下、本書からの引用はページ数のみを記す。)
ここでは、ゴルフ場でコインを探していたベンジーとラスターが、フェンスをくぐろうとした時、ベンジーが服をフェンスの釘にひっかけてしまった。その瞬間、ベンジーとキャディーが叔父のラブレターをある女性に届けに行く時、同じようにフェンスをくぐろうとして服を釘に引っかけてしまったことを思い出し、さらにそれをきっかけとしてラブレターを届けに行ったいきさつを回想していく。
 Versh got up quick and jerked his legs back. Father said, “All right, Versh.”
“I'll feed him tonight.” Caddy said. “Sometimes he cries when Versh feeds him.”
“Take this tray up.” Dilsey said. “And hurry back and feed Benjy.”
“Dont you want Caddy to feed you.” Caddy said.
 Has he got to keep that old dirty slipper on the table, Quentin said. Why dont you feed him in the kitchen. It's like eating with a pig. (p. 70)
ここでは逆に、過去のことから現在へベンジーの名前が付け替えられた日の食事の時間にあったヴァーシュとキャディーの様子を回想しつつ、現在の食事時に交わされたジェイソンと姪のクエンティンの会話を思い起こしている。ヴァーシュとキャディーのやりとりと、ジェイソンとクエンティンのやりとりが似ていることと、feedという語から、過去と現在の状況が交錯してベンジーの思考が流れているのが分かる。

 よって、ベンジーの記憶や意識が物語の展開のかぎとなっていると言える。時間に基づいた直線的な展開でなく、ベンジーの思考に基づいた時間が交錯した展開にすることで、より、ベンジーが白痴であることが生々しく、効果的に印象づけられていると思われる。

 白痴と言う点に更に注目すると、ベンジーからの視点は感覚的な表現が多く、白痴独特の状況理解の程度が感じられる。ベンジーの思考ではもちろん、言語的には比較的簡単な語、文型が使われているのは言うまでもないが、語りとして時に、健常者では思いもよらないような鋭い角度の描写、表現が見受けられる。たとえば、
 I wasn't crying, but I couldn't stop. I wasn't crying, but the ground wasn't still, and then I was crying. The ground kept sloping up and the cows ran up the hill....Then the barn wasn't there and we had to wait until it came back. (pp. 20-21)
ベンジー自身、酒によっているという自覚がなく、その状況の理解ができていないため、このような表現となっている。
I could smell Versh and feel him. You all be quiet, now....Didn't he, Quentin. I could feel Versh's head. I could hear us. Didn't he, Versh. Yes, that right....come on. (p. 27)
ここでは、4人の兄弟とヴァーシュが暗闇にいて会話しているのだが、見えていないという表記がなく、smell、feelを効果的に使用し、またクオーテーションマークを使用しないことでより、健常者の感覚では誰が話しているのか状況が把握しずらくなっている。それは、白痴独特の状況理解の程度であり、健常者では思いもよらないような鋭い角度の洞察力の持ち主であることを象徴している。

 さらに、ベンジーの章ならではの臭覚を使った語りの手法に注目すべきと思われる。たとえば、盲目の人は触覚、聴覚が発達しているように、臭覚を使った表現法は白痴ならではの動物的勘の鋭さが感じられる。主にキャディーに関するベンジーの観察力という点で、それが顕著に伺える。Caddy smelled like trees.(pp. 9, 19, 42, 44, 48, 72, etc.)いつもどおりのキャディーに安心感を感じているときにこの表現を見かけることができる。Caddy put her arms around me, and her shining veil, and I couldn't smell trees anymore and I began to cry. (p. 40)こちらは、キャディーの結婚式のシーンでのことである。このtreeの香りは、ベンジーにとってキャディーの「処女性」をの象徴であるという。ということは、ベンジーは嗅ぐことによってキャディーの処女性を鋭く見分けていると言える。やはり、その嗅ぐ能力が卓越していることにより、よりベンジーが動物的存在に感じられるし、それでいながら人間独自の価値観である処女性をも意識する人間的存在にも感じられる。

 以上のようにベンジーの章では、香り、音を上手く描くことで、文字を超えた表現をフォークナーは試みようとしているのではないかと感じさせるほど、五感に訴えかけるものがある。それは、ベンジーの白痴ならではの鋭い感覚と、人間的な繊細さを同時に感じさせるものである。そして、言うまでもなくこの小説の始まりの章を白痴によるベンジーに語らせることで読者をより物語の世界に引きつけるものとなっている。

 さて、クエンティンの章もベンジーの章同様、クエンティン自身の記憶や意識が物語りの展開のかぎとなっている。もちろん、この章ではクエンティンの自殺の主な理由が、妹のキャディーの処女喪失である為、主にキャディーに関することが追想されていく。
Father I have committed....She wouldn't look at me soft stubborn jaw-angle not back-looking....softly beyond the twilit door the twilight-colored smell of honeysuckle. (p. 95)

...the curtains leaning in on the twilight upon the odor of the apple tree her head against the twilight...the voice that breathed o'er eden clothes upon the bed by nose seen above the apple. (p. 105)
以上のように、キャディーを回想しているが、ベンジーの章でも実際に匂いでキャディーを判断していても、クエンティン程何か意味深で官能的ではなかったように思う。意味ありげなtwilight という語からも兄という視点からではなく、より男性としてクエンティンがキャディーを意識しているように感じる。

 また、この章で頻出するが、That had no sister. (p. 77) Did you ever have a sister? Did you? Did you? (p. 78)という問い掛けるような表現は、まさにクエンティンの心の叫びが強烈に伝わってくるものであり、キャディーに対する肉親愛、またはそれ以上の愛情が含まれる表現である。それ故の心の葛藤もとても痛いほど伝わる。

 この章でまた忘れてはならないのは、時計や鐘の音である。どちらもクエンティンが時間というものを異常に気にしていることが伝わってくるものである。

 時計は父から譲り受けたもので、自殺を決意しても尚時計の音をたえず気にしている。I lay listening to it. Hearing it, that is. I don't suppose anybody even deliberately listens to a watch or a clock. You have to. (p. 76) 時を気にしないようにしているが、しかし気になっている。I was in time again. (p. 76)のところでは、注釈によると、「Quentinの‘time obsession'を示す。…Quentinは愛するCaddyの‘loss of virginity'および尋常でない結婚によるショックで、‘time'を忘れようとしながらついにわすれえず…‘time'に取りつかれている。」(大橋健三郎,『響きと怒り』英潮社新社ペンギンブックス注釈書(東京:英潮社新社, 1988), p. 124. 以下、『注釈』と略す。)とある。

 しかし、私自身ここで強く感じたのは、時計は父から譲り受けたもの、つまり、時間を意識するということは、父に対するクエンティンのコンプレックスのようなもので、それも自殺の要因の一つではないかと思わせる語り口だとも言えるのではないか。なぜなら、
Father said that. That Christ was not crucified: he was worn away by a minute clicking of a little wheels*.Father said that constant speculation regarding the position of mechanical hands on an arbitrary dial which is a symptom of mind-function. Excrement Father said like sweating. (p. 77)

Because Father said clocks slay time. He said time is dead as long as it is being clicked off by little wheels; only when the clock stops does time come to life. (p. 85)
から、父への見解への反発を持ちつつも、父の意見に大変影響されており、それが苦悩となっているように思われるからだ。精神が働くから、時間を気にしてしまう。人間が作り出した時間という観念から開放される為には、自殺という手段で精神の働きをなくせばいい。そういった感情がこの引用部分からは感じられ、父に対するコンプレックスを時間を超越するつまり、自殺することで昇華しようとしていると感じられる。ただ、この部分は特にクエンティンの観念的な一面が見えるところであり、理解がとても困難である。どういう事を言っているのかを抜きに考えれば、物事を深く突き詰めて考えてしまうクエンティンの生真面目さを良く表しているように感じる。

 とにかく、クエンティンの自殺の原因がなんであれ、本来インテリであるクエンティンの語りの章でベンジーの章のように思い付いたことについての無秩序な回想が続いたり、クオーテーションマークやピリオドが抜けたりすることで、クエンティンの自殺前の精神的錯乱状態、また、頭の良さ故に事を突き詰めて考えてしまう性質がよく表れている。
Quentin
my mouth said it I didnt say it at all
Ill give you till sundown
Quentin
he raked the cigarette ash carefully off against the rail he did it slowly and carefully like sharpening a pencil my hands had quit shaking
listen no good taking it so hard its not your fault kid it would have been some other fellow
did you ever have a sister did you (p. 160)
 クエンティンの錯乱状態は、キャディーの恋人のダルトン・エイムスに会ったときの事を回想しているこの部分で最も顕著に語りの手法で見て取れると思う。

 そして、ベンジーもそうであったように、前述のキャディーの描写でのtwilightの様に意味深なhoneysuckleなど臭覚にうったえる表現、そしてa weathered house from an upper window of which hung a garment of vivid pink. (p. 131)のように色彩感覚に富んだ表現もあり、クエンティンの勘の良さや、繊細さが伝わってくる語りが目に付いた。

 こうした表現は、ベンジーと同様の細やかな意識が感じられると同時に、ベンジーよりもさらに男としての人格が感じられる官能的な表現が匂いや色の使い方でよりいっそう印象的になっている。

 次に、ジェイソンの章においては、ベンジー、クエンティンの章とは異なり、感覚にうったえる表現はほとんどなく、会話など人間同士のやりとりを上手く描写することで、ジェイソンの人間臭さというものを強烈に感じる章となっている。

 この章で、ジェイソンは姉のキャディーから送ってくる小切手を偽造し、その横領した金で投資を行っているのであるが、やはり現実的な、そして偏見に満ちた考え方を持つ人物と映る。
 After all, like I say money has no value, it's just the way spend it. It don't belong to anybody, so why try to hoard it. It just belongs to the man that can get it and keep it. (p. 194)

 I give every man his due, regardless of religion or anything else. I have nothing against jews as an individual...It's just the race. You'll admit that they produce nothing. They follow the pioneers into a new country and sell them clothes. (p. 191)
確かに、他の兄弟が非現実的、観念的であるのに対し、この章は現実的な考え方をする人物の語り口となっている。一方、この現実的な人間臭さをジェイソンに持たせたのは、フォークナーはジェイソンが「古い南部に激しく抵抗」(『注釈書』p. 251)しているのを表現したかったのであろう。

 そう言える理由として、仕事仲間のアールがジェイソンの母をShe's a lady. I've got a lot of sympathy for... (p. 227)と言うのに対して、ジェイソンは”You are my only hope.” (p. 200)と言う母に対して決して好意的ではない。
“Thank God you will never know what a mother feels.”
“There are lots of women in this world no better than her,” I says.
“But they are not my daughters, ” she says. “It's not myself, “I'd gladly take her back, sins and all, because she is my fresh and blood. It's for Quentin's sake."
 Well, I could have said it wasn't much chance of anybody hurting Quentin much, but like I say I don't expect much but I do want to eat and sleep without a couple of women squabbling and crying in the house. (p. 220)
ジェイソンはアールの「古い南部気質を身につけた男」(『注釈書』, p. 251)のように女性を尊重している訳ではないからである。

 また、決して見逃せないことは、ベンジー、クエンティンの章では、「意識の流れ」つまり、現実の中で起こっていることの間に思い出したことをイタリック体で記しながらストーリーが展開していたのに対して、ジェイソンの章では、イタリック体の段落もなく、一見、彼の思考に基づいた「意識の流れ」の展開ではないように見える。ジェイソンを、物事を深く感じたり考えたりという人間ではなく、現実が最も大切な人間として表現するには、過去を回想させたりせず、目の前の出来事を直線的に語らせるほうが効果的だからだという。この点から見れば、ベンジーは感覚の世界、クエンティンは観念的、ジェイソンは現実的な人物として描写されていることは決定的であろう。ただ、ディルシーの章では、ジェイソンが金にこだわったり現実的であるのは、憎しみを寄る辺に生きているジェイソンの人間臭さを出したかったと思われる表現がある。
But to have been robbed of that which was to have compensated him for the lost job, which he had acquired through so much effort and risk, by the very symbol of the lost job itself, and worst of all, by a bitch of a girl. (p. 307)
ジェイソンはキャディーに対して自分の仕事をふいにされた憎しみと、Once a bitch always a bitch... (p. 180) からも感じるように、異性の存在としても憎しみに近い嫌悪を感じさせる。bitchなどスラングを使う事で、ベンジーやクエンティンと異なり、奇麗事ではすまない人間の陰の部分が垣間見えるし、教養のない人々の生活感といったものも匂ってくる気さえする。

 以上、コンプソン家の3人兄弟の語りの手法を通して三人それぞれの特徴を論じてきた。フォークナー自身は、The Sound and the Furyは3人の兄弟の目から見た妹または、姉キャディーの物語だとかたっているが、私の考えとしては、キャディーを通した3人の兄弟の物語であるとも言えるのではないかと思っている。キャディーについて語りながら、キャディーを表現する語に、ベンジーの章ではtree、クエンティンの章ではhoneysuckle、ジェイソンの章ではbitchが使われている。ベンジーはキャディーを慕っており、クエンティンはキャディーに姉妹以上の感情を抱いており、ジェイソンはキャディーに憎しみを抱いている事が分かり、各語句の印象からベンジーの純粋さ、クエンティンの神経質さ、ジェイソンの屈折した心が感じ取れる。この作品で、フォークナーは語り手を各章ごとに替え、語りの手法を見事にかき分けることで、それぞれの登場人物の心理を見事に書き分けている。The Sound and the Furyは、設定がたった4日間でありながら、言語にできないような長年にわたる人間関係と各人物の心理状態をまざまざと描き出した傑作と言えるだろう。

 


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