Seminar Paper 97
Junko Komatsu
First created on December 22, 1997
Last revised on December 24, 1997
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3人の兄弟
The Sound and the Furyは大まかに、コンプソン家の次男ベンジーの語りの章、長男クエンティンの語りの章、三男ジェイソンの語りの章、コンプソン家の召し使いディルシーの章に分かれて物語りが設定されている。
“You snagged on that nail again. Cant you never crawl through here without snagging on that nail.”ここでは、ゴルフ場でコインを探していたベンジーとラスターが、フェンスをくぐろうとした時、ベンジーが服をフェンスの釘にひっかけてしまった。その瞬間、ベンジーがキャディーと叔父のラブレターをある女性に届に行くときの記憶がよみがえっている。(前段の「現在起こっていることとある過去の出来事と何らかの状況が一致したとき」を実証する引用と言えますから、なぜこの場で記憶が飛んだのか、しつこいようでも、説明する必要があると思います。) 要するに、ベンジーの記憶や意識が物語の展開のかぎとなっていると言える。そして、時間に基づいた展開でなく、ベンジーの思考に基づいた展開にすることで、より、ベンジーが白痴であることが生々しく、効果的に印象づけられていると思われる。(その通りと思いますが、「要するに」という前に、「より、ベンジーが白痴であることが生々しく、効果的に印象づけられている」場面の解説をもう一つくらいほしい) 白痴と言う点に更に注目すると、ベンジーからの支店(視点? かなり傑作な変換ミスが後にもありますので、再チェックを!)は感覚的な表現が多く、白痴独特の状況理解の程度が感じられる。ベンジーの思考ではもちろん、言語的には比較的簡単な語、文型が使われているのは言うまでもないが、語りとして時に、正常な人間では思いもよらないような鋭い角度の描写、表現が見受けられる。たとえば、 I wasn’t(アポストロフィは半角を使う。以下同じ) crying, but I couldn’t stop. I wasn’t crying, but the ground wasn’t still, and then I was crying. The ground kept sloping up and the cows ran up the hill….(hill....Then)上記注意参照Then the barn wasn’t there and we had to wait until it came back. (p.20-21)(pp. 20-21)複数ページにわたる引用なのでベンジー自身、酒によっているという自覚がなく、その状況の理解ができていないため、このような表現となっている。 I could smell Versh and feel him. You all be quiet, now….(上記注意参照。但し、ここで省略記号を用いてしまうと、次のパラグラフで指摘していることを効果的に表す引用とならない恐れもあります。どこを省略するか、再考しては?)Didn’t he, Quentin. I could feel Versh’s head. I could hear us. Didn’t he, Versh. Yes, that right….come on.(p.27)ここでは、4人の兄弟ヴァーシュが倉脂(??)にいて会話しているのだが、見えていないという表記がなく、smell、feelを効果的に使用し、またクオーテーションマークを使用しないことで誰が話しているのか状況を把握しずらくしている。(「クオーテーションマークを使用しないことで」という点を強調したいなら、引用符が使われている "I told you Mother was crying"から引用することも考えられます。また、そのことは「状況を把握しずらくしている」ことを言うためではなく、「状況を把握できない」?「白痴独特の状況理解の程度」あるいは「正常な人間では思いもよらないような鋭い角度の描写、表現」を実証するために引用したのではないですか?) I was trying to say and trying and the bright shapes began to stop and I tried to get out. I tried to get it off of my face, but the bright shapes were going again.(p.53)ベンジーがキャディーに似た少女に襲いかかり、殴られ目がチカチカとしていることを表現している。(この点に関しては、注釈書で異論も述べられているので参照のこと。) さらに、ベンジーの章ならではの臭覚を使った語りの手法に注目すべきと思われる。たとえば、盲目の人は触覚、聴覚が発達しているように、臭覚を使った表現法は白痴奈良(京都?)ではの動物的勘の鋭さが感じられる。主にキャディーに関するベンジーの観察力という点で、それが顕著に伺える。Caddy smelled like trees.(p.9,19,42,44,48,72etc.)(pp. 9, 19, 42, 44, 48, 72, etc.)コンマ、ピリオドの後にスペースいつもどおりのキャディーに安心感を感じているときにこの表現を見かけることができる。Caddy put her arms around me, and her shining veil, and I couldn’t smell trees anymore and I began to cry.(p.40)こちらは、キャディーの結婚式のシーンでのことである。注釈(「注釈」とはなにか、初出なので、明示しておく必要があります。例えば(大橋健三郎,『響きと怒り』英潮社新社ペンギンブックス注釈書(東京:英潮社新社, 1988). 以下、『注釈』と略す。)のような書き方があります。ただ、そっくり引用しているわけではないので(注釈による)と書く必要もないかも知れません。書き方を工夫してみて下さい。)によると、このtreeの香りは、ベンジーにとってキャディーの「処女性」をの象徴であるという。ということは、ベンジーは嗅ぐことによってキャディーの処女性を鋭く見分けていると言える。(「それがどの様な効果があり、人物のどの様な個性を描き出しているのか」もう少し分析してほしい。) 最後に、この章で頻出する語、文として、moaning/ I began to cry.という表現がある。いずれも、父の死、祖母の死、自分の名前を変えられてしまうとき、キャディーの処女喪失時など、悲劇の始まりを知らせるように挿入されている。(必ずしもそうとは言えないのでは?"moaning"と"crying"は一緒に考えない方がいいようです。馬場さんのゼミ論を参照。)題名のsoundとベンジーの嘆きを重ねて感じることか(が?)できるであろう。 以上のようにベンジーの章では、香り、音を上手く描くことで、文字を超えた表現をフォークナーは試みようとしているのではないかと感じさせるほど、五感に訴えかけるものがある。(同じく、「それがどの様な効果があり、人物のどの様な個性を描き出しているのか」もう少し分析してほしい。)そして、言うまでもなくこの小説の始まりの章を白痴によるベンジーに語らせることで読者をより物語の世界に引きつけるものとなっている。 さて、クエンティンの章もベンジーの章同様、クエンティン自身の記憶や意識が物語りの展開のかぎとなっている。もちろん、この章ではクエンティンの自殺の主な理由が、妹のキャディーの処女喪失である為、主にキャディーに関することが追憶されていく。 Father I have committed….(上記注意)She wouldn’t look at me soft stubborn jaw-angle not back-looking….(上記注意)softly beyond the twilit door the twilight-colored smell of honeysuckle.(p.95)(上記注意)以上のように、キャディーを改装(回想?)しているが、ベンジーの章でも実際に匂いでキャディーを判断していても、クエンティン程何か意味深で官能的ではなかったように思う。意味ありげなtwilight という語からも兄という視点からではなく、より男性としてクエンティンがキャディーを意識しているように感じる。(Good point!) また、この章で頻出するが、That had no sister.(p.77) Did you ever have a sister? Did you? Did you?(p.78 /cf.p.92)(cf. p. 92 の意味不明)という問い掛けるような表現は、まさにクエンティンの心の叫びが強烈に伝わってくるものであり、キャディーに対する肉親愛、またはそれ以上の愛情が含まれる表現である。それ故の心の葛藤もとても痛いほど伝わる。 この章でまた忘れてはならないのは、時計や鐘の音である。どちらもクエンティンが時間というものを以上(以下!)に気にしていることが伝わってくるものである。 時計は父から譲り受けたもので、自殺を決意しても尚時計の音をたえず気にしている。I lay listening to it. Hearing it, that is. I don’t suppose anybody even deliberately listens to a watch or a clock. You have to.(p.76)時を気にしないようにしているが、しかし気になっている。I was in time again. (p.76)のところでは、注釈によると、「Quentinの‘time obsession’を示す。…Quentinは愛するCaddyの‘loss of virginity’および尋常でない結婚によるショックで、‘time’を忘れようとしながらついにわすれえず…‘time’に取りつかれている。」(注釈書p.124)上記注意参照。多分(『注釈』, p. 124)のように初出の説明での表記と一致させるとある。 しかし、私自身ここで強く感じたのは、時計は父から譲り受けたもの、つまり、時間を意識するということは、父に対するクエンティンのコンプレックスのようなもので、それも自殺の要因の一つではないかと思わせる語り口だとも言えるのではないか。なぜなら、 Father said that. That Christ was not crucified: he was worn away by a minute clicking of a little wheels….Father said that constant speculation regarding the position of mechanical hands on an arbitrary dial which is a symptom of mind-function. Excrement Father said like sweating.(p.77)から、父への見解への反発を持ちつつも、父の意見に大変影響されており、それが苦悩となっているように思われるからだ。(I agree! 但し、上記引用を使って、もう少し具体的にQuentinのfather complexを説明できませんか?例えば、授業時にふれた「自殺=時間を超越」のような考えを用いて・・・) とにかく、クエンティンの自殺の原因がなんであれ、本来インテリであるクエンティンの語りの章でベンジーの章のように思い付いたことについての無秩序な回想が続いたり、クオーテーションマークやピリオドが抜けたりすることで、クエンティンの自殺前の精神的錯乱状態、また、頭の良さ故に事を突き詰めて考えてしまう性質がよく表れている。(このような箇所を効果的に引用することもできる。それの方がむしろ「語りの手法」に密接しているとおもいますが・・・)そして、ベンジーもそうであったように、最初に示したhoneysuckleなど臭覚にうったえる表現が多く、クエンティンの勘の良さや、繊細さが伝わってくる語りが目に付いた。(Good point! なので、そこの「手法」を論じてもらいたかった) 次に、ジェイソンの章においては、ベンジー、クエンティンの章とは異なり、感覚にうったえる表現はほとんどなく、会話など人間同士のやりとりを上手く描写することで、ジェイソンの人間臭さというものを強烈に感じる章となっている。 この章で、ジェイソンは姉のキャディーから送ってくる小切手を偽造し、その横領した金で投資を行っているのであるが、やはり現実的な、そして偏見に満ちた考え方を持つ人物と映る。 Once a bitch always a bitch…(p.180)確かに、他の兄弟が非現実的、観念的であるのに対し、この章は現実的な考え方をする人物の語り口となっている。一方、この現実的胡散臭さをジェイソンに持たせたのは、フォークナーはジェイソンが「古い南部に激しく抵抗」(注釈書p.251)(上記注意)しているのを表現したかったのであろう。 そう言える理由として、仕事仲間のアールがジェイソンの母をShe’s a lady. I’ve got a lot of sympathy for…(p.227)と言うのに対して、ジェイソンは”You are my only hope.”(p.200)と言う母に対して決して好意的ではない。 “Thank God you will never know what a mother feels.”ジェイソンはアールの「古い南部気質を身につけた男」(注釈書p.251)のように女性を尊重している訳ではないからである。 また、決して見逃せないことは、ベンジー、クエンティンの章では、「意識の流れ」つまり、現実の中で起こっていることの間に思い出したことをイタリック体で記しながらストーリーが展開していたのに対して、ジェイソンの章では、「意識の流れ」で描かれていない。(一般的にはこの章も「意識の流れ」で描かれている、と考えられています。ジェイソンは現実的な人物なのでQuentinのような「意識の流れ」は彼の頭の中で起こっていない、ほとんど常に目の前にある「現在」についてしか語らないのです。この点は、この章の「語りの手法」を考える上で、もっとも特徴的なことでしょう。従って、ここを中心に分析してもらいたかった)この点から見れば、ベンジーは感覚の世界、クエンティンは観念的、ジェイソンは現実的な人物として描写されていることは決定的であろう。(I agree.)ただ、ディルシーの章では、ジェイソンが金にこだわったり現実的であるのは、憎しみを寄る辺に生きているジェイソンの人間臭さを出したかったと思われる表現がある。 But to have been robbed of that which was to have compensated him for the lost job, which he had acquired through so much effort and risk, by the very symbol of the lost job itself, and worst of all, by a bitch of a girl. (p.307)以上、コンプソン家の3人兄弟の語りの手法を通して三人それぞれの特徴を論じてきた。フォークナー自身は、The Sound and the Furyは3人の兄弟の目から見た妹または、姉キャディーの物語だとかたっているが、私の考えとしては、キャディーを通した3人の兄弟の物語であるとも言えるのではないかと思っている。(Yes, yes!)ベンジーはキャディーを慕っており、クエンティンはキャディーに姉妹以上の感情を抱いており、ジェイソンはキャディーに憎しみを抱いている。(I agree. このことを「語りの手法」と関連づけて重点的に論じてもらいたい)この作品で、フォークナーは語り手を各章ごとに替え、語りの手法を見事にかき分けることで、それぞれの登場人物の心理が(を?)苦労することなしに(「苦労」しませんでしたか?)理解できるような構成となっている。The Sound and the Furyは、設定がたった4日間でありながら、言語にできないような長年にわたる人間関係と心理状態をまざまざと描き出した最高の作品と言えるだろう。(サブタイトルをこの文章で思い出しますが・・・) 総評:結論から言うと、ほんのわずかの差で、あえて不合格とします。上述したように内容の面でやや不満があります。Benjy, Quentin, Jasonの三様の「意識の流れ」の違い、特徴にもっと重点を絞って、論じてもらいたかった。ほぼ、それにそって論じているので、全面的に書き直す必要はありません。それとあまり関係ないところを削り、指摘されたところを全部でなくてもいいですから、もう少し推敲して書き直してみて下さい。 忙しいようですが、他の人のゼミ論とその後半につけた僕のコメントをまず読んで参考にして下さい。できるだけ冬休み明けまでに書き直して、再提出すること。 |
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