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卒業・進路、活躍する卒業生
ドイツ語力を生かして、大きく羽ばたく先輩たち

ドイツ語を生かして、世界を舞台に活躍できる。
商社や旅行会社、サービス関連企業などの海外駐在員として、多くの卒業生が世界を舞台に活躍しています。もちろん、国家公務員や通訳、教員(英語・ドイツ語)として、日本で仕事をする卒業生も少なくありません。ドイツ語圏・ドイツ関連企業への就職も。学内のキャリアセンターが力強くバックアップしていきます。
進路状況(20193月卒業生)
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卒業生情報(2020年1月20日更新
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平林克己さん (写真家)   「京大吉田寮」(草思社)


出版社ページ(草思社)
日刊ゲンダイ紹介記事

卒業生情報(2019年9月30日更新
卒業生情報(2019年7月22日更新
卒業生情報(2019年5月27日更新
卒業生へのインタビュー(2019年5月12日更新
卒業生情報(2018年度更新)
卒業生情報(2015年度更新)

オーストリアに魅せられた日本人/斎藤翼さん(2010年卒業)

今日、海外で働く日本人は少なくありません。その中には出張で赴任された方々も多くいることでしょう。その一方で、自主的に海外で働き、生きることを決めた人たちもいます。その中の一人が斎藤翼さんです。交換留学を決心してからは他学科からも授業を大量に取ったり、家庭教師とともにドイツ語を猛勉強したりと、目標に向けての奮闘が続きます。斎藤さんは2010年に本校を卒業した後(アルブレヒトゼミ)、オーストリアのウィーン大学に入学、修士課程で翻訳学科(日・独・英)を専攻されました。斎藤さんの情報によると、翻訳学科のような言語系はC1が必要で、他の学科であればB2で入学できるとのことです。在学中も日本大使館でのインターンシップ、オーディオガイド翻訳と、精力的に活動。ウィーン大学卒業後はオーストリアの現地手配会社Japan Tyrol Coordinationに就職、ランドオペレーターとして勤務。その後現在に至る。と履歴書のような書き方をしてしまいましたが、それはともかく、インタビューをとおして斎藤さんの素顔に迫っていきましょう。


 「現在の仕事とそこに至る道程」

渡辺:まず、ランドオペレーターとはどんな仕事をするのか、簡単に説明をお願いします。

斎藤:日本の旅行会社ができない手配を代行する仕事です。専用車(バス)やホテル、ハイキングガイドや市内ガイド、レストランなども手配します。ちなみに飛行機の手配はやりません。だから「ランド」なんですね。


渡辺:通訳とは根本的に異なるのですか。

斎藤:そうですね、ランドオペレーターとは違います。ただ基本的に日本の会社を助ける業務をすべて引き受けているので、うちの会社ではやりますよ。例えば一つツアーを組む場合、先ほど言った手配はもちろん、お客さんが現地に来てからのケアもあるわけです。オーストリアはドイツ語圏ですから、通訳およびアシスタントは頻繁に必要になります。
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必要になるのは怪我をしてしまった場合ですね。またテレビの取材が来たときには必ず通訳をつけます。

渡辺:オーストリア独特の単語なども通訳者には必要になりますね。

斎藤:もちろんです。発信の際にはいりませんが、受信の際は知らないと分らないですからね。特にチロルは難しいですよ。

渡辺:どのようにそういった単語を覚えていくのですか。

斎藤:現地の人と話していくしかないと思います。オーストリア語、あるいはチロル語の辞書なんかもありますが、やはり生きた単語ではないので。でもやはり、完璧にはならないので通訳にはある程度ハッタリが必要になってきます。飽くまで個人的な意見ですが、この能力は通訳上級者になるほど上手くなると思っています。同時通訳なら尚更です。

渡辺:そちらの大学で学ばれた通訳は、やはり徹底したものでしたか。

斎藤:翻訳学科だったので、通訳は基本的なことばかりでした。それでもけっこう濃密でしたね。どういった通訳があるのかから始まり、最終的には同時通訳もやらせてもらえました。技能がないと結局、同時通訳はできませんからね。同時通訳はどのように行われているのか、ということを研究している学者さんも多くいるようです。

渡辺:素朴な疑問ですが、どの言語に訳されていたのですか?

斎藤:通常は同時通訳ではないのですが、ドイツ語、英語、日本語です。日本人は自分だけでしたので、基本はすべてドイツ語、英語でした。

渡辺:やはり英語は必須というわけですね。

斎藤:構造が似ているので楽といえば楽でしたが、それ以前に翻訳通訳学科は3言語必須なので、これしか選択肢がありませんでした。通訳の先生が言っていましたが、「母国語と第一外国語は発信も受信も100%できるようにならなければいけない。第二外国語は受信だけでも100%にしなければいけない」ということです。


渡辺:斎藤さんはなぜその職業を選ばれたのでしょうか?

斎藤:現実的な話になりますが、一番はビザの問題ですね。オーストリアは国内で修士学を修めた人に、大学で学んだことを活かせる職業に就いたらビザを出すという法律があるんです。もちろん給料など細かい規定もありますが、そうでないとなかなか労働ビザは出ないと聞いています。
この話題になるといつも言う文句があるのですが、オーストリアで就職活動をする場合、会社はビザを持っていない人は雇わない、けれどもビザを取得するためには仕事が無ければいけないという決定的な矛盾があるんです。

渡辺:なぜか「ケーペニックの大尉」を連想してしまいました。

斎藤:ドイツは大きいので問題はありません。オーストリアで就職できなかったらドイツへ行こうと思っていました。

渡辺:現地の大学在学中にドイツ語圏での就職を考えていたのですか。

斎藤:そうですね、大学卒業が近づくにつれて薄々は。これだけ留学したからには、最初の数年はドイツ語を使った仕事がしたい、と思っていました。

渡辺:現地で働くからには語学力も当然必要になってくると思いますが、それ以外に重要となる「何々力」といったものには何が挙げられますか?

斎藤:オーストリア人気質にあわせなければならない場面が多いので、忍耐力でしょうか。例えばヨーロッパ人はUrlaub、つまり休暇を取ることで有名ですが、担当のホテルスタッフが日本人の団体が泊まっているにもかかわらず、急に休暇に出たりします。四つ星ホテルでも、あなたがいない間大変だったと言うと、法律で休暇を取らないといけないって決まってるのよ、と言ってくるんです。またハイキングガイドなどは夏が書き入れ時なのですが、8月に堂々と一ヶ月休暇に行ってしまう人もいます。
ただ忍耐力がいるのは、会社が日本人を相手にしているからであって、その中に入るのであれば、休暇は逆に魅力的ですよ。法的に一ヶ月も休暇を取らなければいけないんですから。日本の会社に勤めていたら、まずないと思います。
言い換えれば、忍耐力がいるのは日本人の基準をオーストリア人に求めているからです。こう言うと語弊があるかもしれませんが、日本人は注文が多く、求める基準も高いんです。


渡辺:アルブレヒトゼミはオーストリアと関連のある部分も多々あるようですが、留学先をオーストリアに選ばれた理由もそこにあるのですか。

斎藤:獨協のドイツ語学科はオーストリアありきで入りました。2001年に地元の交換プログラムでシュタイアーマルク州のグライスドルフというところにホームステイしているんです。その時からいつかオーストリアに戻りたいと思っていました。その頃は英語もままならなかったのに本当に親切にしてくれて、それが琴線に触れてしまったんですね。

渡辺:第二の故郷、みたいなものになりそうですか。

斎藤:そうですね、シュタイアーマルクはそこまで頻繁に行けなかったのですが、オーストリアという括りであれば第二の故郷と呼べるかもしれません。シュタイアーマルクはオーストリアに興味を持たせてくれた場所、ウィーンは育ててくれた場所、そしてチロルは職を与えてくれた場所です。


渡辺:学生時代の経験で、語学もそうですが、今の仕事に役立っていることはありますか。

斎藤:ウィーンにいるときは、オーストリア国内外含めてけっこう旅行していました。旅行会社なので、やはり実際に行ったところの知識は役に立つことが多いですね。オーストリアにはサマーカードというのがあって、たしか80ユーロくらいでオーストリア国鉄が夏の間ずっと乗り放題になるんです。オーストリアは本当に学生には優しい国です。ウィーンの公共交通のセメスターチケットも格安、保険も格安、授業料に至っては無料なんですから。ウィーンは家賃も安く、毎月300ユーロ弱ほどしか払っていませんでした。ただビザの更新には多額のお金が口座内に必要でしたので、なぜ学生は働けないのに毎月こんなに収入があるって証明しなければならないのだろう、と悶々としていました。

渡辺:やはりオーストリアという国に惹かれて留学されたのですか。

斎藤:はい、2001年のホームステイで人生ががらっと変わりましたからね。ドイツ語は始めないまでも、英語の勉強に精を出すようになりました。
今でもオーストリアに恩返しをしたい、という気持ちで働いています。オーストリアには本当にお世話になりましたから。ウィーン大学にしても、スコットランドの大学へ留学する際、外国人なのに奨学金を出してくれましたからね。ご存じの通り、英語圏の授業料は奨学金でもないと一般人にはとても払えない金額です。授業料を払っていない身としては、感謝の気持ちしかありません。
インターンシップの際も、学科長自らが推薦状を書いてくれました。


渡辺:これから留学したり、斎藤さんのようにドイツ語圏で働きたいという学生もいます。現地に学んで見えてきた利点、それと不便に思ったことなどを教えてください。

斎藤:利点はみなが考えているように、ドイツ語が日常的に使えるということです。言語力が落ちないというのは嬉しいことです。
当然ですが、圧倒的に不便に思うときの方が多いです。お役所との戦いは避けられません。けれど、赤白赤カード・プラスといわれるビザですが、これを5年更新し続けると、EU圏内適用の永住ビザになるということなので、それが当面の目標ですね。それから、いつまで経っても言語の壁というものはあるもので、日本語だったらどんなに楽か、ということが本当に多いです。

渡辺:具体的にはどのような場面でしょうか。

斎藤:会議や交渉に行くとき、どうしても相手のペースになってしまいます。未だに契約書だの法的書類だのに目を通さなければならないときは、溜息が出ます。引いては、文化の壁もありますね。オーストリアにいても、やはり日本が祖国ですから、いつまで経っても和魂洋才の精神は忘れたくありません。

_DSC8432    今でもオーストリアに恩返ししたい、という気持ちで働いています。



 「翻訳奮闘記」

渡辺:少々抽象的な質問になりますが、翻訳の授業について教えてください。

斎藤:まず翻訳学科は実務翻訳と文学翻訳学科に分かれています。斎藤は実務翻訳の方でした。
授業はかなり多岐にわたります。字幕をつける授業だったり、機械翻訳、自動翻訳を学ぶ授業だったり、法廷翻訳家になるための講義、フリーランスとして自立するための講義、それにクリエイティブ・ライティングという授業もありました。もちろんメインは実践となります。日・独・英の翻訳をひたすらさせられます。

渡辺:実務翻訳ではやはり、あらゆるジャンルを扱うのですか。

斎藤:はい。新聞記事から新聞に載っている広告、薬に入っている説明書からドイツ語の歌詞、党選挙のスピーチ原稿、婚約届、運転免許証、特許申請書類などなど、すべて実務翻訳です。もちろんホームページや字幕などのメディア翻訳も含まれます。

渡辺:やはり歴史的背景、文化等の知識も重要になってくるわけですね。

斎藤:そうですね。なので授業によっては現地の人とペアになってというものが多かったです。

渡辺:授業は毎回どのように進むのでしょうか。

斎藤:実際の授業は毎回毎回翻訳の繰り返しです。宿題で翻訳が出されて、ときにはペアを組んで次回までに仕上げ、授業で話し合い添削するというように進みます。
一番記憶に残っている授業は、自分がフリーランスの翻訳家になったと仮定して、先生が翻訳の依頼人となり、最終的に疑似の入金までいったら合格というものがありました。この授業はブロック制のもので、週末に一日講義を受け、それからはずっと宿題というかたちでした。目から鱗ということが多かったですね。
これも大学で習いとても頷けたのですが、翻訳に練習本なんて要らないんです。ベストセラーになった訳書を原文と比べる、それが一番だと言われました。だから翻訳学科に翻訳の教科書はありませんでした。


渡辺:翻訳関連の雑誌などではツール(PC、辞書など)がよく紹介されますが、斎藤さんはどのようなものを利用されていたのでしょうか。専門用語の定義が辞書によって異なるということもあると思います。

斎藤:翻訳支援ツールですね。というのは機械翻訳と翻訳メモリのことで、前者は簡単に言えばグーグル翻訳です。インプットすると自動的に翻訳してしまうもの、そして後者は、これは多くの翻訳者が使っているのですが、一度翻訳した文章を覚えていて、次にそのような文章・表現に出会ったとき、自動的に訳してくれる・候補を挙げてくれるソフトです。
翻訳支援ツール、通称CATはドイツ語の定義では後者のみを指すのですが、英語や日本語では機械翻訳もひっくるめてCATと呼んでいるというのが印象的ですね。

渡辺:紙の辞書はやはり、何冊か使い分けますか。

斎藤:翻訳する文章によって必要になってくる辞書が違ってくるので、毎回図書館に行っていました。専門的になればなるほどインターネットでは調べづらい単語が見つかるので便利でしたが、今は数冊しか持っていません。


渡辺:斎藤さん自身は、翻訳家になり、つまりフリーランスとしてやっていこうと思われたことはなかったのでしょうか。

斎藤:翻訳の会社に勤めるならともかく、フリーランスでというのはなかったですね。孤独な仕事ですから。それから、小説家と違って努力がほとんど報われません。
ここからは受け売りなんですが、翻訳家も音楽家も根本的にはやっていることは同じで、文章あるいは楽譜から読み取れるものを自分なりに表現しているに過ぎないんです。けれど一方で有名な演奏家は後を絶たないのに対し、翻訳家は全くといっていいほど有名にならない。渡辺さんは翻訳の授業を受けているというのでご存知かもしれませんが、翻訳はそんなに簡単な作業ではありませんし、一つの表現に何時間も何日もかかることもあるんです。
翻訳家というのはよほどの大御所でない限り生計が立てられない、これは大学で痛いほど学びました。


渡辺:インプットアウトプット100%ということでしたが、単語の覚え方で特に有効だと思われたものはありますか。

斎藤:アナログですが、やはり単語リストを作るということですね。翻訳の授業では多くが、単語リストを作ることから始まりました。原語の意味、定義、使われ方、そして訳語の意味、定義、使われ方をリストアップするんです。このリストの作成に膨大な時間がかかりましたね。ただ、翻訳に単語力はそこまで求められないのではと、個人的には思っています。つまり、その単語の使われ方が重要なんです。なにせ翻訳の作業中はいくらでも辞書が引けるし、むしろ積極的に辞書を引いたほうがいいくらいなのですから。

渡辺:思い込みで訳すのは危険だと言われますね。

斎藤:だから生の文章を読む、書く、聞く、この3つが本当に大切だと思います。ドイツ語から日本語への翻訳であれば、日本語が一流であればあるほど良い。ドイツ語ばかり勉強していても駄目だということが、痛いほど分りました。

渡辺:翻訳ではなるべく原文の順序で訳していくのがいいと言われます。そうした構造的な面で苦労されたことはありますか。

斎藤:文章に依ると思いますが、特許翻訳などはその典型ですね。ドイツ語が一文であったら、どんなに長くても一文にしなければいけない。文というのは、長くなれば長くなるほど執筆力が問われるのですが、特許の文書は本当に翻訳しづらかったです。
当てはまらない典型としては、字幕がありますね。あれはまた、視聴者が一見して分らなければアウトなので、構造はあまり関係ありません。これはメディア翻訳全般に言えることだと思います。それから学術書を訳すときにでも、訳注を積極的に使いとにかく正確性を求めるものと、読みやすく翻訳したものがあったり、誰を対象にしているかという点でも違ってきます。

渡辺:これからは岩波文庫の訳注も丁寧に読みます。

斎藤:意訳が批判されることが多いと感じていますが、これも対象者にとっては大切なんです。直訳は文化的な相違があった時点で伝わらなくなりますから、直訳が必ずしも良いというわけではありません。


渡辺:では最後に、後輩へのメッセージをお願いします。

斎藤:「オーストリアが好き」という気持ちだけはいつも大切にしてきました。オーストリアが好きだからドイツ語を始め、ウィーンへ留学し、インターンまですることができました。そして今、自分を成長させてくれたオーストリアのために働いています。社会人になる最後のステップだからこそ、好きなものに全力投球してみるのも良いのではないでしょうか。


取材後記
 斎藤さんの言葉から、オーストリアへの愛が自然と湧き出ているように感じられました。ホームステイから始まり、留学、そして現地就職。運命的なものがありますが、そこには決断力・行動力がありました。ナポレオン・ヒルの„Think and Grow Rich“はお金の話もかなり出てはきますが、メンタリティーについても触れています。何かネガティブなことばかり考えていると、それはすぐに「実現」する。同様に、強く思い描いていることは行動を伴うことによって実現する。インタビューを終え、斎藤さんはまさにそれを体現された人ではないかと思えてきました。

では締めくくりに、あるドイツ人の行動を促す言葉を引用してみましょう。

„Was immer du tun kannst oder erträumst zu können, beginne es.
Kühnheit besitzt Genie, Macht und magische Kraft. Beginne es jetzt.“

−Johann Wolfgang von Goethe

(Interviewer:渡辺友樹 ドイツ語学科3)

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学んだことはどこかで役に立つと信じて(千々岩 幸絵さん)


学んだことはどこかで役に立つと信じて
千々岩 幸絵

○現在の仕事内容
私は現在、日本赤十字社神奈川県支部の企画課で勤務しており、広報に関することを担当しています。主な業務は広報紙の発行、取材対応、ホームページの管理、イベントの企画、運営など多岐にわたります。
「赤十字という名前は聞いたことがあるけれど、どんなことをしているのかよくわからない」そんな疑問を持つ人が一人でも減るように、赤十字が何をしているのか多くの方に知っていただき、活動を応援していただけるように一つ一つの事業に取り組んでいます。広報紙やイベントを通じて、感想や励ましの言葉をいただけると「やっていて良かった!」と感じます。
仕事柄ドイツ語を使う機会はほとんどないのですが、今まで思わぬ形でドイツ語を話すときがありました。あるとき、事務所の受付の方から「気分が優れない外国の方が来たので対応してほしい」と連絡がありました。話をしてみるとその人はドイツ人で、急な腹痛に襲われ赤十字のマークを見つけてここに来たということでした。すぐに近くの病院を案内し、大事には至りませんでした。また、イベントを開催したときにも偶然ドイツ人が来て話が弾んだこともあり、赤十字の世界性を感じるとともに、学んだことが色んな形で繋がっているんだなと実感しました。
今の業務を一生懸命やるのはもちろんですが、ドイツにも赤十字があるので、いつかドイツ赤十字社の方と仕事をしたいなと思っています。

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○学生時代の思い出、印象に残っていること、力を注いだこと

私は高校二年生のときのドイツ留学をきっかけにドイツ語を学び始めました。
留学してドイツが大好きになった私は、ドイツへの知識をより深めたいと思い獨協大学のドイツ語学科に入学しました。同じクラスの友人たちは、高校でドイツ語を学んでいたり、ドイツに留学していたり、なんらかの形でドイツに触れていたので共通の話題も多く、また勉強に対しても真剣に取り組んでおり、友人たちと過ごすことがとても楽しかったです。
山本先生のゼミで、ずっとやりたいと思っていたケルン(留学していた町)の「カーニヴァル」について卒論を書くことができたことは、特に思い出に残っています。大学三年生のときには、大学の制度を利用してインターンシップをしました。ドイツでインターンシップができたことは、とても貴重な経験でした。ほかには、友人と出たドイツ語スピーチコンテストなど、獨協大学は私に「やりたいと思ったことは、できるだけ挑戦したい」と思う機会をたくさん与えてくれました。刺激になり、励ましあえる友人と出会えたことに感謝しています。

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○メッセージ
大学は自分の一番したいことができる時期だと思います。自身で学びたいことを選択できる、興味を持ったことを掘り下げることができる、新たな発見があることに嬉しさを感じた大学生活でした。それを感じることができたのは、やりたいことに励む同じような友人がいたから、背中を押してくれた先生方がいたからだと思います。
この原稿を読んでいる皆さんにも、大学生活を通じて新たな出会い、発見があることを祈っています。

ドイツの自動車業界で働く(服部 雄大さん/2010年度卒)


<ドイツの自動車業界で働く>

1、学生時代の思い出、印象に残っていること、力を注いだことなど。

1)獨協大学に入学した経緯・きっかけ
私とドイツの接点は、私が小学6年の時にドイツ人夫婦がホームステイに来たのがきっかけです。「大きくなったらドイツにおいで」と声をかけてくれた事から始まり、高校1年時にベルリンへ留学しました。留学した当初、ドイツ語は挨拶程度しか出来ませんでしたが、周りのサポートのおかげで帰国時には意思疎通ができるレベルになりました。その後、さらにドイツ語の知識を深めるため獨協大学へ入学しました。

2)ドイツ語学科のインターンシッププログラム
大学3年時、ドイツ語学科主催のインターンシッププログラムに参加しました。私の職場はドルトムント市郊外ウナ市のラジオ局でした。日本の大型放送局とは異なり地域密着型のラジオ局だった為、ドイツ人のインターン学生と毎日出張・取材・番組編集を行っていました。 その際実感したのは、自分のドイツ語レベルがまだまだ不十分であるということ。そして、他言語の職場ではコミュニケーションを取るのが難しい反面、その分働き甲斐があるということでした。

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2、近況、現在の仕事内容・様子

1)デンソーに入ったきっかけ
私が就職活動を開始したのは、リーマンショック直後の就職氷河期と呼ばれた時期でした。簡単に内定を貰える時代ではなかったからこそ、真剣に将来の事を考え、悩み、就職活動をした覚えがあります。
私が自動車業界を目指した理由は、他業界と比べグローバル展開が進んでいる為、ドイツへ赴任するチャンスがあると思ったからです。また、完成車メーカーを支えるサプライヤーの仕事にも興味を持ちました。その中でも世界188拠点を持ち、グローカル(グローバルに展開しつつ、ローカルのスタイルを取り入れる)を掲げる当社に共感を覚え、入社を決意しました。
入社後は営業部門へ配属となり、4年間国内営業のサポート業務(販売計画や月次分析など)に従事しました。しかし海外異動が目標だった私にとって、国内営業担当は面白かったものの、目標から遠ざかってしまったように思えました。実際、各ルート営業とのやりとりがメインで、顧客である完成車メーカーとの接点は全くありませんでした。その後ドイツ赴任が実現したのは、面談の度に海外赴任を強く希望したことと、営業システム・計画立案の流れ等、国内で自分が吸収できる知識の深耕に勤めた結果だと思います。

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2)ドイツに来てからの仕事
2013年11月よりDENSO Deutschland GmbHへと赴任となりました。日本で働いていた環境と打って変わり、現職場のチームはたった6人。日本人上司と5人のドイツ人です。ドイツでの仕事は日本同様、各営業の取り纏めだった為、多少日本での経験が活かせたものの、日本とは異なる習慣に手探りの日々でした。一言で「仕事」と言っても、国も違えば考え方・働き方も多様です。ドイツ人の場合、各自の担当業務は完璧に遂行しますが、担当外の業務は指定された仕事でない為、着手しない場合があります。(自分と他人の守備範囲を分けて考える事が多い)これは、どのような仕事でも対応できるオールラウンダーを育てる日本とは異なる点だと思います。
ドイツでの社内用語は基本的に英語です。ドイツ人と仕事をする際はドイツ語を使うケースもありますが、お互いの確実な理解のため英語を多用します。
ドイツは欧州の中でも自動車産業の本拠地です。こちらへ来てから、日系企業が並みいる競合の中で成果を出す難しさ、海外で働く面白さに気づくことが多々あります。
当社が現地のドイツ企業と対峙していく為には、プロジェクトを進めるスピードと、十分なサポート体制が必要です。しかし、当社の本社機能は日本にある為、上記の点で欧州競合に対抗していく難しさがあります。認知度の観点からもビジネスを獲得するのは容易ではありません。
一方で、ドイツの自動車メーカーは日本未導入の製品や先進技術を多用している為、今後の自動車トレンドをいち早くキャッチできる面白さも感じられます。また海外拠点は本社と違い従業員数が少ない為、仕事を通じ、直接他部署やエンジニアにビジネスや製品技術の話を聞ける機会が多いのも利点です。

3、後輩へのメッセージ
これから大きな可能性を持っている学生の皆さんには、10年後の自分をイメージして欲しいと思います。そして今のポジションから、理想の姿の実現を考え目標にブレイクダウンしてみる。その繰り返しによって、自分のありたい姿に一歩ずつ近づけると思います。勿論ドイツ語を勉強したからといってドイツ関連の仕事に従事しなければいけない、ということは決してありません。重要なのは、大学時代までに培ったことを社会でどう活かしたいかを考えることだと思います。
私はトレーニーとして赴任していますが、まだ修行の身です。仕事をより上手く取り回す為に、ローカル社員とのコミュニケーションや仕事の問題点・対応策を日頃から考えるようにしています。試行錯誤の日々ですが、ドイツ語の勉強と同様、確実に一歩ずつ進んでいくことが必要だと思っています。
獨協大学の皆さんは、礼儀正しく素直な学生が多いので卒業生としても誇りに思います。その上で敢えて皆さんにお願いするとすれば、もっと自分の可能性を信じて欲しいということです。「自分に出来るだろうか」ではなく「自分ならできる」という信念を持って下さい。獨協大学なら職員・先生も皆さんをバックアップしてくれるはずです。
限りある学生生活が実り多きものになりますように。数年後の皆さんのご活躍を心待ちにしています。

(株)デンソー 服部雄大
1986
年 愛知県名古屋市生まれ。2002年(高1)にベルリンへ1年間の交換留学を経験。
ヴェルナーゼミ、2010年卒。

ドイツ語を通してのさまざまな出会い(鈴木直さん)


<ドイツ語を通してのさまざまな出会い>

【 現在 】
南ドイツ黒い森の中にある本社での仕事を終え、フランクフルト中央駅近くのホテルでこれを書いています。私が生まれて初めて乗った飛行機は、19歳の時の成田~フランクフルト便でした。あれから20年以上経った今では、仕事で年間5,6回、多い時で10回ほどドイツに来ています。ドイツ本社では、家具や住宅用の木工機械を製造しており、私はその会社の日本現地法人の営業とマーケティングを担当しております。日本では一般家具、キッチン、ドア、オフィス家具、住宅メーカーに機械を納入しています。大学でお使いのテーブルや棚、皆さんの自宅のシステムキッチン、玄関収納、洗面台などの一部はドイツの機械で加工された物かも知れません。

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【 両親からの影響 】
母が家具好きで、私が子供の頃にはよく家具屋さんに行った記憶があります。家の中には家具の雑誌や通販のカタログが置いてありました。その影響もあり、家具、特にヨーロッパ家具(BAUHAUSなど)や絵画に興味を持っていました。それが後の大学・会社選びの際に、ドイツ語学科・就職先を選択することに繋がります。そしてもう1つのドイツ語を選択した理由が陸上競技でした。父が高校で陸上競技を専門に指導していたこともあり、小中学で続けてきたサッカーではなく高校では陸上競技をしていました。私の高校時代に開催されたバルセロナオリンピック陸上競技場と同じ素材を使用したグランドが、地元で普段から使用している競技場で採用されました。 当時の陸上日本代表もそのグランドで練習することがあり、私の高校も一緒に練習に参加させていただくことがありました。その年の100m日本記録保持者が大学生で、彼の留学先がドイツ・マインツ大学でした。何故ドイツなのか? 当時陸上競技と言えばアメリカしか思い浮かばなかった私には目鱗。今思い返してみると自分の両親からの影響を受けながらドイツ語を選択したことが分かります。

【 大学時代、劣等生 】
大学に入るとすぐに同じクラスで友達ができ、色んな話をしました。何故ここの大学なのか? 何故ドイツ語なのか? 多くの友人に共通していた回答は、他の志望校があったが受からなかった、本当はもっと英語が勉強したかった、とのこと。友達の多くは高校までの間に留学を経験していましたし、中には帰国子女もいました。英語の授業では皆、普通に英語を話している(ように当時は見えていました、実際はそこまでで流暢ではなかったと思います)。当時の私は周囲の友人とのモチベーションや英語力の差から劣等感を味わっていました。英語自体は好きでしたが全然話せませんでした。高校までの環境の差は歴然としており、どうすれば埋めることができるのか模索していた気がします。
劣等感を抱えながらもドイツ語も英語もあまり積極的に勉強せずにいると、ある友人から、“大学に来たんだからこれから真剣にドイツ語勉強すればいいじゃない? 勉強しろ! 大学ってそういうとこだろ” と言われました。当然のことなのですが、当然のことを言われるまで気が付きませんでした。ドイツ語を学びに来たはずでしたが、いつの間にか劣等感という言い訳を前面に出していました。それから大学の授業以外に、アルバイトしたお金でドイツ語の語学学校にも通い、真剣にドイツ語に向かい合っていきました。
いつの間にか自然と劣等感も消え、ドイツ語を使った仕事に興味を持ち始めたのが20歳の頃でした。またドイツ語だけでなく、考えることの楽しさや文章をまとめる難しさを感じ、学べたのがゼミでした。ゼミの山本先生や担任だった木内先生の部屋にお邪魔して色んな話が聞けたことなど、そういう日常の些細なことが貴重な時間だったと感じています。授業、語学学校やアルバイト以外では社会人との接点がないため、特に山本先生との会話から学べたことが多々あります。今でも先生と連絡をさせてもらい、出張先のドイツで再会できたときは少しだけ自分が成長できたかなと思えました。

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【 仕事・ドイツ語 】
私が就職活動をしていた頃はすでにバブルがはじけた後で氷河期などと呼ばれた時代でした。ドイツの外資系会社も探しましたが、ほとんどの会社で採用自体を見送っていました。そこで大学の就職窓口で、ドイツ語学科の卒業生を多く採用している会社、特に商社を調べました。すると何社か見つけることができました。内定は、欧州から家具を輸入している専門商社と中堅の総合商社の2社からいただきました。家具の輸入商社にも未練はありましたが、総合商社の中にも家具の輸入部署があったことと、採用試験のドイツ語を評価されたことが決め手になり総合商社を選びました。
入社すると1年半、翻訳・通訳の部署に配属され、ドイツ語・英語の商業文や製品カタログの翻訳をしていました。上司が私の翻訳を赤ペンで修正し、それをノートにまとめる毎日です。今でもそのノートは大事に保管していて、たまに初心に帰るように読み返すことがあります。とても貴重な体験をさせていただきました。1年半後は家具と木工機械の部署に転属、ドイツから来る営業や機械技術者の同行、通訳業務などを担当していました。
商社勤務3年目のときに、あるドイツの取引先の木工機械メーカーから現地法人設立の話をいただきました。商社業務からメーカーへの仕事に興味が変わってきたころだったので、ひとつの転換期と捉え転職を決めました。それが私の現在の会社で、現地法人の設立を “ゼロ”から進めることができました。
商社を辞めた3日後にはドイツへ飛び、黒い森の本社で3か月間研修を受けました。そこでの大きな壁は、その地方独特の方言でした。ドイツには地方毎に方言があり、それぞれ特徴がありますが、黒い森周辺の方言は大学や会社で学んだドイツ語と同じ言語には聞こえません。他の地域に住むドイツ人ですら、あれはドイツ語じゃないと言われる方言、Schwaebisch。例えるなら、異国で標準日本語を勉強した方が、青森の津軽弁を聞くような感じでしょうか。
未だに本社勤務の同僚が複数でSchwaebischを話していると、会話について行かなくなることがあります。(まだまだ修行が足らないようです)

【 会話力・聞く力 】
よく日本人は自己主張が足らない、もっと積極的に意見を言うべきだと耳にします。しかし、日本人として異文化を持つ方々とのコミュニケーションを取っている身として、私の意見は少し異なります。欧米では確かに自己の意見、考えを伝えることは大事ですし、伝えなければ、何も考えていないと誤解されるケースもあります。でも、現状では日本にそのような文化が根付いていない限り、それを求めても難しいでしょう。無理に自己主張をして、自分の考えでもないことを言葉だけでまとめ上げてしまっては本末転倒です。私の考える日本人に合ったコミュニケーション能力・会話力の向上は、まず相手の意見をよく聞くこと。私は仕事でドイツ人と打合せすることが多々ありますが、会話量でドイツ人と私のそれを比較すると7:3(場合によっては8:2)位でしょう。圧倒的にドイツの同僚が話しています。社会人になりたての頃は、単純に会話についていけずに、聞き手に回っていました。しかし、今はそれを意図的にしています。対ドイツ人だけでなく、私の営業スタイルも同様です。つまり日本人のお客様との会話でも、同じようにまずは相手にいっぱい話してもらいます。そこから相手の思いや考え方を自分に吸収します、それから自分の考えを伝えるようにしています。
ドイツ語学習でも話すことはもちろん大事ですが、それ以上に聞く力を身につけて下さい。将来、ドイツ語と関係のない仕事に就いたとしても、聞く力は今の日本人に合った最高のコミュニケーション能力の一つだと思います。会話の中に、色んなヒント・要素が隠れています。どうして、こういう表現・言い回しを使ったのか? 常に謙虚さを持ちながら生活をしていると、必然的によい聞き手として会話を進めることができるようになります。また自分の考えをまとめるきっかけにもなります。

【 震災・日本・自分について 】
私が大学生の時に阪神淡路大震災とサリン事件がありました。日本中がなにかどんよりしたものを感じながら生活をおくっていた時代のような気がします。当時、松原団地のアパート住まいだった私にとって特に日比谷線のテロはとても身近なものとして不安や行き場のない憤りを感じていました。その後、社会人になり、アメリカの同時多発テロ9.11や2011年の東日本大震災。 3.11当時は仙台勤務だったので、被災者として不安を抱えながらも、復興を目指して頑張って生きたいと前向きな考えに切り替えることが自然とできた気がします。あの震災で大きな逆境に置かれながらも、周囲への優しさや謙虚さを持てる日本人は素晴らしいと実感し、少しでもこの良さを外に広めたいとも思うようにもなりました。

今の大学生には、そういう日本が世界に誇れるもの・技術・ホスピタリティーをもっと感じてほしいと思います。最近海外で日本の大学生を見かけることが少なくなってきている気がします。むしろ、韓国や中国の学生を多く見かけます。日本を出て、海外から日本を見直してみると少しだけ自分と向き合えるかも知れません。大学生の頃は仙台の実家に帰省する新幹線の中で、よく将来のことや勉強のことを考えていました。今では国内線やフランクフルトからの帰国便の中で、仕事や家族のことを考えます。普段と違う環境にいると少し客観的な感情も生まれてきます。

ドイツ語を学んでいなければ、大学時代の友人や先生、今の仕事、同僚、取引先の方々に出会うことはありませんでした。この素晴らしい出会いを与えてくれた両親に感謝しています。自分も結婚し、親となり始めて親の大変さを知りました。

是非、外に出て自分を見つめて下さい。周囲への優しさ、感謝、謙虚さを持っていれば、日本人であることが誇らしく感じられることでしょう。


ドイツ語学科卒業
鈴木直(すずき なおし)

卒業生情報

Jリーグからオリンピックまで、取材で駆け巡る日々(1997年卒業)



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これを読んでいるみなさんの中には
FC東京や大分トリニータのファンの方もいるのではないでしょうか。私は現在、サッカー専門誌の記者としてその2チームを担当し、取材に飛び回る刺激的な毎日を送っています。自分自身、高校時代や社会人になっても熱中するほどサッカーが好きなため、選手や社長、ポペイロ(用具係)の方にまで話を聞ける日々には、仕事とは感じない位の楽しさと興奮を覚えます。昨年は北京五輪にも行きましたが、やはり目の前の感動を言葉にして伝えられること、一流の選手の声を直に聞けること、そして読者の方から「記事よかったよ」と言われることが何よりのやりがいですね。ドイツのサッカーリーグであるブンデスリーガやドイツ語圏の大会や選手の取材では在学中に学んだドイツ語で話が弾み、つくづくしっかり勉強しておいてよかったと感じました。いまこうして働いているのも、在学中ゼミや留学に夢中になって取り組んでいるうちに、やりたいことを見つけられたからこそ。みなさんもきっと獨協大学なら、自分だけの夢を見つけられると思いますよ。

株式会社日本スポーツ企画出版社 週刊サッカーダイジェスト編集部
ドイツ語学科1997年卒業

目標を持ち続けて頑張って!(2002年卒)


 二十歳を目前にした初の海外渡航は、獨協大学の夏季短期語学研修でした。デュースブルクで過ごした4週間までは、その後、海外で長期滞在をすることなんて、とても想像できませんでした。その988月から11年半の年月のうち、私のドイツ滞在は8年半もの期間となりました。フランクフルト滞在も、もう7年近くになりました。


()フランクフルトの町並み


 短期語学研修を2回、その後ハイデルベルク大学へ計1年半の留学、その後、約3年に渡るホテルマン研修とフロントスタッフとしての1年間の勤務。ちょうどその頃には、獨協大学ニュースにも取り上げていただいたことがありました。ドイツ語学科の学生にとって、ドイツ語に対するモチベーションをキープするのは中々難しいところ。でも英語のように話せて当たり前の言葉ではないものを、きっちりと話せるようになってこそ、社会に出てからも武器になると思います。
 その後、転職を2度し、約2年半前から現在の勤務先、ANAフランクフルト支店で営業スタッフとして働いています。日系企業ですので、お客様との会話を含め、普段は日本語が多いですが、ドイツ人の同僚とはドイツ語、全体の会議などでは英語と、学生生活からホテルマン時代を通じて培ってきた語学力を発揮する場にも恵まれ、満足しています。

   (下)ANAフランクフルト支店の同僚たち

また営業というのは、売る物についての専門知識が必要ですが、基本的にはお客様に対して親切であること、それが何よりも大切です。ホテル業界と航空業界で異業種とも言えますが、お客様に対するスタンスという意味では、ホテル時代と同じです。

 ホテル時代は不定期の休みだったのが、平日出勤、週末休みになり、自分の好きなスポーツを定期的に行うことも可能になり、余暇も充実しています。会社の同僚の皆さんにも非常に仲良くしてもらっており、週末はテニス部、ソフトボール部の活動をしたり、ブンデスリーガの観戦に行ったりしています。2009年のフランクフルト法人会のソフトボール大会では、準決勝で引き分けの末、惜しくもじゃんけんで敗れましたが、3位決定戦で勝ち、出場約30チーム中3位になりました。  

()ANAドイツのソフトボールチーム

『ドイツ語の獨協』ということで、一時開店休業状態だった、同窓会ドイツ支部の活動も3年ほど前に復活させようという動きになり、現在は数ヶ月に1度のペースで、毎回1015名の獨協生の皆さんと同窓会を開催しています。昨年夏からその同窓会の幹事を任されていますが、毎回新たな参加者が加わり、いかに獨協がドイツに根付いているかを感じます。また色々な業種、色々な立場の方々と「獨協生」というひとつの共通点のおかげでつながれる同窓会は、毎回新鮮でとても面白く、今後さらに盛り上げていきたいと思っています。



(上)獨協同窓会支部の集まり

 ご存知のとおり、2010年は航空業界にとって激動の1年となりそうです。また個人的にも社内での担当替えが昨秋行われ、今年はその新しいテリトリーでのチャレンジの年になります。皆さんは大学に入り、新たな言語・ドイツ語と向き合っていることと思います。ドイツ語はできるようになればなるほど、それを活かす可能性は広がっていきます。最初は初級修了試験でもなんでも構いません。常に目標を持ち、そしてそれを超えたらさらに上を目指してがんばってください。ふと気がついたら、いつの間にか、とても高いところにいられると思いますよ。

伊藤 雅人 (いとう まさと)
1978年愛知県名古屋市生まれ。1997年ドイツ語学科入学、柿沼ゼミ、2002年卒。

さらに磨きをかけた自分へ〜


私が海外に興味を持ち、またドイツに興味を持つようになったのは中学2年生のころでした。父の仕事の関係でイギリスに1年住むことになったのです。それをきっかけに、私の人生は大きく変わったように思います。

「なぜドイツ語?」と周囲の人々からもよく聞かれますが、理由は単純です。イギリス滞在中にドイツを訪れた際、「絵本の中のような街並み、人が優しく、スタンドのソーセージが格別!」という印象を持ったことです。

ドイツをもっと知りたい、そんなシンプルな理由から、ドイツ語のカリキュラムの評判が高かった獨協大学に入学しました。在学中は、クラスや敬和館仲間にも恵まれ、充実した大学生活を送ることができました。また、先生達の丁寧な指導、熱意のおかげでどんどんドイツが好きになっていきました!

さて、本題の仕事のお話です!

私は入社以来7年間JTBで海外旅行の企画を担当しています。皆さんがよく目にする「ルックJTB」ではなく、「旅彩彩」というシニア向けのブランドです。
JTBのお店には置いてありますので、是非ご覧になってみて下さい!


私が勤めているお店は「JTBロイヤルロード銀座」という富裕層をターゲットにした支店です。高級志向の旅行、音楽専門の旅行、クルーズ等こだわりの旅を企画・販売する部署で、他の店舗とは扱っているものが少し違います。

私の担当は、ヨーロッパのイギリス、ドイツ、中欧、オランダ、ベルギー、ニュージーランドです。企画というと一見華やかな仕事に見えますが、ツアー企画の仕事は業務のほんの一部、実際動いているツアーのメンテナンス等それ以外の細かな仕事がほとんどです!それでも「自分の好きなことを仕事にできるのは幸せだな」と、最近特に思うようになりました。

パンフレット作成時期は基本的に年2回ですが、自分の好きな国の情報を集め、それぞれの国の魅力を伝えるためにはどうすればいいか、どんなツアーが売れるか、など試行錯誤している時がやはり一番楽しく、やりがいがあります。また、航空会社や政府観光局、現地の手配会社ともお付き合いする機会が多々あり、それによって人脈が広がり、様々な人から刺激が得られることもこの仕事のやりがいですね。仕事柄海外の人と接することも多く、ドイツ語、英語を耳にする機会も結構あります。


旅行会社に興味を持っている皆さん!!

旅行好きの方にはたまらない仕事だと思います!何といっても好きなことを仕事にできますので、仕事というより趣味感覚で働いている人が多い感じがします。

労働時間は基本長めですが、業界全体が体育会系のノリなので、たくさん仕事し、遊び(飲み?)・・・とメリハリをつけて日々忙しくしている人が多いです。

皆さんの中には、「就職」が全てを決めてしまうと思い込み、就職活動で悩んでいる人もいると思いますが、それは違います。確かに社会人になることは人生の大きな節目ですが、就職してからさらに自分に磨きをかけ、成長していくものだと私は思います。完璧な新入社員など誰も期待していませんよ。

私の周りには希望の会社に入ったけれど退職した人もいますし、希望の会社ではなかったけれども楽しく続けている人もいます。また、転職して成功している人も、海外に飛びだった人もいます。人生、仕事も人それぞれですので、自分に素直にがんばってください!

結果は後からついてきますよ!

最後に・・

入社した頃、私の上司は「誠実(素朴?)で、忍耐力があるのが獨協生だよね」と言って下さり、とてもうれしかったのを覚えています。

私も皆さんにそれを期待しています!

関内沙綾(Saaya Sekichi)

人生どこでどうなるかわからないーだから面白い(1996年度卒)


高校時代に第二外国語でドイツ語を履修していたことがきっかけで、獨協大学ドイツ語学科に進学しました。また、日本語教師養成課程が修得出来るのも獨協の大きな魅力でした。

ドイツ語学科出身の私が人生で大きな転機(?)を迎えたのは大学
3年生の時でした。入学前からドイツ語と同じ位興味を持っていた言語、「スペイン語」を自由選択科目で2年生から履修していたのですが、3年生の夏休みを利用してバルセロナへ6週間滞在しました。



せっかくだからということで、現地の学生寮へ入り、語学学校へ通いました。ドイツ語学科の私にとっては、全くの未知の世界、スペイン語での生活でした。当時、東洋人は少なく、欧米圏の学生に囲まれての授業はとてもキツイものがありました。大学の卒業に関係の無い「スペイン語」、言ってみれば、趣味程度で一年ちょっと(しかも週二回)学習しただけで、会話も文法もスラスラ出来るはずもありません。そんな中、当時のクラスメートや多国籍の寮仲間に恵まれた環境のお陰で、私は6週間後には、普通に会話が出来るようになっていました。帰国後、大学に戻った時には、大変困った思いをしたものです。

それからの2年間は、専門のドイツ語とスペイン語をいかに並行して続けて行けるか?私の中での葛藤が始まりました。

卒業後、縁があって、バルセロナに戻ることが出来、その後3年間日本で再び勤務しましたが、その間もずっと「スペイン語」を使った仕事をしてこられました。旅行業、電子通信業、小売業、どれを取っても、自分を成長させるものであり、また人と人とのふれあいがある業務でした。

母語、日本語を含め、英語、ドイツ語、スペイン語、どんな言語を取っても、言葉は「生きて」います。そして、どんな業界に行っても、自分の意思を伝える手段でもあります。私は、卒業後、スペイン語を通じて、スペインという国の文化で生活して来ましたが、ドイツ語学科で4年間、ドイツ語と文化に触れ合った時間というのは、大変貴重で、いとおしいと思っています。欧州に住んでいれば、ドイツ語に触れる機会もたくさんありますから。そして、今の自分があるのは、過去の全ての経験があるからこそ、なのです。

在学中は、「将来、何をしたいのか分からない。自分の選択した学部が本当に正しかったのか?」と多くの学生が悩みます。私もその一人でした。でも、卒業して10年以上も経った今、それでいいと思えるようになりました。
人間は、いろいろな経験をしながら「自己改革」をし、自分が見えて来るんだと思います。
私がそのいい例ではありませんか?
在校生、そして、これから進学される皆さんには、「自分に正直に、今やってみたいこと全てに挑戦してみて下さい。答えは、後から着いてくるものだから。」というメッセージをお送りします。


大西美鈴 ドイツ語学科
1996年度卒
旅行業界(
JTB)、電子通信業(旧日本テレコム)、小売業を経て、今年20094月にスペインより帰国。現在小売業関連会社の海外事業部に勤務。20024月~200412月までJTBバルセロナ営業所に駐在。
スペイン・バルセロナ市の滞在暦は、
1997年~1999年、2002年~20094月までの約9年間。2008年、スペイン永住権を取得。

ドイツ語学科入学から始まったドイツとの長〜い関係(1996年度卒業)


 もともと日本語教師の教育を受けることを目的に獨協大学に入学しました。欧州で日本語を教授する場合には欧州の言語を一つ習得していることが条件となる、といったことを何かの本で読んでいたこともあり、ドイツ語を学びながら日本語教育の勉強ができる獨協大学は私にとって最適の環境でした。とはいえ、優秀な学生の多かったドイツ語学科での私の成績はお恥ずかしながらよろしくなく、一般課程の2年はもっぱら軽音楽部にて音楽に熱中する毎日でした。3回生になり、ドイツ語をまじめに勉強していた友人に誘われてデュースブルグ大学の夏の研修に応募し、ぎりぎりの定員で5週間ドイツおよび欧州に滞在することになりました。この経験がこの後の私の将来をすべて変えるきっかけになるとは、この時は思いもしませんでした。
 ドイツで過ごした約5週間で欧州での生活と欧州の豊かさに魅せられてしまった私は、卒業後渡独することを決め、まず提携先のデュースブルグ大学へ転入しました。そこでドイツ語を学んだ後、翌年には本格的に言語学で修士を取るためにルール大学へ編入しました。そこで、日本語の文法学を専門とされていた教授に日本語教師としての熱意を訴えました。熱意が通じたか、入学して半年で当大学の非常勤講師のポストをいただき、当時最年少講師として働きながら修士号取得に向けて勉強を続け、2000年に卒業することができました。

 非常勤講師のポストは2001年で契約満了、企業への転進を希望していた私は、欧米系の企業にて就職先を探しました。たまたま日系企業の営業担当を探していた米系保険コンサルティング会社で採用が決まり、ドイツ西部の日系企業の法人営業担当として日々企業保険や団体保険の営業を担当、事務所ではドイツ人の専門家に保険の教育を受けました。ドイツ式保険のあり方を学び、それを日系企業へサービスとして提供するという仕事からは、本当の意味でドイツの社会、仕組み、文化について学ぶことができました。また、大学でさっぱり上達しないなぁと困っていたドイツ語にも社会人になってから磨きがかかり、自信を持てるようになりました。3年間の勤務の間に、仕事を通じてTDK社長の鈴木氏に出会い、彼が立ち上げたキーンバウム社の日系企業部門でその拡大に貢献しないかと誘いを受けました。「人事」といったテーマに大きな興味を持った私は、転職を決めました。ドイツでは最大手の人事コンサルティング会社であるキーンバウムも日系企業間の知名度はとても低く、その知名度を上げることからスタートしました。当初2,5名でスタートした部門は2007年後半には6名体制にまで大きくなりました。

 仕事もプライベートも充実したドイツ生活を満喫していましたが、配偶者のアジアへの転勤をきっかけに共にアジアへ転勤することを決意し、2008年に12年間過ごしたドイツを離れて、シンガポール、上海へと移動しました。ゆったりと時間の動く欧州での生活も気に入っていましたが、もともと東京で活動することの多かった私にとっては「都会」の生活を再度実現できる最適なチャンスでもありました。また、運良くキーンバウムグループのアジア拠点で仕事を続けることになりました。ドイツでの知名度が高いことから当社はドイツ系クライアントを多く持つのですが、中国のシェア、事業を伸ばすことが私のミッションであり、上海の欧州コミュニティー、日系企業の間で日々営業活動に励んでおります。現在世界的な不景気による打撃はありますが、ネットワークや長期的な営業活動から広がるビジネスなのであせらず、欧州や日系企業から学んだ企業精神を日々応用し、活動する毎日です。


 

 誠実に目標をもって活動し、その目標を達成することには海外も日本も違いはありません。場所や環境によって大きな妥協をしたり姿勢を変えることなく行動することがよい結果を生むと、私はこの体験で教えられました。さまざまなことを体験できる大学在籍中に、実際には計画性があまりなかったとしてもいろいろなことを体験してみたことが、今日までの自分にさまざまな環境で自己判断をする力を与えてくれたと思います。やってみたいと思ったら努力を惜しまず試してみることです!その積み重ねが、きっと後々に役に立つ経験になっていくものだと思います。

ドイツ語学科1996年度卒業
高木典子

翻訳を通じて環境保護に貢献(1998年卒業)


007年春にベルリンに来てからの仕事は、環境教育の書籍や報告書、温暖化対策についてのパンフレットを翻訳したり、環境教育関連の法規について調べてまとめたり、ドイツの持続可能な発展のための教育(ESD)について論文を書いたり、環境教育の現場視察のコーディネートや通訳をしたり、というもの。週末には市場や蚤の市に買いものに行ったり、友人とブランチをしたり、仲間とクラインガルテンで有機野菜を栽培したりしています。

ドイツ語学科在籍だった私がドイツに足を運んだのは、卒業してから4年半も過ぎてからのこと。学生時代はサークルの音楽活動に夢中になり、ドイツ語は身につかずじまい。また、仕事のイメージを具体化できなかった私の当時の就職活動は中途半端に終わりました。

卒業後、趣味の音楽が高じて職に就くことはできたものの、「自分の仕事」を求めて、翻訳専門学校に通い始めました。そこで学んだのは英日の翻訳でしたが、ドイツ語を一からやり直すつもりでした。翻訳家という狭き門で英語+アルファの翻訳ができるのは「強み」であることと、よりよい社会や住環境のために働くことを自分のライフワークにしたいと思い、まずはドイツの先進的な環境対策などを訳書を通じて日本に紹介できればと思ったからです。

翻訳学校でゼミまで修了した後、2002年、初めてドイツに渡りました。場所は南ドイツのフライブルク。環境首都として注目を浴びている街で環境政策や市民活動を肌で感じたいと思いました。語学学校でMittelstufeを修了、のんびりしている私は異文化に慣れるのに何ヶ月もかかり、いよいよ仕事を探そう!とエンジンがかかり出した頃に帰国となりました。

帰国後は、ドイツでの仕事探しの傍ら、環境NGOでドイツの環境政策を研究するプロジェクトのお手伝いを始めました。このインターンが面白く、結局そのままスタッフ登用され、ドイツの環境政策の調査や、ドイツへのエコツアーの企画・添乗、ドイツ人研究者を招聘してのシンポジウム開催など、3年半の間にドイツ語を使って様々な活動をしました。なかでも一番印象に残っているのは、ドイツ環境自然保護連盟(BUND)青年部の仲間と参加した愛・地球博のことです。彼らとメールや電話ベースで1年かけて環境教育体験プログラムを準備し、現場監督として名古屋で1ヶ月間、2人のドイツ人スタッフと40名を超えるボランティアさんと一緒に環境保護をアピールしました。また、このNGOの仕事の傍ら、翻訳も2冊こなしました。念願の訳書出版です。

今の主人と知り合って2007年に2度めのドイツ暮らしをスタートしました。現在は翻訳を「自分にできる社会貢献」としてとらえ、「自分は翻訳家というよりも環境保護活動家」という意識で仕事にこだわらずボランティアにも携わり、昨年ボンで開催された生物多様性会議のNGO会合などに協力しています。仕事が重なってばたばたしているときもありますが、大学院生の顔も持っています。2007年秋からロストック大学修士課程に在籍、持続可能な発展のための教育が研究テーマです。社会人向けの通信コースのため、月に一度北ドイツのロストックで週末セミナーがある他は、自宅で勉強しています。先日子どもが産まれて春からは学業は育児休暇に入りますが、いずれ修士論文を書き終えたらまた本腰を入れて学んだことをアウトプットしたいと考えています。

自分の大切にしたいことを明確にしてそのために行動する勇気があれば、いずれは自分の道にたどり着くものだと思います。これまで私の頭にあったのは「翻訳」「ドイツ語」「環境問題」という断片的な3つのキーワードだけですが、そのおかげで迷いなく進んでこられたと思っています。




アイクマイヤー有美子(1998年ドイツ語学科卒)
旧姓、染谷。埼玉県生まれ。卒業後、楽器メーカーに2年間勤務。翻訳家を志し、派遣で仕事をしながら翻訳専門学校に1年半通学。2002年秋よりワーキングホリデーにてドイツ・フライブルクに滞在。帰国後の2003年秋から環境NGOでインターンシップを開始、以後スタッフとなり3年半勤務する。2007年春、ベルリンに転居。現在は環境分野を中心に翻訳や調査の仕事をしながら、ロストック大学大学院Umwelt & Bildung修士課程に在籍し、持続可能な発展のための教育について研究している。共訳書に『グローバルな正義を求めて』『未来は緑ードイツ緑党 親綱領』(ともに緑風出版)がある。

ブログ「ベルリンで考える心地よい暮らし」にて情報発信中 
http://yumikov.exblog.jp/

ドイツ語を「学ぶ側」から「使う側」へ


 私は獨協大学ドイツ語学科を卒業後も東京ドイツ文化センター Goethe-Institutでドイツ語の勉強を続けています。途中、「何のためにドイツ語を学んでいるのだろう?」「どんなに勉強しても所詮ドイツ人にはなれない。研究テーマがあるわけでもない。」という疑問にぶち当たって散々悩みました。卒業後はドイツレストランで働いていたため、体力的にきつくなった時期もありました。そんな時は「ドイツ語の勉強をやめた後でする後悔よりは、続けていく苦しみの方が良い」と考えました。その甲斐あって、仕事をしながらもKDSを取得しました。
 今はドイツからサプリメントを輸入する会社に勤め、翻訳や、チャット・スカイプを使ってのドイツ本社とのやりとり全般を担当しています。また、2004年にはドイツのボランティア活動や国際協力、支援活動を伝え、共に考えるために、さらには同じ興味を持つたくさんの人たちとのネットワークを広げるためにNGO「Deutsch Cafe & Bar eins 1」を立ち上げました。ただいま、奮闘中です!

HP:
http://www16.ocn.ne.jp/~bar
blog:
http://blog.livedoor.jp/eins10315/

 途中、Mittelstufeのあたりでぶつかった疑問、「なぜドイツ語を勉強するのか?」に対する私の答えは、「本人が自分の中に見つけなければ見つからない」というものです。「語学」と「将来の仕事」を考えると、現代ならばスペイン語・フランス語・中国語・タイ語を習得した方が貿易関係の就職には有利かもしれませんし、ビジネスマンとしてならば、最初に英語ありき、でしょう。帰国子女やハーフの子たちが普通にいる今の世の中、ドイツ語をやってどうなるのか?という漠然とした疑問も浮かんできます。国際関係の舞台に必要なのは、職場公用語の英語と西・仏・露・中のどれかであって、ドイツ語は含まれていませんものね。だから、「ドイツやドイツ語に関わって生きていく可能性」は自分で求めなければなりません。そして、そのためには「アンテナ」を張って情報収集をし、色んなジャンルに足を突っ込んでみる事です。どれだけ本気で求め、探すか、です。


(写真は本文とは関係ありません)


 例えば、ドイツ語がペラペラな学生には、ぜひドイツ語ボランティアとして私が属している東京都の防災語学ボランティアや各NPO、NGOの語学ボランティアに登録し、活動してみることをお勧めします。そうすると、活動している方々の想いをいかにドイツ語で表現するか?から始まり、話者の想いを変えずにドイツ語で表現することの難しさを知り、自分の能力を客観的に見るきっかけとなります。おのずと自分に足りないものや、次にやるべきことが見えてきます。それはドイツ語の勉強かも知れませんし、人間としての知識や経験かもしれません。
 留学を希望する学生さんにはぜひ行ってきてもらいたいです。ドイツで語学学校に行けば、スイス人のようにドイツ語ができないと仕事が見つけられないという母国の社会的事情から学校に来る学生や、難民としてドイツにやって来る政治的背景をもつ学生、ノルウェー人やイタリア人のように転職するために、またはキャリアステップアップのためにドイツ語能力を身につけに来たという学生に出会います。私は留学中に旧ユーゴスラヴィアからの紛争避難民の学生に出会い、その出会いは、今のNGO活動につながっています。

 ドイツ語を「学ぶ側」から「使う側」へと、少しずつ移行してみてください。きっと、道は開けてきます。

NGO Deutsch Cafe & Bar eins 1 代表
黑川 亜矢子
ayasan@aioros.ocn.ne.jp

夢の日本語教師〜実現の秘訣は欲張ること!(2001年卒業)



2008年夏学期修了パーティー(中央浴衣姿が筆者)


 日本語教師という職業に出会ったのは、大学に入ってからです。日本語教師養成課程の説明会を聞きに行き、面白そうだと履修することにしました。実際、主専攻のドイツ語より面白く(ドイツ語学科の先生方、ごめんなさい)すっかり日本語教育の世界に魅了されてしまいました。大学3年生になり、周りが就職活動を始める中で、日本語教師になりたいという気持ちと、ドイツ語学科なのにドイツ語もできないし、高校時代からの夢だった留学もしたいという気持ちの間で日々悩んでいました。結局、大学を卒業後、ドイツに留学することにしました。留学先には日本語教育がある大学を志望し、ドイツ語を学ぶと同時にドイツの日本語教育にも触れてみたいと思っていました。最初の半年間はデュッセルドルフにある語学学校(
SprachforumIIK)に通ってドイツ語を学び、その後、獨協大学とも提携しているデュースブルク・エッセン大学に入学しました。

 私がデュースブルク・エッセン大学に入った頃、ちょうど日本語アルバイトの空きがあり、試験の採点などをしながら、日本語の授業を見学させていただけることになりました。最後の一学期は日本語のTutorとしてTutoriumの授業を二つ担当させたいただき、日本語教師としてのキャリアをスタートさせることができました。その頃から、少しずつドイツの大学で日本語教師をしたいという気持ちが強くなっていきました。これは当時お世話になった日本語教師の先生方の影響が大きいと思います。彼女たちはみな既に修士を持っていましたが、さらに博士を目指し、日々研究の心を忘れず熱心で、学部の世界しか知らなかった私にとってとても刺激になりました。

 ドイツに来て1年半後、ドイツに残ることも考えましたが、早く修士を取りたかったので、日本の大学院の修士課程に入ることにしました。ドイツから帰国してすぐに日本語学校での非常勤講師として働き始め、
早稲田大学の大学院日本語教育研究科で科目等履修生も始めました。当時はまだ獨協に日本語教育の大学院がなかったので、早稲田大学大学院日本語教育研究科修士課程を受験することにしました。2003年9月に2度目の受験でようやく大学院に入学し、それからは、研究を進めながら、日本語教師としての仕事をこなし、ウェイトレスなどのアルバイトを続ける日々でした。2005年9月に修士課程を修了し、すぐに早稲田大学の日本語教育研究センターで契約講師として働き始めました。

 ドイツで就職する機会はずっと待っていましたが、なかなかありませんでした。早稲田で働き始めて1年後にようやく大学院の先輩からドイツの
レーゲンスブルク大学で求人があると情報をいただきました。早速、現地の大学に問い合わせたところ、日本からの応募は私だけだったようで、交通費は自分持ちだが面接と模擬授業のためだけにドイツに来られるかと聞かれました。少し迷いましたが、ゼミの先生に「最後のチャンスかもしれないから」と背中を後押ししていただき、履歴書などの準備を始めました。当時バイトしていたドイツレストランの仲間に、少し年配のドイツ人で履歴書を添削してくれる人がいたので、彼にドイツ式履歴書の書き方を伝授してもらいました。おかげで、無事一次に通過し、面接に招待してもらいました。

 後から聞いた話だと応募者12人中、面接を受けたのは私を含め3人で、その中でも私の模擬授業が一番学生たちに好評だったとのことでした。応募者の中には日本語教育の知識がない人もいたらしく、獨協での副専攻と早稲田での修士、さらにそれまでの日本語教師としての実践経験を考慮して採用してもらえたのだと思いました。

 今はこちらに来てちょうど5学期目が終わり、授業もコピーや学生登録などの様々な事務仕事もスムーズにこなせるようになりました。ここレーゲンスブルク大学は日本学(Japanologie)がなく、語学センターに所属する全学対象の日本語クラスしかありません。それでも、毎学期約50人の学生が日本語を学んでいます。金沢大学などとの交換留学制度もあり、2008年に初めてゼロから教えた学生たちを日本に送り出しました。


日本文化入門クラスにて


 基本的に日本語で日本語を教える直説法で教えているので、私が授業中にドイツ語を話すことはあまりまりませんが、学生からの質問や大学での事務処理、またはプライベートではドイツ語が欠かせません。獨協で学んだドイツ語と日本語教育が活かせる仕事に就けて、私は幸せだなと思っています。これからも、学生によりよい授業を提供できるように日々研究の心を忘れないようにしていきたいです。

高邑真弓(たかむらまゆみ)
2001年ドイツ語学科卒業。日本語教師養成課程を副専攻で履修する。大学を卒業後、ドイツ、デュッセルドルフの語学学校に半年、Duisburg-Essen大学に一年在籍し、帰国後、2005年9月に早稲田大学大学院日本語教育研究科修士課程を修了する。早稲田大学で一年日本語契約講師を務めた後、2006年11月よりドイツレーゲンスブルク大学で日本語教師(専任)として勤務している。

夢をかなえて〜日本流のサービスをドイツで〜(2007年卒業)



「せっかくドイツ語を勉強しているのだから、ドイツ語圏で働いてみたい!」そんな思いから、在学中にウィーンでのインターンシップに挑戦した私ですが、現在の会社に就職したいと考え始めたきっかけをくれたのが、実はこのインターンシップでした。
研修のほとんどをマーケティング部でお世話になっていましたが、1日だけショップで販売の経験もさせていただくことができました。その際、アウガルテンに一人だけいる日本人の販売員さんの細やかな接客がとても印象的だったのです、というのも、ウィーン留学中は現地の「アンチ・サービス」に慣れきってしまい、そのときに今一度「日本流サービスの素晴らしさ」に気づかされました。
日本からいらっしゃったお客様に、安心してお買い物を楽しんでいただける場を、日本ではなく、このアンチサービス大国・ドイツで提供する
この点に大きな魅力を感じ、ドイツ三越への入社を希望するに至りました。

念願叶って
20074月からこちらで働き始め、現時点では社会人2年目も半分過ぎたところです。私の仕事の最重要業務はもちろん接客ですが、店頭業務以外にもメッセ訪問等、いろんなことを経験することができました。また、お客様はほとんどが日本人の方々で、きちんとした日本語を話さなければならないのはもちろんですが、ドイツ人のお客様や取引先との日々のやり取りはすべてドイツ語です。まだまだ勉強中ではあるものの、獨協大学で培ったドイツ語力が実践でしっかりと役立っています!
また、ここで随分鍛えられたなぁと感じているのはメンタル面です。ドイツ人はお国柄仕事はきっちりするイメージがあるかもしれませんが、実際私が日々感じるのは、彼らはやっぱりちょっと適当です。業務上問題が起こったとき、すべての取引先担当者が速やかに対処してくれるものでもなく、時には開き直った態度をされることもあります。そんなとき躊躇してはっきり物を言えないのが昔の私でしたが、特に社会人になってからは仕事に対する責任も大きく感じ、躊躇せずに物事をはっきり伝える重要性を認識するようになりました。
私が受け持っている担当のひとつが陶器ということもあり、最近ではヨーロッパで一番伝統のあるマイセンで
3日間の研修を受ける機会をいただくことができました。一般開放されていない工房の見学などもでき、とても貴重で興味深い経験。

休日といえば、友達とゆっくりお茶をしたりして過ごしています。連休がとれれば、ヨーロッパ内を転々と旅行しています。懐かしのウィーンにもたまに遊びに行きます!
現在の職場ではいろんな業務を経験できる分、その仕事ひとつひとつに対する責任が大きく、社会人になったばかりの自分には荷が重過ぎると感じることもありました。また、日本の家族や友人とも遠くはなれ、みんなが恋しくなることもたびたびあります。
そんな中、ドイツに来てからであった職場の人々や友人にも支えられて、いまや社会人2年生になりました。
これから先の展望としては、まだまだやりたいことがたくさんあって定まらないというのが実際のところですが、しばらくはドイツで社会人としての経験をつみたいと考えています。
ゆくゆくはまたウィーンに戻って、もっと勉強し、語学に関連した仕事に従事できればとも考えています。
在学生の皆さん、獨協には素敵な先生方がいらっしゃいますし、素晴らしい学習環境や留学・インターンシップなどの制度が整っています。役立てるも無駄にしてしまうも、自分次第です。皆さんの充実した大学生活と、その後の発展を応援しています!



海田実希(2007年3月卒業)
在学中(大学4年次)に1年間、ウィーン大学に交換留学。
留学中の夏休みに獨協大学のインターンシッププログラムを利用して、ウィーンの磁器工房アウガルテンで約1ヶ月間のインターンシップを経験。
20074月からデュッセルドルフにあるドイツ三越に勤務。

目をそらさず、自分を信じて(1998年卒業)


ドイツ語学科で4年間勉強をした際に、短期留学の経験によってだけでなく、普段の大学での授業で素晴らしい先生方から影響を受けることにもより、私の夢である ドイツで働き、生活してみたいという願いは私の中で自然に強くなっていきました。

 卒業後、運よくすぐにドイツのデュッセルドルフ市で働ける事になり、始めの1年数ヶ月は日本食レストランで働き、少しずつドイツの生活に慣れていく事ができました。その後、ドイツ人友人の紹介でドイツの電気販売店に転職し、社内に日本人が全くいない環境に入りました。


SATURNにて


主な業務は、日本人客に対する接客、通訳、苦情処理などでした。日本人とドイツ人の考え方の違いの狭間に立たされたことも何度かありましたが、それは経験を重ねるにつれ悩む事も減ってきました。また同僚にはドイツ人だけでなく、様々な国籍や宗教の人たちが多かった事もあり、多様の文化、意見に触れる事もでき、私にとっては貴重な日々でした。


 この10年間のドイツ滞在を振り返ってみて思う事は、苦しいまたは悲しい状況に出くわしてもそれと向き合い、受け入れる姿勢が大事だという事です。目をそらさず、自分を信じて、様々な人々、状況、環境に歩み寄って見て下さい。それと、

海外に出るのは、ぜひ若いうちに!


沢山のことを吸収してください。


小山久美さん: 1998年ドイツ語学科卒業 元SATURN 勤務

ホテルマンの夢 〜 英語だけでなくドイツ語力も 〜(2005年卒業)

 
ドイツ語学科在学中にドイツ・オーストリアの歴史・文化に魅了され、ドイツ語とオーケストラ活動に没頭。ドイツとオーストリアを旅行したとき、ユースホステルやホテルなど、ヨーロッパ独特の宿泊施設に泊まったことがきっかけでホテルの裏側に関心を抱き、卒業後
ヒルトン東京に入社。


会計士、ウェイターの現場を3年経験したのち、今年4月より現職。今後は会計学や法律も勉強していく予定。夢は、ドイツ・オーストリアと日本の架橋的存在になること。



-在学生へのメッセージ-
ユーロ高が続く昨今、私が勤めるホテルや都内のいたる所で、ヨーロッパからの旅行者・訪問者が数多く見受けられるようになりました。

獨協大学には、ドイツ語を学ぶ最適な環境がそろっています。私は、大学入学前に留学経験やドイツ語学習歴はまったくありませんでしたが、獨協大学の優秀な教授陣の指導のもとゼロからドイツ語の学習を始め、在学中にZertifikat Deutsch(ドイツ語基礎統一試験)に合格することができました。現在は、仕事の合い間の時間を使ってラジオ講座を聴いたり、中級試験や
Test DaF(DaFはDeutsch als Fremdsprache「外国語としてのドイツ語」の略称。このTest DaFの成績は、ドイツの大学に入学するための語学力資格として公式に認められています)受験に向けて奮闘しています。

ドイツ語を学んでいるみなさん、そしてこれからドイツ語を学ぼうとしているみなさん、獨協大学ドイツ語学科で自分の可能性を広げてください。近い将来、英語だけでなくドイツ語力も重要視される日が来るはずです。




松浦健生(マツウラタケオ、05年ドイツ語学科卒)
1983年、埼玉県生まれ
勤務先:
ヒルトン東京、会計監査役

法律を通じて日本とドイツの架け橋に


20033月、ドイツ語学科を卒業した「永田トーマス洋平さん」からのメッセージ。
ドイツ語学習に恵まれた環境にあったとはいえ、永田さんは日本生まれの日本育ち、小学校からずっと日本の普通校の出身です。


ドイツ語を本気で学びたいと思って1999年獨協大学に入学。在学中、デュースブルク大学(現デュースブルク・エッセン大学)への交換留学やベルリン自由大学への認定留学など、計2年間のドイツ留学を経て、2003年4月よりベルリン自由大学法学部に入学。そして2008年3月、第一次司法試験(Erste juristische Staatsprüfung)に初回挑戦で合格。これから2年間の司法修習を経て、ドイツで弁護士の道を目指しています。
将来は法律を通じて、日本とドイツの架け橋になりたい、と思っています。



口頭試験合格決定直後
一次司法試験を目指して
1年間いっしょに勉強したLerngruppeの仲間と

在校生へのメッセージ:

本気でドイツ語を勉強したい人にとって、獨協大学はうってつけの場です。先生方の専門分野の知識は豊富ですし、短期/長期留学の環境が整っています。ただ、自分から学ばない限り、ドイツ語は身につきません。EUが拡大を続ける中、ドイツ語の能力はますます重要視されてきています。法学に関して言えば、ローマ法からの長い歴史を持つドイツの法律を学びに、毎年数多くの留学生がドイツの大学に来ています。

僕は、計2年間のドイツ留学を経て、ドイツ語学科を卒業しましたが、やはり最初はドイツ語での法律の講義についていけず、苦労しました。ただ、自分だけわからないまま、講義が進んでしまうのが嫌だったので、毎日、どれだけ時間がかかっても、わかるまで復習するように心がけました。あれから5年経った今では、法律の話や論文作成は日本語でするよりドイツ語でのほうが楽になりました。一次国家試験に無事合格した今では、何事もがんばればできる、と信じて疑いません。在校生のみなさんも、がんばれる何かを見つけて、是非、夢を実現してください。

パティシエール根岸靖乃さんの挑戦(1998年卒業)

-夢はまだまだ実現途中-

ドイツ語学科の卒業生のなかには、ヨーロッパ各地でしっかり根を張ってそれぞれの仕事で活躍している人たちがたくさんいる。

根岸 靖乃さんもその一人。大学卒業後、菓子作りのプロを目指し、ドイツ人の若者たちに混じって、厳しいマイスター制度の階段を下から一つ、一つ、着実にクリアしてきた。

つらい『見習い』の修業期間を終えて、1人前の職人としての資格証明書『Gesellenbrief』を獲得したのが2002年。その能力と熱意をかわれて、
ベルリンのインターコンチネンタルホテルによばれた。明るく、誠実な人柄は、同僚たちにも高く評価され、小柄な彼女のために、仕事をしやすいように同僚たちがわざわざ踏み台を作ってプレゼントしたほど。

仕事のかたわら、さらに技能を高め、法規や経理などの勉強もして、2006年、独立して開業する権利と後進養成の義務がある『マイスター』の資格試験にトップクラスの成績で合格した。

各地のホテルやパティストリーから声をかけられている根岸さんだが、『独自の世界を持ちたい』と、シュガークラフトにも取り組み、特別修行を重ねて、2007年には、全ドイツとスイスからの挑戦者によるJGSシュガークラフト・コンテストに参加、8時間ぶっ通しで審査員たちの目の前で独創的な作品を仕上げ、トップファイブに選ばれた。



『まだまだ学びたいこともあるし、幅も広げたい』と、これからもドイツで活動を続ける根岸さん。『そんなにすごいことができるのは、きっと特別な人だからでしょう?』と言いたい後輩たちにメッセージ。
『自分を信じて進んでください。たとえ思ったようにうまくいかなくても、それは決して無駄なことではなく、そこから学ぶことでさらに成長できるはずです。他人の評価よりも、自分自身がベストを尽くしたと思えることが一番大事なことだと思います。』

根岸 靖乃さん(98年独卒)Negishi Yasuno
ドイツ・インターコンチネンタルホテル専属 菓子職人
1976年、千葉県生まれ。本学在学中に参加したドイツでの夏期外国語研修中にドイツ菓子に魅せられ、卒業後渡独。現地の菓子店で職人見習いをしながら専門訓練を積み、2002年1月、Gesellenbrief(職人資格試験合格証)を取得。7月より現職。2007年にはパティシエMeisterbrief(マイスター資格)を取得。
2008Baeckermeister(パン類マイスター資格)取得。現在は、フランクフルトで専門店勤務。