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    ユネスコ世界遺産に登録されているドイツ国内の文化・自然遺産の一覧。
     地図上の番号と地図下の一覧番号を照らし合わせてご覧ください。

    de_world_heritage_map

    1.シュトラールズントとヴィスマール

    シュトラールズント
    ドイツ人に人気の高いリゾート地の一つでもあり、北のヴェネツィアとも呼ばれている水の都、シュトラールズント。ハンザ都市として栄えた古い町並みが特徴的。文化歴史博物館と海洋博物館があり、隣り合っている。教会や修道院をそのまま利用しているため独特の雰囲気がある。海洋博物館には水族館もあるのでドイツの水族館に興味がある人にはお勧めだ。

    ヴィースマール
    ヴィスマールは10000平方メートルのほぼ正方形のマルクト広場を中心に給水塔や市庁舎やレストランなどが見所。天気がいい日は港町ならではの風景が楽しめる。世界遺産としてはシュトラールズントとヴィスマールはともに「シュトラールズントとヴィスマールの歴史地区」として併用して登録されている。

    (朝崎 真実)

    2.リューベック



    リューベック(Lübeck)は、バルト海に面する北ドイツの都市である。中世後期にバルト海周辺のヨーロッパ北部に巨大な経済圏を擁したハンザ同盟の中心都市であり、「ハンザの女王」という異称で呼ばれた。
    現存するゴシック様式の壮麗な建築物の数々が、かつての商業都市としての繁栄を現在に伝えている。特に、旧市街地の入り口にある
    ホルステン門(写真)はリューベックを象徴するレンガ造りの建造物であり、旧50ドイツマルク紙幣の図柄にもなっていた。




    また、リューベックは、ノーベル文学賞受賞者であるトーマス・マン(Paul Thomas Mann)の故郷でもある。商人一族の没落を描いた彼の長編小説『ブッデンブローク家の人々(Buddenbrooks)』は、実際にリューベックの商人であったトーマス・マンの一族をモデルにして書かれた。現在、マンの生家は記念館となっている。
    (写真左:市庁舎)

    (星 遼子)

    3.ブレーメン

    ブレーメンの音楽隊の街で有名であるが、世界遺産に登録されているのは、マルクト広場に位置する市庁舎とローラント像である。 
    市庁舎は、ゴシック様式とルネサンス様式を駆使した市の象徴ともいえる建物であり、市民からも愛されている。
    ローラント像は中世文学の「ローランの歌」に登場する英雄ローラントをかたどったものであり、ブレーメン市内にはこれ以外にも4つある。ブレーメンの自由都市としての尊厳を象徴している。
    (写真:20112月旅行時のもの)


    (三浦 芙美)



    4.ベルリンのムゼーウムスインゼル(博物館島)

    博物館島


     シュプレー川の中州には第二次大戦で破壊されるまで、ベルリンの王宮があった。1950年に破壊された王宮が撤去されると、中州の北側に19〜20世紀に造られた5つの博物館が残ったため、ムゼウムス・インゼル(博物館島)と呼ばれるようになった。
    1.アルテス・ムゼウム(旧博物館)
    プロイセン王国が集めてきた古代コレクションが展示されている。1830年に完成したもので、大英博物館やミュンヘンの古代彫刻美術館と並ぶ、ヨーロッパ最古の博物館の一つ

    2.ノイエス・ムゼウム(新博物館)
     第二次大戦中に壊滅的な被害を受けて放置されていたが、2003年から修復工事が始まり、2009年に完成。有名な『ネフェルティティの胸像』を始め、5700もの古代美術コレクションを誇る。

    3.旧ナショナルギャラリー
     1876年に建設された、ギリシャ神殿風の建物。世界的な名画は少ないものの、味わい深いドイツ絵画が充実している。

    4.ベルガモン博物館
     1930年に建てられた、博物館島で最後の建物。博物館島で最後の建物。古代都市ベルガモンから発掘されて有名な『ゼウスの祭壇』で世界に知られている。

    5.ボーデ博物館
     1904年にできた4番目の博物館。「フリードリヒ行程博物館」と呼ばれていたが、第二次大戦後建設当時の官庁ヴィルヘルム・フォン・ボーデ氏の名をとって変更された。古いコインのコレクションが有名。

    (柳川 早久)


    出典元URL
    http://www.osaka-kobe.diplo.de/Vertretung/osaka/ja/01/Bildergalerie/Bildgalerie__Berlin.html?offset=6


    出典元URL
    http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany/berlin/travelogue/10420179/

    5.ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群


    ドイツのポツダムとベルリンにある複数の旧宮殿建築物とその付属庭園や公園が世界遺産に登録されている。これらはプロイセン王国時代に作られたもので、代表的なものがフリードリヒ
    2世の命によって建てられた黄色い外観のおしゃれな宮殿サンスーシ(写真)や、ポツダム会談でも使用されたツェツィーリエンホーフ宮殿などである。ヨーロッパらしい古城や、手入れされた美しい庭園は四季を通してそれぞれ趣のある景色を見ることができる。

    (其田 佐和子)



    6.ヒルデスハイムの聖マリア大聖堂と聖ミカエル教会


    ヒルデスハイムはハルツ地方とハイデ地方、ヴェーザー川が挟む地域の文化的な中心地である。この町には11世紀創建のロマネスク教会が3つあり、そのうちの2つが世界遺産に登録されている。どちらの教会もベルンヴァルト司教(993年~1022年)の創造力と実力を象徴するものである。ヒルデスハイムが栄えたのもベルンヴァルトの功績によるところが大きい。
    聖マリア大聖堂

    この大聖堂の入り口は「ベンヴァルトの門」と呼ばれている。旧約聖書と新約聖書をモチーフにした青銅製の彫刻が彫られている。大聖堂に入ると建物が新しいことに気付く。これはヒルデスハイムが第二次世界大戦の被害を受けたためである。現在の大聖堂は戦後に再建された。戦時中、瓦礫と化した大聖堂の写真も堂内に展示されている。堂内ではほかにも戦火を逃れた手工芸品も展示してある。特にベルンヴァルト司教の手によって作られた「ベルンヴァルトの扉」と「キリストの円柱」がみどころだ。








    聖ミヒャエル教会

    ベルンヴァルト司教により設計され
    1010年に完成した。ドイツで最も美しい初期ロマネスク様式の教会ある。ロマネスク建築の代表作品と呼ばれている。聖堂の地下にはベルンヴァルト司教が埋葬されている。最大の見どころはドイツでは珍しい平らな天井に描かれている絵である。1300枚の板に描かれているこの絵は「エッサイの樹」と呼ばれるキリストの系図を示している。


                 (新居田 真麻)

    7.ランメルスベルク鉱山とゴスラー旧市街

    この世界遺産はゴスラーの市街地とランメスベルク鉱山で構成されている。
    ランメスベルク鉱山は、ニーダーザクセン州のハルツ山地の海抜635mの鉱山で1000年以上前から採掘がおこなわれている。かつては、銀や銅鉛などが採掘されていたが現在では枯渇し1988年に閉鎖された。
    また、ゴスラーの街は魔女で有名である。これは430日に魔女がハルツ山地のもっとも高い山であるブロッケン山に集まる「ヴァルプルギスの夜」の言い伝えでも知られている。ゲーテも「ファウスト」の中でそのこと触れている。
    写真:bundestor.comより

    (三浦 芙美)

    8.クヴェートリンブルクの聖堂参事会教会、城と旧市街

    ドイツ中央部、ザクセン=アンハルト州に位置する、国家発祥の地と呼ばれるクヴェトリンブルクQuedlinburgには、15世紀からの古い木組みの家が1300軒以上も建ち並んでおり、中世の街並みが今も残る貴重な遺産となっています。クヴェトリンブルクの歴史は9世紀初頭までさかのぼります。922年に初めて文献にでており、ハインリヒ捕鳥王による寄進の一部として記録されています。この街の見どころには木組みの家のほかにも、聖セルヴァティウス教会があり、ハインリヒはこの教会で眠っています。また、クヴェトリンブルク城も見どころです。城の窓からみる旧市街は美しく、多くの木組みの家が立ち並ぶ様をみることができます。最も古い木骨組の家は1340年頃に建てられた家で、現在、木骨組家屋博物館となっています。街の中心にはマルクト広場があり、1310年に建てられた市庁舎と自由の象徴であるローラント像があります。また芸術家リオネル・ファイニンガーの作品を欧州で最も多く所有するリオネル・ファイニンガー美術館も見どころのひとつです。

    (田中 亮自)                              

    9.アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルター記念建造物群


    登録年:1996年
    マルティン・ルターはアイスレーベンに生まれ、アイスレーベンで亡くなりました。古いマルクト広場には立派な市民の家屋やルターの記念碑、歴史的な市庁舎があり、ここから旧市街巡りに出発します。ルターの生家、洗礼を受けた聖ペトリ・パウリ教会、ルター説教壇のある聖サンドレアス教会、さらに欧州で唯一の石絵の聖書がある聖アネン教会があり、博物館は1546年2月18日にルターが逝去した家です。ヴィッテンベルクの旧市街ではまず城教会を訪れます。ルターが95ヶ条のテーゼを張った扉とルターの墓、メランヒトンの墓があります。そこからクラナッハの館、さらにクラナッハ祭壇のある市教会、ルターとメランヒトンの家を訪ねます。選帝侯のフリードリッヒ賢侯は15世紀の終わりころよりヴィッテンベルクに居城を置いていました。賢侯は1502年に大学を創設し、ルターをはじめとする宗教改革者の活躍によりヴィッテンベルクはヨーロッパの精神界の中心となりました。マルティン・ルターは1511年より町のアウグスチン会僧院で僧侶、教授として暮らしていました。1525年に結婚した後、家を贈与され、ルターの居間は今日でも当時のままで残っています。

    (岡田 真莉菜)

    10.デッサウ・ヴェルリッツの庭園王国

    ヴェルリッツの湖岸地帯は、 古くよりデッサウの領主が狩猟の場にしてきたところで、 その為17世紀以来別荘が多く建てられてきました。18世紀後半にレオポルト三世フリードリッヒ・フランツは古い別荘地や堤防を破壊して庭園を作るための湿地を設け、人間と自然の調和を目的とした庭園をヴェルリッツに創設しました。ここには以来50年間にわたって庭園が造園されつづけ、デッサウは、 世界中から注目される庭園国家となりました。 人工的につくった湖沼や水路など自然風景とともに、新古典主義様式による城や館、ヴィラや神殿、彫刻や橋、さらにはロマンティックな廃墟などが散りばめられています。レオポルト三世は啓蒙主義者であったこともあり、自然風景と建築群の配置を計算し、計画的に建設された啓蒙主義的な庭園と言えます。景観設計の代表例として、2000年に世界遺産(文化遺産)に登録されました。

    (真鍋 亜沙子)

    11.ヴァイマルとデッサウのバウハウスとその関連遺産群

    登録年:1996年 
    登録区分:文化遺産
    位置:チューリンゲン州、ザクセン・アンハルト州
    アクセス:ドイツ北東部、ライプツィヒの南西約130kmのヴァイマルと、同じく北約70kmのデッサウ
    (ベルリンから列車で約1時間半)

    デッサウのバウハウス新校舎
    概要:バウハウスは1919年、初代校長ヴァルター・グロピウスによって開校された美術と建築の総合的な学校である。グロピウス、2代目校長ハンネス・マイヤー、3代目校長ミース・ファン・デア・ローエと続いたが、ナチスの弾圧によりわずか14年で幕を閉じることとなった。短い期間であったにもかかわらず、バウハウスは機能的で美しい芸術作品を数多く残しており、現代の建築や生活に様々な影響を及ぼしている。

                               
    アム・ホルンの実験住宅


    ワシリーチェア

    上の写真は、ハウス・アム・ホルンの実験住宅である。無装飾で小型化、コストダウン、機能性を追求した鉄筋コンクリートの平屋建築である。下の写真は、ワシリーチェアと言い、椅子が木や布でつくられていた当時、スティールが使われる椅子は画期的なものであった。これを生み出したマルセル・ブロイヤーは自転車のハンドルからそれを家具に応用することを思いついたそうだ。       

    (綿貫 由佳)


    12.バート・ムスカウのムスカアー公園

    〈写真URLhttp://world_heritage.jaxa.jp/ja/search/detail.php?froml=list&from=category&id=594

                
     ポーランド、ドイツの国境を流れるナイセ川の両岸にあるムスカウアー公園
    (ドイツ連邦共和国、ラウズィッツ地方)/ムジャコフスキ公園(ポーランド共和国)は、国境を越える文化遺産のひとつだ。1815年から1845年の間に造られた。土地に根付く植物を重んじて、既存の景観のもつ質を向上させた。ゆったりとした設計、広い視界、さまざまな力強い庭園装飾、人工的な水の流れに特色がある。草木で絵を描いたとも、三次元的な絵とも評される。
    〈参考文献〉☆獨協大学で手に入る文献だけで書いたよ!(ただし写真はインターネットから)
    『世界遺産年報2005No. 10、日本ユネスコ協会連盟、2005年。(図書館)
    『世界遺産年報2009No. 14、日本ユネスコ協会連盟、2008年。(図書館)
    『ドイツのユネスコ世界遺産』(201173031日、獨協大学ドイチュラント・フェストのとき、ブースを出して下さったドイツ観光局の方に頂いたもの)








    クイズのこたえ〉
    Muskauer Park liegt in Polen.  ムスカウアー公園はポーランドにあります。
    スカオアァ ークト ーレン
    Muskauer Park liegt in Deutschland.  ムスカウアー公園はドイツにあります。
    スカオアァ  ークト イチュラント
    Muskauer Park lächelt in Deutschland.  ムスカウアー公園はドイツでほほえんでいます。
    スカオアァ ヒェルト イチュラント

    (文責・志村二朗、2011121)

    14.古典主義の都ヴァイマル

    古典主義の都ヴァイマル(独:Klassisches Weimar
    :文化遺産
    登録年 1998
    場所:ヴァイマルは、ベルリンの南西約230kmのドイツ中東部に位置。

    ヴァイマルは18世紀末から19世紀初頭にかけて、ザクセン公の保護のもとに、ゲーテ、シラーといった数多くの文化人が集い、ドイツ古典主義の中心地として栄えた町。
    「ゲーテハウス」、「シラーハウス」や、ヘルダー教会の名で親しまれている「聖ペーター&パウル市教会」、画家クラナハ親子の作品を収蔵する「ヴァイマル城」など、文化人ゆかりの建物が数多く残っている。

    世界遺産登録に当たっては、当時を偲ばせる建築物や公園など、以下の合計11件が対象とされている。
    ゲーテの家
    シラーの家
    市教会、ヘルダーの家、旧高校
    市の城
    寡婦宮殿
    アンナ・アマーリア大公妃図書館
    大公の墓所と歴史的墓所
    ロマン主義の家、ゲーテの園亭と庭園を含むイルム河畔公園
    ベルヴェデーレの城、オレンジ温室、庭園
    ティーフルト城と庭園
    エッタースブルクの城と庭園
                                   

    ゲーテとシラーの像

    アクセス:フランクフルトからICEで約2時間30分。中央駅から主な見どころが集まる
    マルクト広場までは、徒歩20分ほど。158番のバスで約5分。

    (元石 衣美)

    15.アイゼナハのヴァルトブルク城

    ヴァルトブルク城(ユネスコ世界遺産1999年登録)


    (写真URL http://japaneseclass.jp/trends/about/ヴァルトブルク城)

     ヴァルトブルク城は、テューリンゲン州アイゼナッハに位置しています。ドイツの中世に建てられた城の中で最もよく保存された古城の一つで、千年におよぶ歴史とともに、ドイツでも高い人気と知名度を誇り、1999年以降ユネスコ世界遺産に指定されています。ヴァルトブルク城では、ロマネスク、ゴシック、19世紀の建築様式を見ることができます。城に一歩踏み入れば900年の歳月を綴る古い歴史書が開かれます。中世の宮廷芸術、聖エリザベートの生涯と功績、マルティン・ルターの新約聖書の翻訳、そしてドイツ統合と統一を象徴する縁の場所などがあります。
    ドイツの歴史文化を語る表舞台には必ずヴァルトブルク城が登場します。この城は堅固な要塞、きらびやかな移城として栄え、ガイドツアーでめぐればルーカス・クラナッハによる有名な絵画、貴重なタペストリー、ティルマン・リーメンシュナイダーの彫刻、ルネサンス様式の工芸品、素晴らしい調度品など歴史と文化と芸術を余すことなく見ることができます。

                         (平野 里奈)

    16.エッセンのツォルフェライン炭坑業遺産群

    エッセン ツォルフェライン炭坑
    登録年:2001
    登録区分:文化遺産
    位置:ノルトライン・ヴェストファーレン州
    アクセス:ドイツ北西部、デュッセルドルフ北東約30kmのエッセン近郊

    ツォルフェライン第12炭坑
    画像:Wikipediaより

    概要:

    工業都市エッセンを中心とするルール地方は、現在も欧州最大の工業地帯である。中でも同地域の炭坑群は、19世紀半ばにツォルフェライン(関税同盟)炭坑として合併し、20世紀初頭には世界最大の採掘量を誇った。1847年から1986年の間操業していたエッセンで最後の炭鉱である。
    特に第12炭坑は造形学校バウハウスのデザインを採用した、能率よりも美的側面を重んじたもので、世界で最も美しい炭鉱と言われており、欧州における建築デザインの歴史を伝える貴重な資料となっている。
    12炭坑は現在ビジターセンターとなっており、カフェが併設され、展示会が行われている。
    遺跡と現代プロダクト、一見不釣り合いのように感じるが下の写真のように絶妙に配置されている。現代プロダクトの光沢ある美しさが世界遺産の錆色の中に、花を添えるように展示されている。

    画像:AISINDESIGNより

    (綿貫 由佳)

    17.ケルン大聖堂

    ケルン大聖堂(独:Kölner Dom
    正式名称:ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂(Dom St. Peter und Maria

    分類:文化遺産
    登録年:1996
    場所:ノルトライン=ヴェストファーレン州ケルン

    ケルン市のシンボルであるケルン大聖堂。13世紀半ばに工事を始め、600年以上の歳月をかけて完成したゴシック様式の聖堂。建造物そのものに備わっている格別の価値とともに、ヨーロッパに脈々と続くキリスト教信仰の証としての価値が評価されている。内部は美しいステンドグラスで覆われている。南棟へは533段の階段で上がることができる。

     ケルン大聖堂は1996年に文化遺産に登録されたが、2004年にユネスコの危機遺産リストに掲載された。その理由は、周辺での高層ビルの開発が進んだせいで、ケルン市のシンボルである大聖堂の景観を損なってしまうというものだった。その後、建設計画の縮小や周辺の管理計画の改善により、2006年7月にリトアニアのヴィリニュスで行われた第30回世界遺産委員会で、危機遺産リストから除外された。


    アクセス:フランクフルトからICEで約1時間15分、2€64~。
    デュッセルドルフからICEで約25分、2€16.50~。中央駅から徒歩1分。

    主要寸法:
    ・全体の縦幅:144.58 m 、全体の横幅:86.25 m
    南塔の高さ:157.31 m 、北塔の高さ:157.38 m
    建築面積:7,914 m²

    (元石 衣美)

    18.ブリュールのアウグストゥスブルク城と別邸ファルケンルスト

    ブリュール アウグストゥスブルク城とファルケンルスト宮殿

    画像URLgermany.travel
    ノルトライン・ヴェストファーレン州にあるブリュールにはアウグストゥスブルク城と、そこから約2キロ離れた場所にファルケンルスト宮殿の2つの建造物がある。アウグストゥスブルク城は1768年に完成、ファルケンルスト宮殿は1737年に完成したものであり、ドイツロココ様式の傑作である。
    1994
    年まで、アウグストゥスブルク城はドイツの大統領が国賓をもたらすレセプション・ホールとして使用されており、一方でファルケンルスト宮殿は造られた当時、鷹狩り用として使用されていた。

    ・世界遺産登録年:1984(文化遺産)
    ・アクセス:ケルン中央駅から電車で約10

    (並木 恵)

    19.アーヘン大聖堂

    アーヘン大聖堂~Aachener Dom
    ドイツ西部のアーヘンにある大聖堂である。アーヘン大聖堂は「皇帝の大聖堂」~Kaiserdom~とも呼ばれ、大聖堂としては北部ヨーロッパ最古のものである。
    カール大帝が礼拝堂として、9世紀初頭に建てさせたもので、八角形の丸屋根をもっている。この大聖堂の特徴はロマネスク様式とゴシック様式が混在しているところである。
    また、936年から1531年にかけての約600年間に神聖ローマ帝国の30人の皇帝たちの戴冠式が執り行われた場所でもある。


    聖堂の内部は、外見とはまた異なる美しさがある。中でも右写真の金色に輝く祭壇とステンドグラスは見どころである。聖堂の西側にある宝物館~Domschatzkammer~には、カール大帝の大きな金の胸像など、カール大帝とその帝国の栄光が偲ばれる品々が並ぶ。
    1978年、アーヘン大聖堂はユネスコの世界遺産リストの登録のための最初の12の遺跡の一つになった。

    (大橋 美和)

    20.ライン渓谷中流上部

    登録年2002
    スイス、オーストリア、ドイツを通りフランスに接して北海へと流れ込む大河ライン。その川の中でも最も美しい景色とうたわれるのがこの中域に位置するドイツのマインツとコブレンツという街の間の約65キロです。夏にはライン川下りなるクルーズ船によるツアーが多数あり、ゆっくりと船が進むにつれて見えてくる川沿いの美しい古城や趣深い小さな街々、実り多きブドウ畑、それらをつつむ大きな自然がツアーを盛り上げる。また、なんといっても日本でもよく知られている伝説の『ローレライ』である。ここを訪ねた際には、岩に佇む美しいローレライの歌声に惑わされないよう気をつけてほしい。
    (写真:Wikipediaより)


    (其田 佐和子)

    21.トリーア大聖堂

    トリーア大聖堂
    http://homepage2.nifty.com/bachhaus/reise/trier.html
    別名聖ペテロ大聖堂とも言い、ドイツ最古の大聖堂。ケルン大聖堂、マインツ大聖堂と並んでドイツ三大大聖堂の一つでもあります。トリ―ア大聖堂は11世紀の聖堂建築の傑作といわれ、ロマネスク様式です。ローマ遺跡としては、ポルタ・ニグラ、100年頃の建造で、幅約75m、長さ約150mの楕円形の舞台をもつ円形闘技場、バルバラの公共浴場などがあります。1700年近くに及んで各時代で改修がなされ、付け足されていったため、様々な様式の混成がなされています。聖母マリア聖堂は、1235年から1260年にかけて建てられたゴシック様式の聖堂です。ドイツに残るこの様式の聖堂としては最古の部類に属します。かつてこの聖堂にあった彫刻群の一部は、トリーアの司教座博物館に移されています。

    (真鍋 亜沙子)

    22.フェルクリンゲン製鉄所

    フェルクリンゲン製鉄所 (Völklinger Hütte) は、ドイツの1世紀を超える歴史を持つ旧製鉄所である。銑鉄精錬の全工程を追体験できる施設は他に類例がない。この製鉄所は『工業文化のイコン』あるいは『労働のカテドラル』と称される。

    1994年、ユネスコはフェルクリンゲン製鉄所を世界遺産に登録した。これは産業遺産としては世界初の例であった。2007年にはドイツにおける歴史を象徴する産業建築にノミネートされた。

    世界文化遺産フェルクリンゲン製鉄所は、現在ヨーロッパの産業文化遺産の中で最も重要な位置を占めている。ヨーロッパ産業遺産の道のアンカーポイントである。また、フェルクリンゲン製鉄所内では多くの文化行事が開催されており、年間20万人を超える訪問者がいる。

    歴史
    すべては、1873年に製鉄技術者のユリウス・ブーフがザール川に面したフェルクリンゲン近郊に製鋼所を創設したことに始まる。この製鋼所は、わずか6年後には銑鉄に対する高い関税が原因で精錬の採算が合わなくなったため、閉鎖された。

    フェルクリンゲン製鉄所 (Völklinger Hütte)
     フェルクリンゲン製鉄所の歴史は、1873年、ドイツとフランスの国境に近いフェルクリンゲン近郊に製鋼所が建造されたことに始まる。フェルクリンゲン一帯と近隣の地域では石炭と鉄鉱石が豊富に産出されたため、製鉄所としては絶好の立地であった。1986年に製鉄所が閉鎖されるまで、100年以上ものあいだ時代の情勢に沿いながら稼働を続けた。フェルクリンゲン製鉄所が誇った鉄の大量生産技術はドイツの鉄鋼業を世界屈指の産業へと躍進させたが、第二次世界大戦中にはナチス政権下で兵器の製造も行われた。戦後、奇跡的に無傷で残ったフェルクリンゲン製鉄所は、大戦中とは一転、ヨーロッパ復興の一端を担う事となった。
     この巨大で稀有な産業建築は『労働のカテドラル(大聖堂)』と称され、今も全盛期の姿のまま残っている。1994年に産業遺産として世界遺産に登録され、現在は展覧会などの文化行事も開催されている。

    (星 遼子)

    23.メッセル・ピットの化石地域

    メッセル採掘場は、ドイツ・ヘッセン州の村メッセル(Messel)近くにある油母頁岩の採掘場跡地である。フランクフルト・アム・マインの南東約35km のところにある。ここからは大量の化石が出土しており、その地質学的・古生物学的な重要性から、1995年12月9日にユネスコの世界遺産(世界自然遺産)に登録された。

    特色
    メッセル採掘場から大量の化石が出土することは、1900年ころには知られるようになっていたが、きちんとした科学的な発掘が行われるようになったのは、1970年代頃からである。露天掘りの採掘場は地下60 m ほどのところに約1km²(正確には1 km x 0.7 km)広がっている。

    メッセルの堆積物が形成されたのは始新世にあたる5000万年前のことで、当時のヨーロッパ大陸は今よりも10°南にあった。このため、気候も生態系も現在とはずいぶん違っており、一連の大きな湖の周囲に鬱蒼とした亜熱帯林が繁り、信じられないほどの生物多様性が育まれていた。メッセルの湖底はおそらく流入してくる大小の川の中心点にあたっていた。

    一帯の主な岩石である油母頁岩は、泥と枯れた植物が湖底に無酸素状態でゆっくりと堆積してできたものである。それが地下130mにまで広がり、その上に砂岩の層が載っている。化石が頁岩の中に非常に美しく保存状態も良好な形で閉じ込められたのは、湖に独特な堆積上の特質による。湖の上の方は有機体が多く、それだけ掻き回されるが、湖底には流れがほとんど無くて掻き回されないことから、無酸素状態が醸成されたのである。これによって、湖底の泥に埋もれて暮らす生物種はこのニッチに住まうことができず、生物攪拌(bioturbation)が最小限に保たれたのである。また、季節変動で生じる湖水の層の入れ替わりは、水面近くの酸素含有量を下げ、水棲生物の季節的な「絶滅」を引き起こした。このことは、1年間に1mmという相対的に緩慢な堆積速度と相俟って、動物相と植物相の保存にとって最上級の環境を用意することになったのである。(写真:説明パネル

    火山ガスの放出
    メッセル採掘場周辺の地域は、始新世には地質学的にも構造学的にも活発だったと考えられている。主導的な科学者たちは、1986年にアフリカのニオス湖で起こったガス噴出のような現象が、非水棲生物種の大規模な堆積を説明しうると考えている。定期的な湖水の層の入れ替わりが、大規模に凝集していた二酸化炭素や硫化水素のような作用しやすい気体を湖や隣接する生態系に解き放ち、それがガスに敏感な有機体を殺したのかもしれない。こうしたガスが放出されている一時期に湖面近くを飛んでいた鳥たちやコウモリたちは落ちただろうし、湖岸近くの陸棲生物たちも被害を受けたと考えうるのである。

    化石
    メッセル採掘場は、これまでに発見された始新世の植物相・動物相の痕跡の中で、最も良好な保存状態を示しており、多数の完全な骨格、種によっては羽毛や皮膚の痕跡さえみつかる。 メッセルで見つかった化石の一部を簡略にまとめると以下の通りである。

    * 様々な魚類の化石10000点以上
    * 水棲や陸棲の昆虫の化石数千点。中にはくっきりと色が残っているものもある。
    * 小型のウマ、大型のネズミ、霊長類、オポッサムやアルマジロの仲間、ツチブタの仲間、コウモリなどを含む小型哺乳類
    * 特に捕食性の鳥などの多くの鳥類
    * ワニ、カエル、カメ、サンショウウオなどの爬虫類や両生類
    * 椰子の葉、果実、花粉、樹木、クルミ、ブドウの蔓などのはっきりとした植物の残骸31点以上


    メッセルで出土した化石


    色が残っている化石

    世界遺産
    メッセル採掘場は、風化しやすい岩質のため、化石の発掘は余り熱心に行われてこなかった(現在では出土した化石を樹脂で固めて保存することが行われている)。1971年に油母頁岩の採掘場が廃止されたときには、跡地を産業廃棄物の投棄場とする計画が持ち上がった。

    専門家や市民が反対運動を根強く行った結果、州政府は計画を撤回し、一帯はゼンケンベルク自然研究協会の管理のもとでの自然保護地域となった。

    1995年には世界遺産にも登録された。ドイツ初の世界自然遺産であり、2009年の第33回世界遺産委員会終了時点では、ドイツが単独で保有する唯一の自然遺産でもある。
    Wikipediaより)

    24.ロルシュの大修道院とアルテンミュンスター

    ドイツ南西部に位置するヘッセン州のロルシュにある、ベネディクト派修道院(ドイツ語: Benediktiner-Abtei und Kloster Altenmünster)がいつ建てられたのか、そしてどのような目的によって建てられたのかは未だ定かではない。
    しかし、この修道院の始まりはおよそ764年頃だと考えられている。もともとはフランク王国の貴族であったカンコルとその母による、自身の領土における修道院の建設がこの修道院の始まりであった。カンコルが施設の管理を甥でメス大司教のクロテガングに委ねると、クロテガングは修道院と聖堂を奉献し最初の修道院長を務めることになる。
    766
    年にはメス大司教としての職務への復帰を理由に修道院の管理を弟のグンデランドに全て任せることにした。グンデランドは、聖ナザリウス(ディオクレアヌス帝の時代に殉教した聖人)の遺骸を手に入れることにより、修道院への巡礼者の増加をねらい、76571日にバシリカ式聖堂にその聖遺物を儀式のもとに納めた。それ以来、この修道院とバシリカは、聖ナザリウスにあやかるかたちで有名になった。中心の聖堂は、カール大帝の治世下にあたる774年に、マインツ大司教によって聖ペテロ、聖パウロ、聖ナザリウスの三者に献堂された。聖ナザリウスの聖遺物がロルシュにやって来たことで様々な奇跡譚が作り上げられたとされ、ヨーロッパ各地から巡礼者たちが訪れるようになった。

    (正岡玲奈)


    25.ヴュルツブルク司教館、その庭園群と広場


    ヴュルツブルク 領主司教館
     ロマンチック街道の起点に位置するヴュルツブルクの歴史は古く、紀元前には既にケルト人がマイン川沿いに城砦を築いていたという。神聖ローマ帝国時代、この地の領主司教になったヨハン・フィリップ・フランツによって自身の財力をもとに権力の象徴として建てた司教館が建てられた街として現在は知られている。バロック建築の傑作ともいわれるその美しさは、かのナポレオンも「ヨーロッパ一美しい館」と讃えたほどである。
     バロック建築様式を代表し、ヨーロッパ屈指の宮殿との呼び声も高いこの建築物の設計をしたのは、駆け出しの新人建築家、バルザタール・ノイマンだった。司教館を入って間もなくたどり着く、柱を使わずに鉄で強度を高めた大空間「階段室」にまつわる逸話はノイマンの代表的な伝説である。当時の建築常識にはない構造で作られたこの部屋の強度に問題があるとの建築学会からの批判に、ノイマンは「ここで大砲を放ってもよい」と反論をした。後年、第二次世界大戦中に爆撃で司教館は破壊されたが階段室は崩れずに残り、ノイマンの論が正しかったことを証明することになってしまったというものである。
     広大な皇帝庭園に囲まれた司教館は、
    5つの大広間と300以上の部屋からなり、繊細なレリーフ装飾や吹き抜けの大天井を彩る世界最大のフレスコ画は、今でも多くの人の心を魅了し続けている。

    (正岡玲奈)

    26.バンベルクの旧市街

    バンベルク 旧市街


    画像:旧市庁所(URLimamiya.jp)

    バイエルン州バンベルク市にある旧市街は千年以上の歴史を持ち、第二次世界大戦の被害を免れたため中世の景観がそのまま維持されている。その美しい町並みは「バイエルンの真珠」と言われるほど。
    バンベルク旧市街にはバンベルク大聖堂、アルテンブルク城、聖ミヒャエル修道院など数多くの歴史的な建築物があるが、なかでも有名な建築物は上の画像にもある旧市庁所である。この旧市庁所は14世紀に市民と司教の境界線をなくそうという理由から建てられ、ドイツでも非常にユニークな形をしている。建物の前面はバロック様式の絵画が飾られ、中心はゴシック様式で出来ている。建て増しされた木組みの建物はロッテマイスターハウスと呼ばれる建物で、まるで川に浮かんでいるかのように見える。

    ・世界遺産登録年:1993(文化遺産)
    ・アクセス
    • ニュルンベルクからICEで約30
    • ミュンヒェンからICEで約2時間30

    (並木 恵)

    27.シュパイヤー大聖堂

    シュパイヤー 大聖堂(ユネスコ世界遺産1981年登録)

      
                  


















    (
    写真URLhttp://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards135.html)
    ドイツの南西、ライン川沿いの町のシュパイヤーは、10世紀~11世紀にかけて交易都市として発展しました。皇帝たちが建立し、大聖堂を力の象徴、最後の憩いの場所、つまり墓所として選びました。皇帝が自らの権威を示すために造らされた大聖堂は「カイザー・ドーム」と呼ばれ、ザリエル王朝の皇帝コンラート二世は、国で最も栄えていたこの町に4本の塔をもった大聖堂を建設します。平面図を見ると建物は、キリスト教の十字架の形をしています。大聖堂は全長133メートルで、ドイツ国内で最も大きく貴重なロマネスク様式の建造物の一つです。大聖堂の地下にはドイツ最大といわれる地下空間が設けられ、コンラート二世をはじめ歴代の皇帝や皇后が葬られています。

    (平野 里奈)

    28.マウルブロンの修道院群

    マウルブロン 修道院と修道院町


    上:ameblo.jp/success-dragon/entry-11052680616.html
    下:www.germany.travel/jp/towns-cities-culture/un...

    マウルブロン修道院(Das Kloster Maulbronn)は、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州に残る中世の修道院です。ヨーロッパに残る中世のシトー会修道院の中でも、付属する建造物群も含めた総体が、最もよく保存されています。マウルブロンの町外れにありますが、町とは城壁で隔絶されています。修道院の設立は1147年で、1178年にロマネスク様式からゴシック様式への移行的な様式で建てられた付属教会はシュパイアー司教のアルノルトの手で献堂が行われました。診療所、食堂、貯蔵室、総会室、玄関、南の回廊、ホール、鍛冶場、宿泊所、桶工場、製粉所、礼拝堂といった様々な建物は、13世紀中に建てられていきました。北、西、東の回廊は、最も要塞化が行われていた14世紀のものです。また、この修道院はノーベル文学賞受賞作家ヘルマン・ヘッセの自伝的な小説『車輪の下』の舞台としても知られています。

    (田中 亮自)

    29.ローマ帝国の国境線

    ローマ帝国の国境線は、ユネスコの世界遺産登録物件名である。ローマ帝国の繁栄と衰退を残す文化的景観が評価されて、1987年にイギリスのハドリアヌスの長城が単独で登録された。その後、2005年にドイツのリーメスを拡大登録した際に現在の名称となり、2008年にはイギリスのアントニヌスの長城も含まれることが決定した。

    ハドリアヌスの長城
    ハドリアヌスの長城は、イングランド北部のスコットランドとの境界線近くにある長城で、1世紀後半に版図にブリタニアを組み込んだローマ帝国がケルト人のうち、ローマに服従していないピクト人など北方諸部族の進入を防ぐために築いた。皇帝ハドリアヌスが長城の建設を命じ、122年に工事が開始される。

    ニューカッスル・アポン・タインからカーライルまでの118kmにも及んだ。壁の高さは4から5m、厚さ約3m。後の方で建設された部分は、約2.5mに狭くなっている。完成当初は、土塁であった。その後、石垣で補強されたと考えられている。約1.5kmの間隔で、監視所も設置されていた。

    リーメス
    リーメスまたはリメス(Limes)は,ドイツのライン川とドナウ川の間に残るローマ帝国時代の長城跡。リーメスの建設は、紀元前2世紀頃から始まり、目的としては、ゲルマン民族の侵入からライン川・マイン川流域の肥沃な土地と通商路を守るためであった。リーメスの遺構は、主に長城と物見櫓、砦に分けられる。

    長城の総延長は約550kmで、東はドナウ川から西はライン川まで達する。長城は大きく分けて、北部ドイツ(Upper-German、約 330km)とラエチア(Raetian、約220km)の2つの部分に分けられる。北部ドイツ部分は、ライン川とライン川の支流であるマイン川に沿って、土塁による長城と堀が設けられていた。堀は約8mの幅と約2.5mの深さを持っていた。また北部ドイツ部分には長城にそって約40の砦が築かれていた。ラエチア部分は、うち約167kmは高さ約3m、幅1.2mの石塁で築かれた。石塁は、付近から産出する石を使用していた。

    物見櫓は長城の塁に沿って、およそ300mから800mの間隔で建てられた。現在、896箇所が確認され、うち260箇所は現在でも構造の一部が残る。櫓の構造は、土台が4mから8mほどの大きさの正方形をしており、その上に見晴台が築かれたと推定されている。

    長城に沿って、大型のものは約60以上の砦跡が確認されている。大型の砦には1つあたり約100から1000人程度の守備隊が配置され、長城の警備および長城を通過する人々を管理する関所の役割を果たしたと考えられている。また20から30人の配置規模の偵察や監視を目的とした小さな砦も多数存在していた。

    リーメスの砦の中で調査が行われているものの1つのザールブルク砦(Saalburg fort)は、北部ドイツの部分に属し、砦の初期は紀元前90年頃の建築と推定され、長方形の形をしており、面積は約0.7haであった。ザールブルク砦の発掘調査は、19世紀後半から始まった。1897年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、このザールブルク砦の再建を命じ、第一次世界大戦前に完成した。現在ではこの時に復元されたザールブルク砦が博物館として使用されている。(写真:復元されたザールブルク砦

    アントニヌスの長城
    長城の建築はアントニヌス帝の統治下、西暦142年から144年にかけて行われた。長城はクライド湾沿いの古キルパトリック(ウェスト・ダンバートンシャイア)からフォース湾沿いのフォールカークまで60キロに及んでいる。長城は160キロ南にあるハドリアヌスの長城に代わるものとして建設されたが、ローマ人は城壁北方に城堡や基地を築き、スコットランド人(カレドニア人)を征圧できなかったため、長城は幾度もの攻撃にさらされた。ローマ人は長城から北を「カレドニア」と呼んだ。ただし、この場合の長城はハドリアヌスの長城を指すこともある。

    アントニヌスの長城はハドリアヌスの長城に比べ、規模や構築物の点で見劣りがするが、寒さ厳しいローマ帝国の北辺にたった2年で建設されたということを考えると、驚嘆すべき業績といえる。長城は北に幅広の堀を、南に軍道を持つ高さ4メートルの土塁だった。ローマ人は長城の6マイル(9.66キロメートル)ごとに堡塁を設ける計画をしていたが、結局のところ、城壁沿いの19個の堡塁にあわせて2マイル(3.22キロメートル)ごとに改められた。最も保存状態が良いものは、最小の砦の一つでもあるラフ・キャッスル砦である
    Wikipediaより)

    30.レーゲンスブルクの旧市街とシュタットアムホーフ

    レーゲンスブルク 旧市街とシュタットアムホーフ
    レーゲンスブルクはミュンヘンの北140kmの場所にあるドナウ川湖畔の美しい古都。世界遺産では、当時の姿を伝えるドナウ南岸の旧市街と、対岸のシュタットアムホーフにある旧聖カタリナ慈善病院が登録されている。ローマ時代からドナウ川沿いの重要な役目を果たす場所であった。旧市街にある大聖堂や狭く曲がりくねった石畳の道、レンガの家並みが特徴。ドナウ川近辺を散歩するのも街の雰囲気が味わえる。

    (朝崎 真実)

    31.僧院の島ライヒェナウ

    ライヒェナウ島 (Insel Reichenau)は、ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州のコンスタンツ湖に浮かぶ島。コンスタンツ市のほぼ西側にある。島は人工の道で本土とつながっている。2000年にユネスコの世界遺産に登録された。島にはライヒェナウ修道院が建つ。修道院内の聖堂は、聖母マリアと聖マルコに捧げられたものである。他に、聖ゲオルクと聖ペトロ、聖パウロに献堂された教会が2つある。ライヒェナウの有名な芸術作品には、10世紀から残るオットニアン・ルネサンス期(ザクセン王朝の神聖ローマ帝国時代の様式)の『キリストの奇跡』の壁画が含まれる。 修道院の代官所は2階建ての石造りの建物で、2階より上の階は14世紀に半木造建築からなっている。これは南ドイツにおける半木造建築で古い物の一つである(写真;聖ゲオルク教会

    修道院周囲に広大に広がる土地を所有しているのは、修道院にちなんで名付けられた村ライヒェナウである。

    現在、島は野菜とワイン生産で有名である。島の近隣には大きな湿地帯Wollmatinger Riedが広がり、渡り鳥の休息地となっている。

    歴史
    島の名前はアレマン語でSindleozesauuaと呼ばれたが、短縮してOw、Auua呼ばれていた(ラテン語を変換したAugiaからきたもので、のちにRichenowが転じてライヒェナウとなった)。

    ベネディクト会派のライヒェナウ修道院は、ムーア人侵攻でスペインを逃れ、諸国を放浪していた聖ピルミニウスによって建立された。彼はカール・マルテルやアハロフィンガー伯、シュヴァーベン公などの庇護を受けていた。ピルミニウスは地元の諸侯と対立して院長の地位を727年に辞した。彼の後を継いだハットはホーエンツォレルン伯の縁者で、修道院はそのために潤沢な資金が注がれて華やかな地位を獲得した。帝国や諸侯の尚書を務めたヴァルドー(740年-814年)の元でカロリング朝の多大な影響を受けた。院長ヴァラーフリート(任:842年-849年)は、詩人・ラテン語学者として知られた。

    修道院は、湖上を渡る困難なルートである、ドイツ=イタリア間の南北に伸びる幹線道路沿いにあった。ライヒェナウ修道院内には神学校、写字室、工房が建てられた。神聖ローマ帝国に属するスイスのこの場所は、10世紀後半から11世紀後半にかけて、色模様・飾り文字で飾られたきらびやかな写本を生み出す芸術的影響を持つ場所となった。神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世のために作成された『ハインリヒ2世の写本』が写字室の作品として知られ、現在はミュンヘンにある。

    修道院は院長ベルノ(1008年-1048年)の代に絶頂期を迎えた。この時代、重要な学者ヘルマヌス・コントラクトゥスがライヒェナウに住んで活動していた。11世紀半ば、ローマ教皇グレゴリウス7世の限定的改革、近くにある競争相手ザンクト・ガレン修道院の台頭があり、修道院の重要性は次第に失われていった。1540年、ライヒェナウ修道院長の古くからの競争相手であるコンスタンツ司教がライヒェナウ卿となり、司教がこの地位を引き継いでいくにつれ、修道院の壮麗さは輝きを失っていった。

    修道院の土地は世俗化され(1757年に始まり1803年に完了)、侵攻したナポレオンによって聖職者たちは放逐された。ライヒェナウの栄光の一部である書庫は、カールスルーエで国立図書館Landesbibliothekとして保存された。『バイエルン地誌』(:en:Geographus Bavarus)やその他多くの重要な記録はミュンヘンのバイエルン州立図書館で見つかった。2001年から、ベネディクト会派の信仰共同体は、ニーダーツェルで再建された。(Wikipediaより)

    32.ヴィースの巡礼教会


    ヴィースの巡礼教会はドイツバイエルン州南部、ヴィースにあるキリスト教教会である。1745年から1754年にかけてヨハン・バプティストとドミニクス・ツィンマーマンによって建てられた。ヨーロッパで最も美しいロココ様式の教会のひとつとして称えられるヴィース教会は、のどかな草原の真っただ中に建てられている。
     外見では想像ができないが、一歩足を踏み入れると左写真のような豪華で華麗な装飾と鮮やかな色彩のシンフォニーに包まれている。内部の装飾はヨーロッパ随一と言われており、特にその天井画は「天から降ってきた宝石」とも讃えられている。
    また、この教会には奇跡の伝説がある。それは、1738年にある農家の夫人がシュタインガーデン修道院の修道士が彫った「鞭打たれるキリスト」の木像をもらい受けたところ、614日このキリストの像が涙を流したという話である。教会ではこれを奇跡とは認定しなかったが、この噂は「ヴィースの涙の奇跡」として広まり、巡礼者が農家に集まるようになった。
    ヴィース教会は、ロマンティック街道、ドイツ・アルペン街道の観光スポットの一つとなっている。
    1983
    年に世界遺産に登録された。(写真Googleより)

    (大橋 美和)

    33.ベルリンのモダニズム集合住宅群

    ベルリンのモダニズム集合住宅群

    世界遺産に登録されているのは、ベルリンにある6つの集合住宅(Siedlung ジードルング)で、1913年から1934年にかけて建築されました。建築、設計はバウハウスの初代校長ヴァルター・グロピウスや、桂離宮における日本再評価で有名なブルーノ・タウトなど、当時のモダニズム建築において有名な建築家たちによってなされました。集合住宅は、採光や自然とともに生活できる環境作りなど、当時の低所得者層の生活環境を改善することが目的とされました。ジードルング建築は、当時の一般市民の生活環境や様式を今へと受け継いでいて、現在の集合住宅様式にも大きく影響を与えています。ちなみに、約100年前に建てられた多くの集合住宅には、今でも一般市民の方が住んでいて、運が良ければ住居内を案内していただけるかもしれません。

    (渡辺 洋介)

    http://www.exblog.jp/blog_logo.asp?slt=1&imgsrc=200807/11/46/e0092446_1274717.jpg

    34.ワッデン(ヴァッテン)海国立公園

    ワッデン海(オランダ語:Waddenzee、フリジア語:Waadsee、低地ザクセン語:Wattensee、ドイツ語:Wattenmeer、デンマーク語:Vadehavet)は、北西ヨーロッパ大陸の一部と北海の間に横たわる水域とそれに関連する海岸の湿原の名前である。(右写真:ドイツ、ヴィルヘルムスハーフェン付近のワッデン海

    南西端のオランダのデン・ヘルデルから、ドイツの河口をいくつか越えて、北端のデンマークのエスビャウ北部のSkallingenまで、全長約500kmにわたって、約10,000 km²の面積に広がっている。

    陸と海が絶えずせめぎあうこの地の、干満のある広大な干潟やそれより深い溝そして群島に代表される。その地形は、大部分が激しい潮流によって形成された。

    ワッデン海は、豊かな動物相、鳥類相そして植物相で知られている。今日、ワッデン海の大部分は、周辺3か国の協力で保護されている。ドイツ国境内の保護地域については、ワッデン海国立公園を参照。1987年5月には約15万ヘクタールがラムサール条約登録湿地となった。

    オランダ、デンマーク、ドイツ政府は、ワッデン海の保護と保存のため1978年から共に活動している。協力は、政治的問題だけでなく管理、監視、調査に及ぶ。さらに、1982年に、「ワッデン海の保護に関する共同宣言」が、ワッデン海の保護のための対等の活動と方策について合意された。1997年には、「三国間ワッデン海計画」が、採択された。

    フリース人の一部は、ワッデン海で伝統的なスポーツすなわち泥歩き(ワドローペン)のレクリエーション、つまり引き潮の海を歩き回ることを習慣的に行う。

    "wad"という語は、干潟というオランダ語であることに留意されたい。

    Wikipediaより)

    35.カルパチア山脈の原生ブナ林群とドイツの古代ブナ林群

    カルパチア山地のブナ原生林/ドイツの古代ブナ林群(2011年登録)


    国境を越えて3か国にまたがる自然遺産。「カルパチア山地のブナ原生林」(ウクライナ及びスロバキア共和国)2007年に登録されていたが、2011年にドイツの古代ブナ林群、すなわちドイツ北東部と中部に分布する5つの古代ブナ林群(ヤスムント、ザラーン、グルムジン、ハイニッヒ、ケラヴァルト)も登録され、自然遺産としての範囲が拡大されたのである。世界最大のヨーロッパブナの原生地域。東西185kmにわたる。ブナのみならず、モミ、裸子植物、カシなどとの混交林もみられ、植物多様性といういみでも重要。















    〈写真
    URLhttp://4travel.jp/traveler/keine-ahnung/album/10581114/











    参考文献〉
    『世界遺産年報2008No. 13、日本ユネスコ協会連盟、2007年。
    『世界遺産年報2009No. 14、日本ユネスコ協会連盟、2008年。
    〈参考HP
    http://worldheritage.travel.yahoo.co.jp/detail.html?wc=1816
    〈クイズのこたえ〉
    ① Nur in Hainich sind die Alten Buchenwälder.  ハイニッヒにしか古代ブナ林群はありません。
    ーァ イニヒ ィント ィー ルテン ーヘンヴェルダー
    ② Auch in Grumsin sind die Alten Buchenwälder.  グルムジンにも古代ブナ林群があります。
    オホ ムジン ィント ィー ルテン ーヘンヴェルダー

    (文責・志村二朗、2011121)

    36.アールフェルトのファグス靴工場

    ファグス靴工場
    ファグス靴工場は1911年にハノーファーの近くのアールフェルトで、バウハウスの建築家ヴァルター・グロピウスとアドルフ・マイヤーによって建てられました。ガラスや鉄といった新素材を使った建物は、それまでの頑強な石造りの建物とは違い、エレガントで開放的な印象を与えてくれます。壁面が全面ガラス張りのカーテンウォールという工法は、同じく世界遺産のバウハウスなど現在でも世界各地で見ることができます。工場では今なお靴の生産が続けられています。そして、2000年にハノーファーで開催された博覧会を機に改修され、工場内に博物館が併設されました。ファグス靴工場は、最初のモダニズム建築とされていて、近代建築を学ぶ上で是非とも訪れたい場所です。

    (渡辺 洋介)


    http://4travel.jp/overseas/area/europe/germany-niedersachsen/pict/22520819/#contents_inner

    37.先史時代の湖畔住居群

    アルプス山脈周辺の先史時代の湖上住居遺跡群

     


    スイス、ドイツ、イタリア、フランス、オーストリア、スロヴェニアにまたがるアルプス周辺の、111カ所に残された、紀元前5000〜500年に造られた住居跡。全体で111カ所の遺跡が含まれているが、そのうちの半数の56カ所がスイスにある遺跡群。住居は沢山の支柱の上に建てた高床式で、アルプス山脈周辺の湖畔、川辺、湿地の広範囲に点在。 特に「ラ・テーヌ期」と鉄器時代の語源にもなったヌーシャテル湖北岸には、湖畔や水上に建てられた住居跡があり、当時の建物を復元されている。考古学パークと博物館と研究センターが一体となった複合施設「ラテニウムLatenium」もあり、ヨーロッパの新石器時代と青銅器時代の歴史をひもとく貴重な資料である。
     もともと、メインの遺跡があるスイスから「ヌーシャテル州の湖畔住居群」として申請していたが、アルプス山脈がまたがるドイツ、オーストリア、フランス、ドイツ、イタリア、スロヴェニアにも類似した遺跡があるということでアルプス全体での世界遺産申請となった。
     スイス北西部、首都ベルンから北西に約60kmの町ヌーシャテルなどからアクセスできる。

    (柳川 早久)


    スイス観光局URL
    http://www.myswiss.jp/jp.cfm/culture/unesco/offer-Culture-World_Heritages-346140.html
    写真出典元
    http://www.myswiss.jp/jp.cfm/culture/unesco/offer-Culture-World_Heritages-346140.html

    38.バイロイト辺境伯歌劇場

    文化遺産として2012年に登録されました。

    39.ベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエ

    文化遺産として2013年に登録されました。

    40.コルヴァイのカロリング期ヴェストヴェルクとキウィタス

    文化遺産として2014年に登録されました。

    注)13番の「ドレスデンとエルベ渓谷」は、2006年に景観を損ねる橋の建設を理由に、世界遺産リストから削除されました。

    ユネスコ世界遺産に登録されているオーストリア国内の世界遺産の一覧。現在の登録は文化遺産のみです。


    austria_Heritage_map

    1.ザルツブルク市街の歴史地区

    オーストリアで最初に世界遺産登録されたものの1つ。ザルツブルク(塩の城)という名前は、昔、岩塩の交易によって栄えていたことから名付けられた。映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となったことでも有名。ザルツァッハ川左岸の旧市街に教会や歴史的建造物が数多く残っているほか、モーツァルトの生家もある。

    2.シェーンブルン宮殿と庭園群

    シェーンブルン宮殿は首都ウィーンにある宮殿。オーストリアで最初に世界遺産されたものの1つ。皇帝フランツ・ヨーゼフと“シシィ”の愛称で知られる皇妃エリザベートを始めとしたハプスブルク王朝の歴代君主の離宮として使われていた。現在、宮殿の一部が改築され、ホテルとして宿泊可能になっている。
    http://www.austria-trend.at/de/hotels/schloss-schonbrunn-suite

    3.ザルツカンマーグート地方のハルシュタットとダッハシュタインの文化的景観

    ザルツカンマーグート地方は、ザルツブルクの東方に位置するオーバーエスターライヒ州とザルツブルク州にまたがる地域のことを指す。ザルツブルクと同様に岩塩の採掘と深い関係がある。山や湖が数多くあり、湧き出る鉱泉は湯治に利用されるなど、リゾート地の一つとなっている。

    4.ゼメリング鉄道

    19世紀半ばに完成した世界初の山岳鉄道で、鉄道全体が世界遺産に登録されている。グロッグニッツ駅から出発、ゼンメリング駅を経由しつつアルプスを越え、ミュルツシュラーク駅まで走る。走行距離は、全長41.850km、高低差は460mに達する。

    5.グラーツの市街-歴史地区とエッゲンベルク城

    グラーツは、シュタイアーマルク州の州都であり、オーストリア人口第2位を誇る都市。中世以降、様々な建築様式が流入する中で、それぞれが調和し独特の景観を作り上げ、保持していることが評価され、世界遺産登録された。中欧の中でも、伝統的な街並みがよく残っている街の一つである。2010年には、街から3km西方にあるエッゲンベルク城も拡大登録された。

    6.ヴァッハウ渓谷の文化的景観

    オーストリア北部、ドナウ川下流域に広がる地域で、メルクとクレムスの2つの街のあいだ、36kmにわたる渓谷全体が世界遺産として登録されている。川の両岸には城や修道院が多くあり、ドナウ川を下るクルーズが人気である。また、急斜面を利用したぶどうの産地でもあり、白ワインが有名。

    7.ウィーン歴史地区

    古代ローマ時代から長い歴史を持つ首都ウィーンには、さまざまな歴史的建造物が残されている。ハプスブルク家の宮殿として使用されていたホーフブルク宮殿、ゴシック様式のシュテファン大聖堂、バロック様式のベルヴェデーレ宮殿、ドイツ語圏でも名高いブルク劇場などである。また「音楽の都」としてヨーロッパの文化史において非常に大きな役割を果たしたことも評価されている。

    8.フェルテー湖/ノイジードル湖の文化的景観

    ノイジードル湖は、オーストリアとハンガリーにまたがる中欧では二番目に大きな湖である。オーストリアではドイツ語でノイジードル湖、ハンガリーではハンガリー語でフェルテー湖と呼ばれる。水深が非常に浅く、「湿地」と呼ばれていたこともあった。

    9.アルプス山脈周辺の先史時代の杭上住居群

    杭上住居とは、いってしまえば高床式住居のことで、紀元前5000年から500年くらいにかけてアルプス山脈周辺で、特に湖上にせり出す形で建設されたものが世界遺産登録された。遺跡群は複数国(スイス、イタリア、ドイツ、フランス、オーストリア、スロベニア)にまたがっているが、オーストリアにはヴェルター湖、アッター湖、モント湖などに5件の遺跡がある。

    ユネスコ世界遺産に登録されているスイス国内の文化・自然遺産の一覧。


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    1.ベルン旧市街

    スイスの首都でもあるベルンは、1191年にツェーリンゲン家のベルヒトル5世によって作られた。中世ヨーロッパの街並みを今なお残す旧市街は、自然の城壁としてアーレ川に三方を囲まれ、残りの一方には城壁が築かれた。

    2.ザンクト・ガレン修道院

    ザンクト・ガレン修道院は、スイス北東部に位置する都市ザンクト・ガレンにある18世紀に建てられたバロック様式の修道院である。何世紀ものあいだ、カトリック教会最古の修道会であるベネディクト修道会の中心的修道院であった。そのため、付属の図書館には、数多くの写本や稀覯書が残されている。

    3.ミュスタイアのベネディクト会聖ヨハネ修道院

    スイス東部、グラウビュンデン州の都市ミュスタイアにあるベネディクト修道会の旧修道院。780年にフランク王カール大帝の命によって建設された。スイスに残るカロリング様式の建造物の中で最古のものでもある。

    4.ベッリンツォーナ旧市街の3つの城と防壁・城壁群

    3つの城とは、スイス南部に位置するティチーノ州の州都ベッリンツォーナにあるカステルグランデ、モンテベッロ城、サッソ・コルバロ城の3つのことを指す。これらの城は、13〜15世紀にかけて建築された中世の軍事建築である。ベッリンツォーナはアルプス山脈の南に位置する渓谷の入り口に位置しており、監視に適した土地柄であったとされる。

    5.ラヴォーのブドウ段々畑

    スイス南西に位置するヴォー州にあるレマン湖北にある丘陵地帯が世界遺産として登録されている。土地を生かしたブドウ栽培が11世紀頃から行われており、スイスを代表するワイン産地の一つである。こうしたワインづくりの長い伝統が世界遺産登録の決め手となった。ラヴォーのワインには、8つの銘柄があり生産している村の名前が付けられている。

    6.レーティッシュ鉄道アルブラ線・ベルニナ線と周辺の景観

    レーティッシュ鉄道のアルブラ線(クール−サンモリッツ)とベルニナ線(サンモリッツ−ティラーノ)は、スイスのグラウビュンデン州からイタリアのロンバルディア州ソンドリオ県にかけて走っており、スイスとイタリアにまたがる世界遺産。登山鉄道はラック式(レールと歯車の噛み合わせで走る)が多いが、レーティッシュ鉄道は粘着式(レールと車輪の摩擦で走る)を採用している。これは、ヨーロッパで一番高い場所を走る粘着式鉄道でもある。

    7ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックル、時計製造業の都市計画(2009年)
    スイス北西のヌーシャテル州にある都市ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックルは、時計製造が盛んな町である。こうした伝統的な時計製造業と結びつけた都市計画が評価され、世界遺産に登録された。ラ・ショー=ド=フォンは「時計の帝都」とも呼ばれている。

    7.ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックル、時計製造業の都市計画

    スイス北西のヌーシャテル州にある都市ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックルは、時計製造が盛んな町である。こうした伝統的な時計製造業と結びつけた都市計画が評価され、世界遺産に登録された。ラ・ショー=ド=フォンは「時計の帝都」とも呼ばれている。

    8.アルプス山脈周辺の先史時代の杭上住居群

    杭上住居とは、いってしまえば高床式住居のことで、紀元前5000年から500年くらいにかけてアルプス山脈周辺で湖上にせり出す形で建設されたものが世界遺産登録された。遺跡群は複数国(スイス、イタリア、ドイツ、フランス、オーストリア、スロベニア)にまたがっているが、その中でもスイスにはボーデン湖やツーク湖などに56件の遺跡があり最も数が多い。

    9.ユングフラウ、アレッチ、ビーチホルン地域

    スイス・ヴァレー州にあるアルプス山脈最大の氷河であるアレッチ氷河。北をユングフラウに、南はマッサ川の峡谷とローヌ川に、東はメルジェレン湖、西はアレッチホルンに囲まれている。この氷河が作り出す景観や動植物相が(ヨーロッパの芸術に与えた影響が)評価され、世界遺産に登録された。現在、ヴェッタースホルン、シュレックホルン、アイガー、メンヒ、ユングフラウ、グレッチャーホルン、ブライトホルン、ブリュムリスアルプのそれぞれの山頂を結んだ地域が世界遺産となっている。

    10.サン・ジョルジョ山

    ティチーノ州南部に位置する山で、標高は1097m。ピラミッド型をしているのが特徴である。2億4500万年から2億3000万年前の異なる5つの地層から成っており、この地域からは多くの化石が出土している。化石の出土は、地層的に繋がっているイタリアの一部での出土しており、2010年には登録の範囲がイタリアまで拡大された。

    11.スイスの活発な地殻変動地域サルドナ

    スイス東部のアルプス山脈山中にある巨大な衝上断層(上位の地層が下位の地層に対し45度以下のゆるい角度でずり上がった断層のこと)。こうした衝上断層は珍しいものではないが、グラールス衝上断層は比較的広い範囲にわたってせり上がっており、またその観察のしやすさから造山運動や地質学の研究史において重要な役割を担ってきたことが評価された。